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アジテート・ノーツ vol.1|アルジャーノン、忘却とアーキタイプ。あるいは三島由紀夫。【<華果>AGITATION 1】

私たちは<華果KEQUA
歌ってみたという自治領域で、
人間陶冶ビルドウングをしています。


総合表現サークル“P.Name”代表の紀まどいです。

この企画は、総合表現サークル“P.Name”内の、思想強い、かつ歌ってみたに関心がある2人が「歌ってみたユニット」を組み、好きな歌をカバーするという企画です。そして、自分が歌った歌に関する思想を1,000文字程度の文章に起こし、「アジテート・ノーツ」と名付けて公開します。

今回私たちが歌ったのは、Orangestarさんの「Henceforth」、カンザキイオリさんの「あの春を返して」、そしてヨルシカさんの「アルジャーノン」の3作です。


お楽しみいただけますと幸いです。

|1-1 Henceforth


文責:枝

今年の夏も酷暑!!!!!!! 暑い!!!!!

しかし暦の上では、昨日(8月7日)から立秋、これからは秋です。

秋ぃ!?!!?

「henceforth」では、「ああ 夏を今もう一回」という歌詞が出てきますが、こんなに暑いなら、もう夏は来なくて良いかなという気持ちです。

さて、「henceforth」で私が注目したい歌詞は、「絶え間なくアオく光を願う」です。

【アオ・く】とした理由は何でしょうか?? 「あお」という音声言語には、様々な文字が当てはまります。色の「青」、深い青色を表す「蒼」、空を「仰ぐ」もありますか。おそらく、ここで「アオ」という表現をした理由は、空の色の見え方は人によって様々で、そんな「アオ」が鮮やかに空に広がる様子を表したかったからではないかなと思います。私たち一人一人が見る「アオ」、その美しさが伝わる表現ですね。

「絶え間なくアオく光を願う」、この主語は「それだけの【心臓】」です。「赤い」血を身体に送り続ける心臓が、「アオく」光を願う。人間の血管も、動脈は赤、静脈は青で描かれることが多いですよね。赤と青の2色は、私たちの命を象徴する色であると思います。これ書いてて思い出した、そろそろ献血行かなきゃ…

そして、「願う」という行動。「願う」を辞書で引いてみると、

ねが・う【願う】そうな(であ)ればいいと思うことの実現を望む。

新明解国語辞典第七版

とありました。

「願う」ことで、何か変化するのでしょうか?

例えば、「無事を願う」。大きな試験を控えている人がいたら、周りの人たちは、その人が無事に試験を受け終えることを願いますよね。でも、周囲が願ったからといって、試験が無事に終わるわけではない。願っていても、試験会場に行くための電車が止まってしまったり、試験会場で突然、災害や事件に巻き込まれたりすることがあります。また、試験を受け終えることができても、その試験に合格するかどうかはわからない。願うことで、その後の結果が良い方向に転じるとは限りません。

それでも私たちは、誰かの幸せや安全を願わずにはいられない。だって、「願う」の主語は「心臓」だから。

心臓は、私たちの意思に関係なく動き続ける。生きることと願うことは、強くリンクしているのかもしれないですね。

——久しぶりにちゃんとした文章書いてしまった。課題終わったから息抜きできる! と思ったのに、考察文を書くという課題がまだ残っていました。やれやれ、自分の課題管理能力を甘く見ていました。もう、季節のあいさつは「残暑お見舞い申し上げます」になりますね。

暑さに気をつけて、水分しっかり摂ってくださいね。


|1-2 あの春を返して


文責:紀まどい

屈折した、あまりに屈折した懐古である。

カンザキイオリをあるていど知っている読者であれば、この歌が「青い号哭」に対応していると考えたに違いない。もちろんそれもあるだろう。しかし私はあえて、この歌と一番“もっともらしく”対応しているのは「自由に捕らわれる」であると主張したい。

「あの春を返して」。「返して」というからには、これは誰かに向かって放つ要求であるから、語り手は「あの春」をもともと所有していたにも関わらず、何者かによって「奪われている」のである。

