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テオドール〜もう1人のゴッホ〜《前半》

そろそろ2杯目のエスプレッソを頼もうかという時、入口のベルが鳴り、その男は入って来た。

私と目が合うと、被っていたボーラーハットを少し持ち上げ、頭を下げた。
華奢な身体にピタリと合ったタキシードが、男をシャープな印象に見せていた。

男はチラッと私が座るテーブルに目をやると言った。
「お待たせして、申し訳ありません。2杯目のエスプレッソは、私が払いましょう」

1887年 春。
そんなふうにして、初めて私はその男と会った。
弱冠30歳にして、老舗画廊ブッソ=ヴァラドン商会の、モンマルトル通り店を任される男。

テオドール・ファン・ゴッホ。
当時、モンマルトルでアートライターをやるならば、彼に会っていなくてはもぐりと呼ばれた。

この夜のカフェを皮切りに、私はこれ以後、3年にわたり4度、彼に話を聞くことになる。
彼の兄が、亡くなるまで。

さて、最初の夜の話を始めよう。
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私:「お忙しいところ、お時間を頂き、ありがとうございます」
テオ:「いや、少し展示の打ち合わせが長引いてしまってね。こちらこそ、すまない」

私:「去年の第8回印象派展はご覧になられましたか」
テオ:「えぇ。スーラにゴーギャンも出していたね。彼らの描く絵が、これからのパリの絵画の中心になっていく。個人的には、ルドンなんかも面白いと思ったが…まだ少し、うちの店では扱えないな。どうも、「上」の連中の頭が固くてね」

私:「あなたは若くして、ブッソ=ヴァラドン商会の新進作家展示室を任されています」
テオ:「ハハッ。やめてください、そんな大仰な言い方は。これで、なかなか苦労もあるんです」
私:「今、新進作家展示室にはモネやピサロなど、印象派の画家達の作品が展示されています。サロン画家御用達といったブッソ=ヴァラドン商会のイメージをあなたが刷新しました」
テオ:「いや、まだまだ古い。本当は、さっき言ったスーラ達の作品も展示したいんです」

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私:「去年の印象派展にもモネは出品していませんでしたね」
テオ:「そう。『印象派』すら、もはや新しいとは言えない。名前だけは残っているが、スーラ達のような、印象派をさらに進めた画風を持つ画家が出てきている。かつて、印象派と言われた画家達も、その画風を変化させている。いつまでもサロンなどと言っていては、来年にはモンマルトル通りからうちの店は消えているでしょう」
私:「……」

私:「展示室を新しい画家達へ開いたことで、若い画家達とのコネクションもできたのでは?」
テオ:「エミール・ベルナール、トゥールーズ=ロートレック…他にもいるが、彼らと話していれば、作品を見れば分かる。彼らが、これからの時代を担う画家だ。私は彼らに光を当てたい。画廊とはそうあるべきだろう?」
私:「仰る通りです。ロートレックは所属するコルモン画塾でも高い評価を得ていますね」
テオ:「えぇ、コルモン画塾には私の、あ……」
何か言いかけて、テオは一瞬考えるように俯いた。

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テオ:「……とにかく、私は私の仕事をしなくてはならない。さっき、彼らに光を当てたいと言ったが、彼ら自身が、『光』なのです。時代も画廊もそれを無視できるはずがない」
私:「……」

私:「それにしても、このカフェは素敵ですね。打ち合わせはいつもここで?」
テオ:「私も気に入っています。兄がここの店主、アゴスティーナと仲良くさせてもらっていてね」
私:「そうですか。お兄様がおられましたか。お兄様も絵画のお仕事を?」
テオ:「いや、えぇ、まぁ、そんなところです」
私:「そうでしたか。では、お兄様もモンマルトルで活動されてるんですね」
テオ:「はい。ニューネンに居たんですが、最近、こっちに引っ越してきましてね。それも突然、私の家に転がり込んでくるもんだから、一気に部屋が手狭になってしまって、仕方なく引っ越したんです」
私:「ハハッ。それはなんとも、豪快なお兄様ですね。今度ぜひ、一度会わせて下さい」
テオ:「そうですね。あなたもアートライターをしていれば、いずれ会うことになるでしょう。だが、それはまだ今じゃない」
私:「そうですか。では、お兄様のお名前だけでもお聞かせ願えませんか?」
テオ:「覚えておいて下さい。私の兄の名は、フィンセント。フィンセント・ファン・ゴッホです」
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さて、ここで私と別れ、アパートに戻るテオを追ってみよう。
この頃、テオは兄のゴッホと共に、ルピック通りのアパートで暮らしていた。
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テオがアパートに戻ると床に何本ものアブサンの空き瓶が転がっていた。
窓際に置かれたソファにだらしなく横たわる背中に声をかける。

「兄さん、また昼から飲んでたの?部屋中、酒臭いよ。スーツにも移るんだから、少し控えてくれないと」
その声に、兄はごろりと体を反転させた。
酔いで濁った目でこちらを見据える。
明かりの消えた部屋に、窓越しから差し込む月明かりが、不健康に削げた頬を一層、青白く見せている。

