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「近代」の終わり? 「歴史」の終わり? ②

■意識も、しくみも、「近代」のままだ

ー近代をどう乗り越えたらいいと思いますか?ー

今、瀬戸内から宇沢弘文~自然・アートから考える社会的共通資本~」のセッションの途中で提示されたこの問いについて、前回の投稿では日本における「近代」の起源とその流れ、「近代」を日本人がどうとらえてきたのかを概観しました。

『近代の超克』の冒頭でも述べられているように、「近代」とは資本主義化・中央集権化・工業化・合理主義化・都市化の時代を指します。

1886(明治19)年の銀本位制移行を契機とする企業設立ブームがいわゆる日本産業革命の嚆矢とされ、以下の『エコノミスト』のグラフ(※1)からもわかるように、明治産業革命によって、それまでほぼ経済成長のない状態から徐々にGDPが上昇し、「近代化」が進んでいったことがみてとれます。

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富国強兵のため、学制・兵制・税制の改革が行われ、殖産興業がめざされていく。とくに義務教育は工場労働者、軍事従事者を育てるのに最適な方法でした(※2)。規律を重んじ、画一化された教育は、社会に出た後も同じように引き継がれて、経済や軍事へと結びつけられていく(※3)。

敗戦直後にはGDPが急落しますが、その後の経済の伸びは飛ぶ鳥も落とす勢いです。徴兵制がなくなり、経済へ一本化したことで、工業化にますます拍車がかかったのだということがわかります。そして、その勢いのまま高度経済成長期を迎え、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称される(※4)。

1990年代初頭のバブル崩壊以降、「失われた20年」、世界金融危機なども経て現在があるわけですが、結局今も「日本資本主義」の思想の下、勢力を「拡大・成長」させる路線(※5)、すなわち近代化や帝国主義と地続きにつながっているのではないか。

日本史上では「近代」の終わりを第二次世界大戦終結とする説が一般的ですが、第二次世界大戦後である「現代」も、屋台骨は「近代」のまま成り立っているのではないか。意識もしくみも「近代」のままではないか。

こういったことが問題視されているからこそ、「今、瀬戸内から宇沢弘文~自然・アートから考える社会的共通資本~」でも話題に上ったわけです。

■「近代」の意味を知らない人たち

またもや長々と「近代」と「現代」とのつながりについて語ってしまいました。しかし、これには理由があります。

多くの人が「近代」という時代を理解せずに「現代」を生きているのではないか、と思ったからです。

イベント中に、登壇者の方が「近代」や「近代化」という意味をご存じないだろうなととれる場面がありました。活躍する分野が異なれば知らないことがあるのは当然で、私も知らないことばかり。ですから、非難するようなつもりはありません。ただ、ならば僭越ながら「近代化」という言葉の意味を一緒に考えたいと思い、一心にこれを書いています。

また、義務教育や高等教育を受けた期間に記憶に残らない知識はたくさんありますが、随分細分化してしまって皆がお互い基本的なことを知らない時代なのだと改めて実感し、釈然としないというのも筆をとった理由です。瑣末な知識の詰め込みばかりで、大事なところを押さえられない現在の教育とはどんな意味をもつのかという疑問をもちました(※6)。

私は、出口治明氏が「歴史の教科書は緩急がなくて、時代の転換点や大きなまとまりが捉えにくい」と以前仰っていたことに同意する立場ですが、まさにそれを物語るできごとでした(※7)。長くなりそうなので深堀りしませんが、これもまた「近代化」の一環としておこった「教育」の功罪を見直すいちエピソードだといえそうです。

■「近代」の終わりとは、反知性主義か

しかしまた、逆のことも考えました。「現代」が「近代」と地続きとなっていることを知らなければこそ、「近代」や「現代」を乗り越える力を持っているのかもしれない、と。

社会の半数の人が大学へ進学し、かつ2003年度以降の専門職大学院の創設なども手伝って多くの人が高度な知識に触れることになったとき、研究者などといった職に就くのはレッドオーシャンに飛び込むようなもの。大半の人にとって大学に入っておくことは企業へ就職するために最低限必要な条件に成り下がってしまいました。学問に通じずとも社会に出て働けばよいと前提されているところがあります。

