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チャーリー・カウフマン スピーチ Part.10 質疑応答②

DC:それから、意識していることがありますね。腰をすえて執筆していると、そこには恐らく楽なゾーンがあると思いますが、そのゾーンから抜け出すことをどうやって確かめるのですか? そのゾーンで実際に書いていると、「簡単すぎる」と思えるものなのでしょうか?
 
CK:いいえ。私にとって楽なゾーンは今晩話していたことのようなものです。私にとって楽なゾーンではないのは、私が世の中で立場が弱くなってしまうことを発言することです。今回の映画は私が考えていることについての映画です。私は執筆時に考えていることから常に書くようにしています。執筆時にはいつもそれに集中するようにしています。なぜなら、それは私が先ほど話そうとしていた視点がある意味で抜け落ちているからです。その楽なゾーンから抜け出して、執筆に取りかかろうとしても、その行く手には、あまりにも多くのストッパーがあります。

私が感情的に胸いっぱいになったり、動揺して落ち着きを失っていたり、大きな不安を抱いてしまうストッパーのある場所を見つける最善な方法は、それ自体をストーリーの内容や映画の内容にしてしまうことです。そしてそれを隠そうとしてはなりません。また、今回書いたのがミュージカルである理由ですが、私はかなり内面的なことを書いてしまう傾向があり、それを表現する新しい手法をいつも模索しているからです。そして、この映画では、ネット上を舞台にしているシーンが多く、コンピューターで孤立している人が大勢います。彼らは誰にも話しかけることをしません。それが当然のごとく彼らの本質であって、彼らには友人がいないのです。そこで、私は彼らの思いを表現をしたいのですが、ナレーションは使いたくありませんでしたし、モノローグも使いたくはありませんでした。そこで、「自分の気持ちを歌ったらどうだろうか?」と考えたわけです。

また、私は作詞をするのが好きなんです。思考力が落ちている時に作詞をしています。韻を踏ませるのが好きです。私にとっては楽しいことです。この映画の中には50曲近くの歌があります。多いですよね。ですが、それはすべて完全な歌ではありません。断片的に作った歌もあります。それに、出演者がみんな揃う曲はなく、とても内面的な詩で、誰も曲に割って入ることはありません。ですので、持ち時間に収まると思います。確かではありませんがね。
 
DC:『脳内ニューヨーク』は監督をされて、新作では言うまでもなく、脚本を書くだけではなくて監督もしていくことになりますね……
 
CK:そうですね。
 
DC:脚本を書いている時ですが、内心では、自分は今や監督経験があるので、自分の執筆した特定の内容や決まった状況のもとでどんな現実的な問題が起こりうるのか見抜けると思っていますか? それとも、監督に映画をいずれ引き渡そうと思っているライターであるかのように振る舞って、そういうことは考えないようにしますか?
 
CK:そういうことを考えないようにしていますが、難しいです。ですが、そうできるようにトライしています。究極的にはそういうことを考えないことが私の目標ですが、監督する予定の作品を取り組む場合、それは以前に比べて難しくなりました。映画の製作にゴーサインが出そうになると、私は「神様、この映画を作りたくありません…」と思ってしまいます。そのプロセスについてさえ考えるのが私にとっては大変なのですが、監督業に取り組んでいくことになるでしょう。私に監督をさせてくれた場合ですが。
 
DC:楽なゾーンから抜け出ることについて、そして、それが大変なことについて、プロジェクトを始める時にそのゾーンからいなくなってしまいたいことについて話していただきましたが、今でも脚本執筆はあなたにとって心から楽しめるものでしょうか? あなたを疲弊させつつも、それと同程度に元気づけるものだと今も思っていますか?
 
CK:いいえ、そのように考えたことはありません。私にとっては元気づけるものではないと思います。
 
DC:実際に公開される時には、映画を楽しめて、そこから満足感を得られるのではないですか?
 
