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【純喫茶】若者である私が何でレトロに価値を見出せるのか。

現代の便利さは未来の「レトロ」と本当に言えるのか考える。
こんばんみ、りさです。

先日、大阪旅行で人生初の「純喫茶」に行きました。見事に惹かれたわーい。

だから純喫茶に惹かれた理由を書いちゃう。

ちなみに行ったのは大阪の難波にある、
「純喫茶アメリカン」さん。

ガラスの左側に映ってるいるのがわたし。
どうやら右肘だけ見えます。
どうせなら肩もお見せしたかったです。
(黄色い袋持ってる人)

なんで私みたいな若者が「純喫茶(またはレトロなもの)」を欲するのかね。

【前提】
技術の進化が激しくなっていますね今は。
ただ、私たち若者はその時代にしか生きることができていないんです。
生まれながらにインターネットが身近にある世代。

「かつて」とは大きすぎる変化が起きたと思うんです。

【そんな中で、なぜ純喫茶(レトロ)に価値を見出しているのか】


「今とは大きく違う時代」
「私たちが生きることができなかった時代」が「純喫茶」として形に色濃く残って、その中に形だけでも入り込むことができるから。

です。
ほらほら、形だけでも入るってワクワクするでしょ。
ある種の現実逃避なのかもしれないけど
「時代」に惹かれて扉を開けるんです。

手前がどうやら私の模様。
奥からにょんと出演してるのは友人。

私が気になること。

★昭和を生きた人たちは、当時この風景をどのような存在として捉え、どう感じていたのか。ということ。

平成の時代(2001年)に生まれた私と昭和に生まれた人で「レトロ」に対する認識の差はあるの?って

だって私が「レトロ(言ってしまえば古き良きもの)」と捉えているものでも、その時代を生きた人にとっては別に古くも何ともないじゃないですか。

むしろ当時にとっては「現代的」であったはずなんです。


★そして、
その時代を生きた人が当時「現代的」だと思っていても、現在は「レトロ」と感じるもんなのかな。
ってことも気になる。

★あとは、
究極弥生時代の人たちは縄文時代を「レトロ」と思うのかな?とか(レトロって言葉が縄文時代にあったらどうなってたのかな)。
「美」の定義が今と昔では違うようにさ~

時代という強制的な流れによって感覚が変化するのって、何だかとってもフシギ。

概念って面白いよね。

いくらでも「これはどうなのかなぁ」と思考がぐるぐるぐるね。
よく分からん終わり方になりました。


純喫茶アメリカンさんのURL載せます。

ラヴィットでも大阪ディープスポットとして紹介されていたと思います。


今度は一人旅で大阪行きたい。
ディープスポット巡りして
漫才劇場やらNGKやら巡って「芸」に塗れたい。


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