「へぇ…小さい頃は兄さん、兄さんて、人の後ろばかりくっついてきた奴が、随分偉くなったじゃないか」
そう言うと、兄はへらり、と笑った。
「いや、そんなことは…とにかくこの空き瓶を…」
「おい、テオ、ところでお前…」
気怠そうに手近の空き瓶を手に取ると、兄は突然、激昂した。
「誰に向かって口を聞いている!」
投げつけられた瓶を間一髪で避けると、瓶は壁に当たって砕けた。キラキラと、舞い散るガラスの破片が妙に美しかった。

「説教とは恐れ入る。流石に言うことが違うな。ブッソ=ヴァラドン商会、新進作家展示担当にもなると」
立ちすくんでいると、兄はゆっくり立ち上がり、近づいてきた。
目の前に、兄が立つ。少しだけ、兄の方が背が高い。
自然と、見上げる格好になる。
「何言ってるんだよ、酔ってるのか?だから酒は控えてくれって…」
「これくらいで酔うか。食前酒と変わらん」
「そう、ならいいけど。とにかく瓶を片付けよう。それから、何か食べよう。どうせ何も食べてないんだろ?そうだ、5番街の方に新しくできた…」
「俺は正気だ」
「分かったって」
「その上で、お前に言っておく。よく聞け」
ぬっと、兄が顔を近づける。
酒臭い。
「お前の仕事は、クソだ」
「なっ…」
「聞こえなかったか?もう一度言ってやる。お前の仕事は、正真正銘、クソだ」
それだけ言うと、兄は引き返し、ふたたび背中を向けてソファに寝そべってしまった。

「どういうことだ!説明しろ。僕の仕事がクソって、どう言う意味だよ!」
「分からないか?そのままんの意味さ。死んだような絵を勿体ぶった部屋に飾って有り難がってる」
「違う!僕は新しい画家達の為に、あの展示室を開放しようとしてる。彼らの力になりたいんだ!」
「新しい?それはロートレックのことか?スーラか?まさかモネとは言うまい。いずれにしたって、ただのままごとだ。金を取るだけいっそ、タチが悪い」

「僻みだろ?」
痩せた背中を見ていたら、ふと、そんな言葉が漏れた。
「コルモン画塾、なんで辞めたんだよ。あそこで絵画の基礎を学ぶんじゃなかったのかよ。そこで一緒だったロートレックが個展を成功させて、自分が取り残されて、だから焦って僻んでるだけだろ!」
「あんな※1カタワの何を僻む。冗談にしたって笑えん」
※1ロートレックは足に障害があった

「兄さんはいつもそうだ。人からの意見を受け入れない。いつも人を拒絶して、人の成功を妬んでる。そうやって酒を飲んでればいい。けど、そんな人はもう兄でもなんでもない、今すぐここを出てってくれ」
「そんなに嫌ならお前が出て行け。この、嘘つきが。俺もたいがい、お前の顔を見るのが嫌になってたところだ、丁度いい」

「嘘つき?何が嘘つきだよ!?」
兄は、再びこっちを向いた。
さっきより、静かな目をしていた。
「お前、俺を有名にするんじゃなかったのか?」
「……」

「俺の絵を、ブッソ=ヴァラドン商会の一番良い壁に、飾るんじゃなかったのかよ?」
「そ、それは…まだ交渉してるんだ、大変なんだよ、あの壁を空けるってことは」
「大変なものか。額縁の方が立派な、化石じみたサロン画家の絵を外して俺の絵を掛ける、2秒で済む話だ」
「……簡単に言うなよ、僕の気も知らないで」
「今更泣き言か?今更、言い訳か。だからお前の仕事はクソと言ったんだ。出来もしないことを、やる気もないことを、お前こそ簡単に言うな、ペテン師め」

「僕だって兄さんの絵を飾りたいさ。その為に必死でやってる。本当だ」
「テオよ、もう何も言うな。これ以上、俺を欺く言葉を重ねるな」
兄はテオの肩に手を置くと、ドアへ向かった。
「違う!それは断じて違う!」

「タンブランで、飲み直す。お前より、アゴスティーナの方がよっぽど話し相手になる」
背後で静かに、ドアの閉まる音がした。

ゆっくりと、ソファへ近づくと、瓶に混ざってキャンバスが落ちていた。
点描の風景画…まるでスーラのような。

兄さんの絵は、パリに来て色彩を身につけつつある。
口では批判しても、新しい絵画の技法を身につけ、確実に変わりつつある。

あと少しなんだ。
きっと、凄いことが起こる。
兄さん自身さえ、信じてはいないだろう。
けど僕には分かる。
何故なら僕は、テオドール・ファン・ゴッホだ。
この世界でただ1人、フィンセント・ファン・ゴッホの才能に、気づいてる男だ。
ちくしょう!