また、聖域なき構造改革(2001-2006)などを経て雇用が不安定な人たち、旧態依然とした社会構造で自分の未来に大した希望をもてずに辟易としている人たちなどが日本のなかに大量にいる。みんな血の海より、水面が輝く透明な青い海で泳ぎたいのに泳げない。

そういった二進も三進もいかない社会であれば、権力構造を明らかにし、自分を苦しめている構造の上下関係を逆転するか、解体するか、構造自体から抜け出して別の豊かさや自由を手に入れたいと渇望するのは当然のことです。

森本あんり氏によれば、「知性の傲りや権力との癒着を『ぶっとばす』ようなパワーをもち、大衆に受け入れられる人」「反骨の精神で、伝統や大家や形式といった権威の構造を打ち破り、そこに新たな知の可能性を提示できる人」を「反知性主義」の担い手だといいます(※8)。

あえて日本で反知性主義者の代表を挙げるとしたら、空海親鸞日蓮などの革命的な仏教者、現代ならホリエモン(堀江貴文)氏や孫正義氏のような型破りの起業家だろうとも書かれていました(※9)。

もちろん堀江貴文氏や孫正義氏は「近代」という言葉がさす内容はご存じでしょうから、かつての伝統や形式を理解したうえで別の世界を見出そうという反知性主義者なのだと考えられます。

では、彼らに追従する人たち、実際に反知性主義者個人を支持するわけではないが彼らの放つ反知性主義的な思想を察知し自分の息づかいのように置き換える人たちはどうなのでしょうか。「近代」とは何かわからない方々も含みながら、社会にルサンチマンがあるから現状を変えたい、息苦しいから抜け出したい、不安を取り除きたい、夢をみて熱中したい…そういう気持ちを仮託しているのではないでしょうか。インドのカースト構造から逃れてIT分野で活躍する人たちと同じように。

反知性主義者の語る夢、現代に流れる反知性主義的な何かを自分の夢とし邁進する人たちが寄り集まり、支流から本流に徐々につながっていくからこそ世の中が変わる。この現象は、小さな一個人にすぎない人々のとにかく「生きたい」という強い気持ちの表れであり、そういった大きなエネルギーが「近代」を具に知らずとも社会を変えていく、「近代」で常識と考えられていた思考の型とは別の型が新しい秩序をうみだしていくのかもしれないなと思いました。

■「歴史」を終わらせてはいけない

ただし、先に挙げた歴史を知り得たうえで革新的な反知性主義を担う者ではなく、歴史を知らずに追従する人たちに対して細心の注意を要したいのは、與那覇潤氏のいう「歴史の終わり」、つまり「意味なんてなくても偶然だけで生きていける」という思考、「歴史が神話の語りに近づいている」状況が行き過ぎれば、警鐘を鳴らす行為も忘れてはならないということです(※10)。

歴史的な価値観や意味づけを無視して新しいものが生まれてくる瞬間は多くの人にとって刺激的であり、喜びと希望をもたらすものです。人間はかつての価値観を維持し、均衡を保とうとしても、並々ならぬ努力を要して時に苦痛を感じたり、倦厭を抱いたりします。そうなると「いま、ここ」の退屈で何者にもなれない私をさらってくれる誰かはいないか、意味のない偶然性のなかに身を任せられないかと救いを求める

子どもの誕生なども、大人どうしの予定調和で成熟した関係性を飛び越えて、思いがけない新しい歴史、意味が紡がれる可能性に我が身を酔わせられる喜びが附随しているでしょう。

ただ、ここで唐突にジェフリー・ムーア氏が提唱した「キャズム理論」の図を本来の市場におけるイノベーター理論とは異なる意図で援用しますが、世の中にはラガードレイト・マジョリティがいることも事実なのです。選挙のときによく使われる左派と右派、浮動層の図を持ち出してもいいのかもしれません。同時代に極めて革新的かつ急進的な思想をもつ人たちと、旧来の価値観のまま生きたい人たち、生きざる得ない人たちがいる。それは政治的な局面、経済的な局面、さまざまな局面で現れてきます。

