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チャーリー・カウフマン スピーチ Part.9 質疑応答①

司会者デビッド・コックス(以下、DC): 今晩、司会の依頼をいただき、大変光栄に思います。時間を割いて、ここに登壇いただいたチャーリー・カウフマンにもう一度感謝したいと思います。
 
チャーリー・カウフマン(以下、CK):どういたしまして。
 
DC:素晴らしいスピーチでした。ありがとうございました。
 
CK:どういたしまして。
 
DC:講演することは今まで経験がなかったということで、緊張されていましたが、楽しめましたか?
 
CK:どうでしょうか。楽しめたようにも思いますが、まだなんとも言えません。家に帰って、一晩中ベッドの中でゴロゴロと寝返りを打ちながら、考えてみます。それから答えを出します。

DC:今日のようなスピーチの内容をご自身の脚本の中でどのぐらい具体化しているのでしょうか? くつろいでいる時に「あの脚本はまるで講義の内容そのものだ」と思うことはあるのでしょうか? もちろん、脚本というのは、あなたが作り出す無数の声のフィルターを通して出来るものですが。
 
CK:わかりません。先ほども話しましたが、脚本というのは、映画になる必要性があるべきものなのです。私は全力でそういう脚本を作ろうと取り組んでいます。何年か前に、何本か舞台をやりました。基本的にはラジオ劇のようなものなんですが、劇場で演じたのです。「何がこの作品ではうまくいくのか? この作品だけにうまくいくのか?」と考えました。今夜はそれと同じように思考で考えました。「よし、スピーチだ、スピーチの意義やそのあるべき姿を体現してみよう」と。いろいろなアイディアが浮かび、中には演劇的なものもありましたが、大切なことは、ここに立っていることかもしれないと思いました。何かを与えるのではなく、単に自分自身でいればいいと思いました。そうしていることがこの仕事の説明になると思ったからです。
 
DC:ある程度の誠実さに対する重要性を考慮したり、スピーチで仰るように危害のないものを世に出していることを前提にすると、本来は様々な人と協力しあって作るメディアに関わるようになったご自身に対して驚きはありますか?  解釈することに関して、どこまで自分の仕事を他の人に任していますか? 他の人にそうしてもらうことで、汚されたとか無力感を感じたりしたことはありますか?

CK:運がいいことに、これまで非常に協力的な監督と一緒に仕事をしてきました。ですから、監督しなくても、私は自分の書いてきたほとんどのことに対して発言権がありました。ですが、今は一歩踏み込んで監督をすべきだったと思います。それは出来上がった映画に不満があるからではありません。監督には最終的な主導権があることに心が惹かれているからです。
 
DC:『マルコビッチの穴』以降の脚本やプロジェクトは思い通りにできたということですか?
 
CK:そうですが、例外が1つあります。大したことではないのですが……、修正はすべて私自身がやりました。もちろん、そのほとんどは合意のもとです。ですが、私が負けた論争もいくつかあったと思います。ただ、その争いも真摯なものでした。
 
DC:観客を操作する危険性、つまり、芸術家、あるいは――よりふさわしい言葉がみつかりませんが――エンタテイナーとして、観客を巧みに誘導しているような雰囲気の危険性について講演で話していただきました。脚本を書いている最中に、人を楽しませ過ぎじゃないかと心配になり始めて、ストーリーが魅力的になり過ぎていないか、安易なストーリーになりすぎていないかと考えたことはありますか? 強い意思をなんとか維持して、自分自身をチェックして、先ほど講演した価値観に立ち返ろうとしていますか?
 
CK:私が取り組んだ作品、書いた作品を自分で理解しているかどうか、そして、それを書いた理由を自分で理解しているかどうかを確かめてはいます。特に否定することはありませんが、「人を楽しませる」という言葉は私には実に難しい言葉です。その意味することをちゃんと分かってすらいないからです。ですが、私の作品で楽しんでくれる人がいると、うれしいです。私はクレイジーではありません――まあ、クレイジーではあるのですが、大したほどではありません。ともかく、ストーリーとは私の納得できる関係でなければいけません。私はそれを楽しみたいからです。もし誰かが楽しんでくれたら、本当にいいことです。最高です。なぜなら、私の語ったことが人から共感を得られたということだからです。それは素晴らしいことです。そうあってほしいです。ですが、それは私が自分自身のために語ったことでなくてはなりません。
 
DC:そういう考えは映画脚本の世界に入った際に持っていたのですか? それとも、作り上げていったものですか? 『マルコビッチの穴』を書いていた時には、そういう思いはあったのでしょうか? それともキャリアを重ねていく中で、その形が見えてきたのでしょうか?
 
