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鬱病でした。part.3

こんにちは、フクダリセです。「鬱病でした。」part.3です。

知り合いの方々に「note読んだよ」って言われることが最近何回かありました。私はそれに対して、
「あ、ありがとうございます!(喜び&照れ)。どうでした?(好奇心)」
って言っています。
みなさん、「読んだよ」っていう同じセリフを言うけれど、その表情は様々でみてて面白いです。大体の人は同情が読み取れます。
同情の中にも種類があって、みなさん個性ある同情を示してくれます。どんなだとかは、ご想像にお任せします。

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前回のpart.2では、主に母や父について書きました。


今回はその他の家族、弟、祖父母について書こうと思います。

前回の終わりに書いたとおり、
私の実家のすぐそこ(徒歩5秒)には母方の祖父母の家があって、母は帰りが遅いため夕飯は祖母が作った料理を祖父母宅で食べるのが習慣でした。
いつ頃に習慣化したものかはもう忘れちゃったけれど、物心ついた時には、両親が帰り遅いというのは当たり前だったし、保育園や小学校から帰ってきたら祖父母の家で過ごすというのは当たり前でした。
だからほとんど自分の家にいなかった。

なので物心ついたときから、私の場合家族というと、祖父母を含めて家族だという認識が強かったです。祖父母とは違う家に住んでるだけで、ほぼ毎日夕飯を囲んで食べてましたから。風呂も祖父母の家で入っていた。

母方の祖父母含めて、母、弟。
それが、わたしの「家族」というコミュニティです。

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母との関係が悪化するにつれて、私はそのコミュニティでも生きづらくなっていきました。どんどん居場所がなくなっていったのを覚えています。

この話をしたときに、こんなことを言われたことがあります。
「えぇ、、?。おばぁちゃん、おじいちゃんって孫がかわいいもんじゃないの?。味方になってくれなかったの?」
残念ながら、Noです。

祖母にはいつもこう言われました。
「お母さんは女手ひとつで、あんた達を苦労して育ててるんや。なんでそんな反抗するんやいね。お母さんの力になってあげたいと思わんのかいね!」

祖父は仕事柄、長期間家を空けることが多かったので、母含めた三姉妹はほとんど祖母が女手一つで育てました。母たちが、祖母に逆らうことはほとんど、無かったそうです。
そういう背景も含めた言葉です。

今思うと、うん、正論。
祖母から見て私は、「大事な娘がシングルマザーとなり大変な時に、反抗して困らせている反抗期の孫」という認識だったように思います。

それも、今思うと、うん、あながち間違っていない。
でも、part.2読んでいただいた方はある程度分かるかもしれませんが、あの当時の状況で母に対してそのようないたわりの感情で接するのは、私にはできなかった。母のことが大嫌いだったし、軽蔑していた。
何度も何度も衝突して、溝が深まっていった。理解しようと試みて接触を図り、そして失望する。その繰り替えしの日々でした。

確かに、わたしもちょうど反抗期の時期だったのもあります。
でも、母はあのころ朝廷裁判のことや、シングルマザーとして今後私たちを養っていくことや、職場が変わったことや、なんやかんやでとてもピリピリしていた。父に一番似ているという私を父に見立て目の敵にするように、日々小さいことでの小言が多かった。それが、喧嘩の火種でもあった。そして、私も母のその態度を包み込めるような、精神年齢はまだなかった。

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私と喧嘩すると母は祖母にすぐに話します。そして、それを聞いた祖母はすぐに私を責めます。それに対して私は、祖母には母から聞いた情報しかないから不公平だと感じて、祖母に言い返す。私にも私の言い分がある。ただ反抗している訳じゃない。『親』には絶対服従だという考えが強い祖母は、私を理解せずさらに責める。祖母と喧嘩しているのをみて、祖父も私を責め、この家に来るな!自分の家に帰れ!と家から追い出す。

こうしてどんどん祖父母の家でも居場所がなくなっていきました。
毎日、夕飯を祖父母の家に食べに行くのが苦痛でした。
「昨日、バトルった話をばぁちゃんはもう聞いているだろうか。聞いていなかったとしても、もうすぐお母さんが帰ってくる。食卓で話すだろう。あぁ、また喧嘩になるのか、、、、でも、夕飯食べないのはお腹空くし、、、仕方ない、、、」
いつも祖父母の家に行くのが気が重かったです。
本当にメンタルがやばい時期は、10分ほど、ぼーっとして覚悟決めてから行っていました。心が嫌だ嫌だ行きたくないと叫んでいた。それを押し殺して、夕食にありつくために行っていた。食べ盛りだったのもあるし、そもそも私はよく食べるほうなので夕飯を抜くとお腹が空いて寝れなかったのです。

少しマニアックな話ですが、湊かなえの『Nのために』ご存じですか?
それに出てくる、灼熱バードみたいだなぁと思います。トリに用意されたえさはオーブンの中。生きるために灼熱の中に自ら飛び込む。感情を殺して。

私との喧嘩のことを母が祖母に伝え、祖母に私に対して怒りを向ける瞬間。
あの、瞬間の母の顔は今でも鮮明に思い出します。
はっきり言って、とても意地悪い、醜い顔。
もうあなたのことは言ったからね。ばぁちゃんからも文句言われるといいわ。とでも言いたげなしたり顔。
そんなのを、毎日のように見て、母に対していたわりの心で接することができる訳ない。

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「祖父母の家でなく実家で自分でご飯を用意して食べればいいじゃん。」
そう思う方も多いかもしれません。
そうトライしたことは、何度もありました。でも、続かった。
理由としては、
・そもそも実家に食料がほとんどない。あったとしても、母の作ったご飯。(母のことを嫌っていた私は母が作ったものを口に入れたくなかった。母は料理上手ではないので失礼だが美味しくはない。)
・一方、祖母の料理はめちゃくちゃ美味しい。
・自分の家族コミュニティから逃げるようで嫌だった。
・祖母が夕飯を食べに来ない私を心配していると、母から聞かされる。
・祖母の年齢考えると祖母の料理食べれるのもそんな長くない。
などなど。
長く続いて一週間でした。

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今、同じような状況になったら私はどうするだろう。
たぶんきっと、母のことも祖母のことも適当に流して黙々とご飯を食べるかもしれない。
みなさんだったらどうしますか?

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このシリーズを書き始めてから、色々と過去のことを思い出すことが増えました。私は、この鬱時代の経験を私の人生における汚点と考えてはいません。この経験があったから、得たものもすごく沢山あります。
「この経験は私の人生に必要だった。」と強く感じます。

ただ、この経験があるから「ほかの鬱の経験がない人とは違って特別だ。」という感覚はありません。悲劇のヒロインぶりたくはないです。そして、それを振りかざすためにこれを書いている訳じゃない。
誰しも辛くて悲しい思いをした経験はあるはず。
(どの単位で測れるものか分かりませんが、)深度や大きさ、長さ、種類が違うだけ。私の場合は、中学生から高校にかけての時期に母や家族との確執のために、悩み苦しんだ。ただ、それだけです。

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弟のことも含めて書きたかったですが、長くなりそうなので今回はこのへんで。次回書こうかな。
こんな、お世辞にも愉快とはいえない話を読んでいただきありがとうございます。

引き続きpart.4をお楽しみに。
では、また。

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※↓Part.4です


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