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危機感は役に立つが、自己否定は諦めだ

ADHD(注意欠陥多動性障害)という特性をもつ息子のりとくんにとって、学校という環境に身を置くことは、自己肯定感を下げて環境に順応していくことにつながってしまうと、ぼくたち夫婦は認識しました。

では、学校にいかない選択をすんなり受け容れられたのかというと、そんなことはありませんでした。
これは不登校を決断した保護者のみなさんの多くが同じように頭を悩ませたことじゃないかなと思うのですが、ぼくたちの甘やかしや過保護によって彼が成長する機会を奪ってしまうのではないか、という心配がなかなか頭を離れませんでした。

焦燥感にも似た危機感

あるべき姿や状態にたどり着きたい。
そんな漠然としたものであっても、なんとなく目指したい方向があると、人は期待を抱きます。
その期待から外れることが起こりそうになると、言語化できない焦りや危機感を覚えますよね。

当たり前のように義務教育を受けて育ったぼくたち夫婦がたどってきた道筋を、自分の子供が外れそうになったとき、この危機感は結構じんわりと効いてきます。
そして、無意識のうちに、その危機感はそのまま子どもに伝染するようです。
だからこそ、りとくんは何となく違和感や生きづらさを感じつつも、なんとかしようともがいていました。

なにかに追い立てられるように頑張ってしまうのは、あまりポジティブなものではないかもしれません。

それでも、あくまで個人的な線引でしかないのですが、「自分は大丈夫」と思えているのなら、危機感は成長にもつながるんじゃないかと感じます。

自己否定は諦めだ

が、危機感が行き過ぎて、自分で自分をダメだと思いこんでしまうことは、とても辛いことです。ましてや、色々な可能性を秘めていて、それを思いっきり表出しながら発揮したいと感じている子ども時代であれば、その苦しみはいかばかりでしょうか。

みんなと同じことができないなんて、自分はダメだ。
自分はダメだから、何をやってもダメなんだ。
ダメな自分は、存在自体がダメなんだ。

言語化できない苦しみの中で自分を嫌うプロセスをたどっていってしまったりとくんは、時折癇癪のように泣き叫ぶことがありました。
そして、1年以上の時間をかけて、やっと口にしたのが「ぼくはダメな子なんだ」という言葉でした。
その諦めの言葉を聞いたとき、胸を締め付けられる思いがしたのを覚えています。

たしかに、集団の中で生きていくには、あるいは、社会の中で協力し合いながら生きていくには、全員が自分勝手な言動をしていては成立しないでしょう。
でも、その集団に馴染むための代償として、周りに馴染めない自分を嫌い、本来の自分を押し殺していくことが、果たして成長につながるのでしょうか。

周りの人達とうまくやっていきたいという期待は、誰しもが抱くものだと思います。そして、そこから外れそうになったとき、多かれ少なかれ不安感・焦燥感・危機感を感じるのも自然な事かもしれません。
でも、それが根本的な自己否定にまで達してしまったら、人はそれ以上成長することを諦めてしまうのではないでしょうか。

逃げるは恥だが役に立つ

りとくんが自分自身が持って生まれた特性と環境との摩擦の中で、危機感を通り越した自己否定を始めていたことが、ぼくたち夫婦が不登校を選ぶラインになりました。

自分のことが嫌いになってしまうくらいだったら、その状況から逃げることは悪くない。むしろ、自分を守るための最終手段なんだと。
自分が自分の味方でいられる限りは、逃げたあとでもなんとかなるだろうと。

色々シリアスなことを書いていたのに、すみません。
この記事のタイトルを思いついた時点で、最後にこの見出しを使わずにはいられませんでした><

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