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この新しい意味の提唱者と、古い意味の堅持者との相克が行われるのが社会であり、ときに熾烈な戦いが繰り広げられることもありますが、お互いの歴史・価値を認め、共存していける場所はどこなのかというのを、私たちは生命の尊厳という立場にたって常に考えていかなくてはならない。どちらかがどちらかを支配するのではなく、時間をかけてでも対話によって見出していきたいものです。それは長きにわたって心がざわつく違和感を伴うものでしょう。また「沈黙」という対話であることもありえますから、相手の「沈黙」にも根気強く耳を傾け、双方が「信用」できる関係性、これを模索していきたいものです。

■長期的な「信用」が歴史をつくるのかもしれない

今回とりあげた「今、瀬戸内から宇沢弘文~自然・アートから考える社会的共通資本~」を視聴しているとき、私が自分のなかで受け止められずこの「心のざわつき」として残ったのが、仮想通貨イーサリアムのことでした。

イベントではイーサリアム財団エグゼクティブディレクターの宮口あや氏が登壇され、ブロックチェーンの技術を用いた仮想通貨は中央集権型ではなく、ユーザー同士の管理による分散型ネットワークだと説明されました。今まで書いてきた近代貨幣制度をこえた「新しい意味」の一つの象徴だといえますが、この価値が私にはまだわかっていない。

仮想通貨と聞いて私が思い出すのは、経済学者の岩井克人氏が『貨幣論』(1993年)で「貨幣とは、言語や法と同様に、純粋に『共同体』的な存在である」とし、貨幣に対する「信用」が貨幣を貨幣たらしめると述べていたことです。ここから岩井氏は、仮想通貨が投機的な目的で運用され、価値が乱高下している状況においては、貨幣の意味をもたないと朝日新聞に書かれていた記憶があります。

確かに感情的な投機でその価値が不安定な状態では、私たちは安心して仮想通貨を使うことはできません。固定相場制ではなくとも、ある程度の相場感がわかってこそ使用できます。

ですから逆の考え方をすると、たとえ最初はレッドオーシャンでの戦いから逃れたい、ブルーオーシャンで優越性を得たいという感情から出発したとしても、ブロックチェーン本来の情報共有および相互監視のしくみが正確に機能し、ユーザーが公共的な視座で仮想通貨市場を運用し続けられれば「信用」が生まれていくのだと思います。既存の歴史から外れた唐突な始まりかたであっても、倫理的な意識としくみが伴えば新たな「歴史」がかたちづくられていくのかもしれません(※11)。

■ミネルヴァのフクロウとなろう

最後に、先述の與那覇氏が、ヘーゲル的な弁証法的歴史観を通り越して、現在をニーチェ的な漠然とした「永劫回帰」の時代であると言ったことに触れましょう。

ヘーゲルは「世界史とは自由の意識の進歩である」と述べ、世界全体を突き動かす絶対精神の本質は「自由」であり、世界精神は自由の実現と自覚をめざしてはたらくとしました。この進歩史観は数々の紛争や戦争を経てマルクスやフランクフルト学派に批判的に受け継がれましたが、現在の先進国日本では、互恵的な連帯意識が弱まり、個人の自由が広がっていくことで行き詰まりをみせている部分がありますので、現時点の日本という局所からすれば自由の意識の進歩が歴史であるという考え方には一定の距離をとって接せねばなりません。

とはいえ、虚無主義(ニヒリズム)に陥ることも、われわれの生きかたを重苦しくし、とてもしんどい。どう転んでも、私たちは何らかの「意味」で満たすことで実存を確かめたがる生き物のように思えます。

ですから、「永劫回帰」はないこととし、個人の自由の歴史を語りたくなり、聞きたくなり、認めようとする。そのうえで運命を引き受けながら、新しい価値・意味がやってくること、つくりだすことを望むのです。