宗教学に「剥奪理論」という考え方がある。環境の変化などによってなにか大切なものを剥奪されたと感じるものが社会にあふれたとき、この穴を埋めるような新興宗教が勃興するというものだ。近現代の日本には、新興宗教のブームが3期あると言われている。幕末・維新と、戦後復興と、オイルショックの時期である。それぞれの社会的混乱のなかで人々は、共同体とのつながりの感覚であったり、人生をやりすごすことそのものの意義であったりといった大切なものを剥奪された。そして、その穴を埋めるような新興宗教が台頭し、社会に根付いた。

語り手は「春」を剥奪されたのだという。——誰に?

それは、「とりとめもない自由」にである。

カンザキイオリ的「とりとめもない自由」とは、楽曲「自由に捕らわれる」を解釈するに、全てが自分の責任になるということ、ひとりで生きられるものとみなされてしまうことであると考えるべきだろう。そして彼によれば、私たちは「自分を信じられない」ことを「時代のせい」「環境のせい」と考え、「敵が周りだという」のであり、さらに「誰もがそう思っている」のだという。これは非常に正しい洞察で、フーコーの規律社会やドゥルーズの管理社会の議論を参照するまでもなく、私たちは「ひとりで生きられるだろう」という建前のもとに抑圧され、尊厳を剥奪され続けている。「とりとめもない自由」とは、「環境」という「敵」そのものの化身なのである。

そう考えると「あの春を返して」の冒頭の歌詞もうなずける。

青春だとか言ってんじゃないよ
お前だけだよ
楽しいのは

感動的な結末をどうぞ
お先にどうぞ
いってらっしゃい

両手に抱いた花の数だけ
人間の価値があるようです

一人じゃ生きられないんだね
そろそろ服着たらどうだね

カンザキイオリ(2024), あの春を返して

「青春」とは「一人じゃ生きられない」ことである。そして、服を着ていないということ——「裸である」ことである。

ここに2つの矛盾がある。ひとつは、いったいどちらのほうが本当に自由なのかということである。服を着る、ということは、成長する、ということであり、一人で生きられるようになる、ということであり、社会に適合する、ということであろう。ではあえて直感に問うが、普通に考えて裸で生きてるやつの方が自由じゃないか?

もうひとつの矛盾は、語り手の立ち位置にある。「感動的な結末」が「お先にどうぞいってらっしゃい」——つまり、語り手がやっかんでいる相手方が先行し、自分はそこにまだ到達しないものであるのだ。しかし、語り手は「青春」時代を超えた先の「大人」の「とりとめもない自由」の世界にいるはずだ。なぜ、停滞したままなのだろうか。

答えは単純で、語り手は青春という過程を、履行する途中で剥奪されたのである。「後者裏の死体」とか「殴り忘れた長身の先生」とかという不穏当な歌詞からは、それに値するような事件が匂わされる。そしてそのまま、語り手は大人になってしまった。結果この語り手は今、青春をいままさに謳歌している連中に「お前は裸だ」だなどと唾を吐きながら、その実自分自身が青春を心から欲しているのである。歌詞のみならず音作りに着目すれば、さきほど引用した冒頭部分が終わったあとの間奏を間奏を聴いてみてほしい。これは学校のチャイムの音だ。屈折した、あまりに屈折した懐古である。

そのほかにもアジりたいことは山ほどある(たとえば「大人に言われたイヤなセリフ」の部分のハモりが不協和音で強調されているとか)。しかしあえて捨てて、最後にこれだけはっきりさせよう。その剥奪の穴を埋めるものは何なのか?

