note連続小説『むかしむかしの宇宙人』第1話
のろのろと走るダルマ船を尻目に、わたしは目黒川沿いの道を急いでいた。
腕にぶら下げた買いものかごの影が、七月の地面にゆれる。今日は帰宅時刻が遅れている。急がなきゃ、とわたしはさらに足を速めた。
不動前の商店街に足を踏み入れると、割烹着姿のおばさんや、会社から帰宅途中の背広姿の人たちであふれている。
八百伊予のおじさんが威勢のいい声をあげていた。おじさんは四国の伊予出身だからこの名前にしたそうだけれど、言いにくいから店名を変えろ、といつもみんなから言われている。
その向かいにある魚重のおじさんはーーこっちの名前は言いやすいーー店前の魚にたかる蠅を追いはらい、魚を新聞紙で包んでいた。人混みをすり抜け、わたしは熊谷精肉店の前にたどり着いた。
熊谷のおじさんはこちらに顔を向けると、満面の笑みを浮かべた。
「さっちゃん、仕事終わったのかい?」
「ええ」と、息を整えながら答えた。「牛肉くださいな」
「あいよ」
威勢よく応えるとおじさんは手を動かした。分量を伝える必要はない。この店だけではなく、他の店も同じだった。
商店街の人たちは、この近所の人たちすべての生活を把握しているのだ。竹の皮に肉を包むと、おじさんは素早く紐でしばった。
「今から健坊迎えに行くのかい」
「そうよ」
「健坊も育ち盛りだろ。もう少し食べさせてやりなよ。たまには贅沢しないと。もはや戦後ではない、だよ」
言葉の最後を強調し、熊谷のおじさんはにかっとわらった。内心ずきりとしたが、それを顔には出さない。
熊谷のおじさん、人はいいんだけれど、余計なことを口にするのが玉に瑕だ。そんなことを考えながら肉を買いものかごに入れた。
指先にふれたかごの感触が、わたしの気持ちを沈ませる。うら若き十九歳の乙女が買いものかごで通勤か……時間節約のため仕事帰りに買い物をするのだからしかたないが、あまりに不格好だった。
八百伊予では、ほうれんそうを買った。伊予おじさんもあれこれと話しかけてくる。
小さなころからこの街に住んでいるわたしは、商店街のおじさんたちにとって子供みたいなものなんだろう。
まあ、毎回まけてくれるんだからそれは感謝しているけれど、急いでいるときにこの人たちの長話の相手をするのはちょっと面倒だ。
わたしは適当なタイミングで話を切り上げると、店をあとにした。
商店街をぬけて五分ほど歩くと、板塀に囲まれた木造の小さな家々が建ちならぶ住宅街に入る。つたのからまる家を右手に曲がり、路地に入った。
道のはしに停められたリアカーの横を、買いものかごを両手で抱えながらすり抜けた。もう何ヶ月もここに停められているせいか、どこもかしこもさびだらけだ。
左手の空き地では、子供たちがたが回しをしている。自転車のホイールを木の棒で転がす遊びだ。
さらにその奥では、別の子供たちが馬跳びをしている。数人が次から次へと背中に飛び乗り、馬役の子供たちが必死に耐えていた。よくあれでくずれないものだ。
ふと、さきほどの熊谷のおじさんの言葉が頭をよぎった。
もはや戦後ではない、か。
近頃の流行語だけれど、あまり好きではなかった。それを口にする浮かれた人たちを見るたびに、どうしてかわからないけれど、妙なもどかしさを感じる。
マルおばさんの家に寄ろうとして足が止まった。背中に鉛がはりついたような疲れを覚える。
一旦、家に戻って一息いれることにしようと、体の向きを逆に変える。この角を右に折れたつきあたりがわたしの家だ。
角を曲がると、いつもの光景の中に違和感があった。
家の前に何かある。黒くて何だか大きなものだ。わたしは目を凝らした。
もしかして、人かしら……
道の真ん中で、誰かがうずくまっている。行き倒れかもしれない。
わたしはごくっと唾を飲み込み、そろそろと距離を縮めた。どうやら男性みたいだ。
白い半袖のシャツに、灰色のズボン。そして、黒い革靴を履いている。とても大きな革靴だった。全身が土ぼこりにまみれ、かなり汚れている。
呼吸が乱れているせいか、背中が大きく上下していた。わたしはゆっくりと回り込み、腰をひかせたまま声をかけた。
「あの、大丈夫ですか……?」
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