歴史とは、人間が自分たちのアイデンティティを確かめたいという欲望が駆動した行為の結果なのでしょう。

ヘーゲルは『法の哲学』の序文で「ミネルヴァのフクロウは迫りくる黄昏に飛び立つ」とも残しています。これは、知恵の女神ミネルヴァがその使いであるフクロウを夕暮れどきに飛ばして1日の出来事を探らせ、自らの知恵を深めたというギリシャ神話から、フクロウすなわち哲学、学問というものは、現実が成熟した後に、その現実のなかにひそむ実体を把握し、歴史を総括する知恵を見出すということを表します。

與那覇さんは永劫回帰と言いますが、歴史が決して一直線ではなく、行きつ戻りつであっても、現在の私たちが過去の歴史に対するフクロウとなって世界を見渡そうとする作業は変わらず続けられていくのでしょう。

自らの歴史を本人が認識していなくても、同時代の他者、未来の誰かがきっとあなたの歴史を掘り起こすのでしょう。

新型のウィルスによる感染症の急拡大に直面し、従来の生活を基準とした時間概念は放り出され、踊り場に取り残されたかのような私たちですが、大きく目を瞠って自他の歴史を見返しながら、日常のできること、隗より始めて、少しずつ新しい時代をつくっていくのが、今この瞬間なのだと思います。

(おわり)


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※1:日本の産業革命の時期は、筆者が追加。

※2:実際に世界で最初に産業革命が起こったイギリスでは、力織機や紡績機、蒸気機関などの発明にともなって、工業化に適応した真面目で勤勉な人材の育成が急がれました。そのため、それまで私的な教育機関で担われていた教育が、1870年の教育法成立によって義務教育へと変わり、大量の工場労働者を育成できるようになりました。

※3:軽工業中心のイギリスの第一次産業革命といわれる時期は18世紀後半から19世紀前半。ですから、イギリスで義務教育が誕生したのは第一次産業革命が終わった頃だということがわかります。ただ、日本の場合、明治政府成立が1868年、学制発布が1872年ですから、工業化も義務教育も一気に行われてかなり急ピッチだからこそ、画一化が著しかったのではないかと推測できます。

※4:ボーゲル著『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979年)。柴垣和夫氏によると、①職工平等・長期雇用・年功賃金・企業別組合に支えられた日本的経営、②徹底した現場主義、③多能工制度とメカトロニクスの結合が可能にした多品種少量生産の日本的生産システムが大きな役割を果たし、国際的な注目を集めたといいます。

※5:広井良典先生の『ポスト資本主義』『人口減少社会のデザイン』などにも、そのような記述があります。

※6:知識を伝授するという教育自体を私は否定していません。人間が思考するには、知識があることが大前提です。しかし、重箱の隅をつつくような知識をたくさん集めても、体系を大づかみすることはできません。

※7:とは言いつつ、教科書の素晴らしさももちろん知っています。かなり多岐に亘る事柄が書かれていて全然飽きない。暇があれば教科書をずっと読む日々を過ごしてみたいなと思っているくらいです。

※8:ときに日本では「反知性主義」が「知識・知性がない状態」とか「自分が理解したいように世界をとらえ、学問には意味がないとする大衆の態度」のようにネガティブな意味で認識されています。確かにそれらも反知性主義に含まれますが、元来はもう少しニュアンスが異なるようです。

※9:竹内洋氏によれば、反知性主義は「『きわめてアメリカ的』であり、日本にはあからさまな反知性主義の噴出が見られ」ず、「中途半端な日本にあるのは『半』知性主義だけである」と言われていますので、本来的な反知性主義と、日本的な反知性主義には隔たりがあることは断っておきます。

※10:「歴史の終わり」というと、一昔前まではフランシス・フクヤマ氏の『歴史の終焉』が連想されました。それは、ソ連崩壊を民主主義や自由経済の勝利とし、ヘーゲル的な歴史の弁証法的発展が完結するとした主張でした。これに対し、與那覇氏は、もはや「時代はそちらを通り越して、むしろニーチェ的な意味での歴史の終わりー『歴史的にものごとを語って、一本のすじを通そうとする試み自体に無理があるのであり、もはや有効ではない』という局面に達してしまった」「『永劫回帰』といったぼんやりとしたことばでしか説明されてい」ないといいます。

※11:ブロックチェーンのデメリットは上杉周作さんのブログを参照しました。


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