その答えは、今度に発売されるカンザキイオリ新作小説「自由に捕らわれる」において示されるであろう。

ファンクラブに入会するとEPの予約購入ができる。待ったなしだ。


|1-3 アルジャーノン


好きな歌詞:
僕らはゆっくりと忘れていく とても小さく

文責:枝

「忘れる」って行動なんでしょうか。

辞書で「忘れる」を調べてみると、

わす・れる【忘れる】(他上一)
①経験したり覚えたりしたことが、記憶から消えて無くなる(ようにする)。
②他の事に心を奪われていて、その時どきの最も重要な事柄を意識出来ない状態になる。
③うっかりして、その時当然すべき事をやらないままにしてしまう。

新明解国語辞典第七版

「アルジャーノン」の歌詞で使われる「忘れる」の意味は、辞書中の①に該当するかと思います。これでいくと、「アルジャーノン」での「忘れる」は、状態動詞ってことなんでしょうか。いやでも、辞書で表記された(ようにする)を踏まえると、これから忘却に【移行する】と捉えられるので、動作動詞でもあるとも言えそうです。

行動分析学の創始者であるスキナーは、死人テストを通じて、「否定形」「受動態」「状態」で表現されることは、【行動】ではないとしました。 死人テストとは、簡単に言えば、死人ができることは行動ではないことです。 例えば、ご飯が「食べられない」。死人はご飯を食べませんよね。だからこれは、行動分析学の定義から言えば行動ではありません。

物を「渡される」、「話しかけられる」などの受動態も、死人は同様にできることなので、行動から外れます。「〜がある」、「〜している」という状態も、死人はできますよね。亡くなった人が棺に「横たわっている」という表現がある通り、死人にもできるので、状態も行動ではないとされます。「アルジャーノン」での「忘れる」が、状態動詞ではないとすれば、「忘れる」は、行動分析学の定義においては【行動】になります。

行動分析学では、行動の前後の変化をとても重視します。

先行事象(Antecedent)
→行動(Behavior)
→結果事象(Consequence)

の一連の流れのことを、「行動随伴性(英語ではABC...ってそのまんまやん)」と言います。では、「忘れる」における先行事象と結果事象って何でしょう?

先行事象は…何か嫌な思い出とか、忘れたいと思うきっかけになることですかね。そして、「忘れる」という行動が起こり、結果事象は…心の安らぎを得るとかでしょうか。でも、忘れたい記憶に限ってなかなか忘れられなくないですか? 忘れよう忘れようと思うと、かえってその忘れたい出来事を反復して思い出してしまい、記憶に強く残ってしまいます。それに、忘れていく出来事は、忘れたいことだけとは限りません。忘れたくないこと、忘れたくない人のことも、いつの間にか少しずつ忘れていく。こちらの感情にはお構いなしに、私たちはいろんな事を忘れていくのです。

三島由紀夫は、「人間に忘却と、それに伴う記憶の美化がなかったら、人間はどうして生に耐えられることができるだろう」と言いました。

なるほど、私たちは忘れることと同時に、思い出を自分の都合よく書き換えているのか。私たちが今持っている思い出たちは、過去のわたしたちによる記憶の改ざんの蓄積ですね。

みなさんにとって、忘れたくない出来事はなんですか?


好きな歌詞:
僕らはゆっくりと忘れていく とても小さく
少しずつ崩れる塔を眺めるように

文責:紀まどい

アルジャーノンというからには、小説「アルジャーノンに花束を」を透かして考察されるのがこの曲の負う道理であろう。「少しずつ崩れる塔」とは、チャーリーの知能的後退の比喩として非常に完成されている。

塔が崩れる、と聞いて私たちが真っ先に思い浮かべるナラティブはバベルの塔であろう。バベルの塔とは、権威の失墜の象徴であり、真理(=神)に対抗する企みの敗北の象徴である。作中でチャーリーが受けた手術は、大学教授であるアリス先生という権威により導かれた、天性の知能とそのハンデという真理に対抗する試みであり、一時は成功するものの、次第に実験動物であったアルジャーノンは正気を失って死に、チャーリー自身も自ら障害者収容施設に戻る。小説の最後が「どうかついでがあったら、うらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやってください」であることはあまりにも有名だが、これはアルジャーノンの死のみならず、チャーリーの失敗と、権威と抵抗の試みの敗北をもまた象徴している。

「少しずつ崩れる塔」の果たす役割はわかった。

では、「ゆっくりと忘れていく」「僕ら」とは誰なのか?