CK:いいえ、そんなことはありません。映画が公開する時には、あまりにも多くの落とし穴があるので、楽しむなんて出来ません。もちろん、映画がヒットして、評価も高ければ、私は嬉しいです。実際にそういった反応が欲しいですが、そうなったからといって気分がいいわけではありません。ただ、気分が悪くならないだけなんです。ひどいことを言われた時には、気分が最悪になります。そんな時は本当に気分が悪いんです。そうなってほしくないと思うのですが、私の場合には現実となってしまうんです。
 
DC:脚本はある程度ですが欲求を満たしてくれます。それは間違いないことだと私は思います。
 
CK:この仕事の目的はとても気に入っています。考えたいことについて考えるようにりましたし、時には人を笑顔にするジョークを書けるようになりました。私が言いたいことは、これは素晴らしい仕事ではありますが、私にとってはとても骨の折れるものだということです。私は机に向かっている時に笑うことはありません。そうなるのはとても、かなり稀なことです。机に向かって、ネットで何かを見てしまうことが多いです。そんなことばかりしているのは、何も思いつかないからです。そんな最悪なことをするのはお勧めしません。これからの私の人生、そして、私が皆さんに捧げるこの夜をかけて、そのやり方に立ち向かおうと思っています。それはよくないことなんです。
 
DC:あなたの痛みは観客としての苦しみとなって報いを得ています。
 
CK:それを美化したくありませんし、痛みだとか苦しみだとか言いたくもありません。それは実際に本当にダメなことであり、事実なのです。
 
質問者1(聴衆から):世界についての科学的な見識を登場人物やその人物の世界観にうまく取り込める人はいないと思います。ですが、今日のあなたのスピーチでは、それができていましたし、『アダプテーション』にあったような内容にも、そういったことを感じ取れました。そこで伺いたいのは、科学はどのような意味を持って、あなたの思考に影響を与えるのでしょうか? 科学から学んだことをフィクションの形で表現するのは難しいことですか?
 
CK:『アダプテーション』のことですが、映画の冒頭のことを言っていますか? あなたが『アダプテーション』のことで話していることはそのことですか?
 
質問者1:今晩話された遺伝学やオオアリと寄生虫のようなことが『アダプテーション』の中でもたくさん見られます。今晩話されたことに、自由意志の欠如をほのめかす遺伝などについてもありましたが、そういったことです。
 
CK:その中には哲学的なこともあると思います。私は哲学や科学に非常に興味があるのですが、私は専門家ではありませんし、数学の能力を持ち合わせていません。ただ、一般向けの物理学の本を通して物理について知ることはとても好きです。そして、その一般的な物理学のどの本にも、常に注意書きがあります。その注意書きには「君は私たちが何について話しているのか実は何も分かっていない」と。私はそれにとてもイライラしましたが、かと言って、どうすればいいのか分かりませんでした。私には数学的な才能があるとは思いません。それが現実だと思うのです。

私の父はエンジニアでした。私はかつて、父の仕事場に行き、そこの黒板に描かれていた不可解なものをいつも眺めては、畏敬の念に打たれていました。ですが、それは理解なんていつまでも出来ないことのように思えました。実際に、理解できませんでした。ですが、興味はあります。私は先日、次の内容の記事を読んだばかりなのですが、それは本当に常軌を逸しつつも魅力的な内容でした。特定の視覚表現に対する脳の反応をMRIで調べることで、研究者はさまざまな衝動をひとつにまとめることができるという内容でした。また、その結果、脳内やニューロンで起きていることに基づいて、そのイメージを再現することができるというものでした。これについて聞いたことはありませんか?
 
質問者1:それはコロンビア大学でのことです。神経パターンに着目しているパターン認識のことです。
 
CK:今では、イメージと本物を提示できるところまで出来ます。この研究をバークレーのジャック・ギャラントという人物が行っています。その研究では、クルーゾー警部を演じるスティーブ・マーティンのイメージを再現するだけでなく、さらに、その知能の再現もしています。それがスティーブ・マーティンだと判別することはできませんが、男だと判別することができます。私は「本当にとてつもなく怖いことが、すぐにでも、この研究で実現可能になってしまうぞ」と思ったものです。ちなみに、君は科学者ですか?

質問者1:科学を利用して物語を伝える映画に取り組んでいる最中です。


Part.11に続く

このスピーチは2011年9月30日に行われたものです。

スピーチ原文および映像の著作権はBAFTAに帰属し、BAFTAから許諾を受けて翻訳をしています。

スピーチ原文の全文

スピーチの映像

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