CK:いいえ、まさにそうで、その思いは以前からありました。それが私の取り組んできたことです。『マルコビッチの穴』を書いたのは、私の心を鷲掴みしたアイディアがあったからです。そのアイディアは面白く、脚本には、私にとって現実の問題がたくさん含まれていると思いました。そういった問題がまるでコメディというこし器を通したかのように脚本の中に存在しました。私はコメディが好きですからね。あの脚本は妥協の産物ではありません。ですが、そうですね、それが映画化されることを期待せずに自分自身のために私は書きました。そういう思いは全くありませんでした。
 
DC:ですが、『マルコビッチの穴』以降、この業界の中で仕事をしていると、ある程度痛い目に合う可能性があるいうことをより一層意識するようになったのではありませんか?
 
CK:そのことに関しては強く意識するようになりましたし、同時にこの業界も世の中もこの数年で変わってきていると思っています。以前は、皆さんにもっと多くのチャンスがあったものです。業界は意見の合わない人やとっぴな人などに対してもう少し寛容的だったものです。今ではそんなことはなくなったと思います。ですが、そうですね、私は歳をとり、いろんなことを意識するようになりました。
 
DC:脚本や何か新しいものを書いている時に、そのビジネス面のことを考えますか? それをどうやって売っていこうかと考えますか? 今後待ち受けているかもしれない問題を考えたりしますか? そういうことを考えると脚本作りは難しくなっているのでしょうか? 
 
CK:いいえ。最後の映画以降、脚本を1本書きました。景気も仕事もその最後の映画の頃を境に一変してしまいました。それに加え、私が監督をした映画はほんのわずかしか儲かりませんでした。こういったことが混ざり合わさった結果気づいたことは、物事が自分にとって都合よく進むことがどれほど難しいことなのかということです。ですが、ある意味、それに応える形で次の作品を書きました。自分のやりたいことをためらうこともなく、何かの形にはめ込もうとはしませんでした。

私は「もうこの脚本はやめよう」と思ったのも一瞬で、すぐに「これを書くんだ、自分のやりたいように書いて、どうなるか様子を見てみよう」と考え直しました。そうは言うものの、それは楽なものではありません。自分の脚本で映画が作られることはないだろうとかなり思い込んでいたんです。スタジオは私の脚本にまったく興味を持っていませんでした。そうした中で、資金調達するのは大変な作業でした。
 
DC:あなたの名前がブランドネームとなっているという見方もありつつも、マスコミが「カウフマネスク」という言葉を作るのにそれほど時間はかからないでしょう。また、大衆はあなたの作る映画のタイプを見抜けませんでしたが、独特のスタイルで作品を作り出すだろうとは思っていました。大衆がある特定のことを期待して、そして、自分がある程度名声を得かけていると、にわかに思うのは作家にとって危険なことですか?
 
CK:私自身に関して、そのように思うことはありません。そんな風に思っていません。また、意図的に大衆からの期待を利用しようとしたことは一度もありません。私はどうすればいいのかわからないことに常にチャレンジしていますし、いつも違うことにチャレンジしています。それに、私は、とても特殊な生き方をして、かなり独特な経歴を持つ人間です。それは皆さんも同じです。
私の生み出すアイディアが過去に私から生み出したものと似ているかもしれませんが、その場合、それは採用しないでしょう。それどころか真逆のことを試してみます。私が書き終えたばかりのものは、きっと製作されることになると思いますが、ミュージカルなんです。今までにやったことがなかったので、トライしてみました。

Part.10に続く

このスピーチは2011年9月30日に行われたものです。

スピーチ原文および映像の著作権はBAFTAに帰属し、BAFTAから許諾を受けて翻訳をしています。

スピーチ原文の全文

スピーチの映像

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