バベルの塔が崩れたとき、バビロニアを中心として単一の言語でまとまっていた人民は、ばらばらの言語集団に分裂してしまい、その後、諍いが絶えなくなったのだという。原罪神話の典型である。そしてその「人民」とは、まさに、バベルの塔の崩落を目の当たりにした人々である。人民は、バビロニアを中心にまとまっていた、単一言語=アーキタイプ(Arch Type)「忘れる」のである。塔に象徴される、権威=アルケー(Arche)の崩壊を「眺め」ながら。

この曲は、徹頭徹尾「僕」と「貴方」の非対称性を基調としている。曲中、常に「貴方」は「僕」に何かを与える存在であり、勇ましく生きる「貴方」の姿を「僕」が叙述している。そして「貴方」と「僕」の2人が、すなわち「僕ら」はともに「少しずつ眺める塔」を眺め、アーキタイプを喪失するのだ。そのシーンはラスサビ前に配置されている。そしてラスサビ、やはり「貴方」は、迷走しながらも、先の見えない道を勇ましく生きてゆくのである。

「僕ら」はもしかしたら、アーキタイプの喪失によって、バビロニアの人民の如く離散してしまうかもしれない。しかし「僕ら」は、少なくとも、同じカタストロフを目撃し、そこを出発点にして、進んでゆくほかない、という点においては共通し、結ばれているのである。



おまけ - 本企画の趣旨

紀まどいです。最初の記事ですから、本企画の趣旨をご説明いたします。

ぶっちゃけ、ただただ歌ってみたをやりたかっただけではあります。歌い手ユニットの造形をつくるときに、コンセプトを何にしようということになり、冗談で飛び出した「思想強い感じ」が何の間違いかそのまま採用されてしまい、今に至ります。しかしながら、できあがったものはそこそこ面白いかと思いますから、少々の駄文で紙幅を占めることをご容赦ください。

唯心論の立場をとるなら、私たちの「私」の本質は精神にのみあり、肉体はいわば、この精神が統治する物理的領土そのものです。そして私たちが運動するとき、領土たる肉体から、私たちは様々なフィードバックを受けます。これに呼応して「私」という精神システムはさらなる命令を出力します。これはD.イーストンのいう政治システムそのものといえるでしょう。私たちは運動をするとき、個人という最小の政治的尺度のなかで高度な政治的駆け引きを繰り広げています。

そんな運動のなかでも、もっとも「自治」らしい営みが「歌」だと思うのです。なにせ、歌詞の解釈は「思想」と切っても切り離せず、自己対自己の政治的議論を避けることができません。そのうえ歌を歌うことは、一人である程度は完結する運動でもあります。ゆえに「歌ってみたという自治領域」です。

今回の企画では、自分が担当した歌について、自分の思うところをアジテーションします。私は政策科学部の人間で、枝は総合心理学部の人間です。この過程を課されることで、私たちは個人という最小の政治的尺度のなかで繰り広げる歌ってみたという自治領域の運動を、大学での学びを踏まえて深化させることになります。ゆえに「人間陶冶ビルドウング」です。

(ちなみに「ビルドゥング」とするべきところを「ビルドウング」とするのは、絓秀実氏の「革命的な、あまりに革命的な」のなかでこのようにルビがふられていてかっこよかったのと、単にビルドウングと6拍で読み上げたほうが語感がいいからです)

それをふまえて、冒頭の文をもういちどご覧いただきましょう。

私たちは<華果KEQUA
歌ってみたという自治領域で、
人間陶冶ビルドウングをしています。

私たちは、このとおりにやれているでしょうか?

ユニット名<華果 - KEQUA - >の由来は、法華経にある「華果同時」です。歌ってみたという華が咲くのと同時に、私たちの人間陶冶も果実をつけることでしょう。

高僧の如、悟ってしまいたくなどないですがね。悟ってしまったら、この世の全てが無意味になってしまうのでしょう。

この世界が無意味であるという残酷な現実に、歌という、意味の塊、フィクションでもって徹底抗戦していきます。

私たち<華果>の次回作にご期待ください!

紀まどいでした。



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