そう思ったら、涙が止まらなかった。
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ここで少し、時計の針を進めよう。
テオが1人、暗いアパートで立ち尽くしていた夜から2年。

1889年、春。
私は再び、モンマルトルのカフェで、テオドールと向かい合っていた。
しかし、今回の語り手は私じゃない。
その役は、インタビュー相手のテオドール自身に担ってもらおう。
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2年前は確か、待たせてしまった。
そう思って約束の時間より早めに来た。
扉を開けると、カウンターでアゴスティーナがモヒートを煽っていた。

「久しぶりです」
「あぁ、誰かと思ったらテオかい。あんたの兄貴だったら、このグラスの中身をぶっかけてるとこだよ」
「色々と兄が、迷惑をかけたみたいですみません」※2
「ふん、こっちはね、可哀想な男と思って話し相手になってやってたんだ。それも商売だからね」
「わかります」
「それを何を勘違いしたんだか。盛りのついた犬じゃあるまいし、アレでも一応、芸術家なんだろ?恥を知れってんだ」
「仰る通りです」
「まぁいいさ。で、何にする?」
「エスプレッソを、2つ」
※2ゴッホは過去にアゴスティーナに求婚し、揉め事を起こしていた


目の前のアートライターの男は最近、パリで台頭し始めている、新印象派達の動向を聞き出すと、おもむろに話題を変えた。

「そういえば、最近ご結婚されたとか?」
「えぇ、ありがとうございます」
「お兄様も喜んだでしょう?確か今、アルルにいらっしゃるんですよね?」
「はい、向こうで精力的に作品を描いてます」
「ジュリアン・タンギーの画材店で、お兄様の作品を拝見しました。店主のタンギー氏を描かれたものでしたが、背景に浮世絵が描き込まれており、非常に面白いと感じました」

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面白い、か。
そうなのだ。
兄の絵はまだパリの美術界では所詮、際物だ。
大きな画廊のセンターウォールを飾れる力はない。
しかし…

「それは兄がパリにいた頃の作品です。アルルで兄の作品はより鮮やかな色彩を手に入れました。この前送られてきたひまわりの絵など、燃えるようです」
「ほう、それはぜひ拝見したい」

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一瞬、本気で迷った。
この男を画廊のバックヤード、兄の作品を保管している場所へ連れて行こうかと。
どうやら私も、相当焦っているらしい。
そう気づいたら、苦笑が込み上げた。

「いえ、それはまたいずれ」

今じゃない。
この男では惜しい。
兄の絵は、然るべき時に、然るべき場所で発表されるべきだ。
その価値が、兄の絵にはある。

「分かりました。では楽しみにしています。ところで、アルルではお兄様はゴーギャンと共同生活をしていたとか」
「はい、ですが、今は解消しています」
「そのことについてなのですが、噂ではお兄様が激昂して、ゴーギャンの耳を切ったとか…実際、どうなんでしょう?」

ふふ。
こういう話には、尾鰭がつくものだ。

「さぁ。本人に、聞いてみてください」
「そうですか。それで、お兄様はこれからもアルルで生活を?」
「どうでしょう?それも、兄に聞いてください」
「聞いてますよ、なんでも、あなたのお兄様は錯乱状態になった挙句、町の女、子供を襲って、精神病院に入れられたそうじゃないですか」
「ふん、あなたもアートライターなら、事実をもう少し正確に調べた方がいい」
「反論しないということは、それが事実なのでは?」
「反論する価値もないくらい、荒唐無稽だということです」

「まぁいいでしょう。それではあなた自身のことを聞かせてください。あなたは今、展示内容をめぐって、画廊の経営者ブッソ=ヴァラドンと対立しているそうですね」
「そんなことは、別に今に始まったことじゃない」
「やはり、あなたは新しい絵を押し出したいと?」
「そうです」
「ふむ、でも、本当にそれだけでしょうか?」
「何が言いたいのです?」
「もしかしてあなたはお兄様の絵をブッソ=ヴァラドン商会で扱いたいのでは?」
「仮にそうだとして、あなたには関係のない話だ」
「確かに、仰る通りです」
そう言って目の前の男は首を傾げて微笑んだ。
食えない男だ。

「勘違いしないでください。私はあなたのお兄様の絵も才能も、かってるんです」
「そうですか」
「それともう1つ」
「……」
「私は、お兄様以上にかっているんですよ。テオドール・ファン・ゴッホ、あなたをね」
「……」
「おっと、もうこんな時間でしたか。今日はお時間を頂き、ありがとうございます。また、お会いしましょう」

男はジャケットのポケットから紙幣を何枚か取り出すと、テーブルに置いた。
エスプレッソ2杯に、タルティーヌを頼んでもお釣りがくる金額だった。
「なに、結婚祝いですよ。奥様、綺麗な方らしいじゃないですか。お幸せに」
そう言うと男は足早に去って行った。
やはり、食えない男だ。

私はそこにもう一枚紙幣を重ねると、アゴスティーナに声をかけた。

「お釣りはいらない。取っといてくれ」
「ふん。迷惑料かい?それとも、口止め料のつもりかい?」
「どっちもだ。それで、足りるかい?」

アゴスティーナは紙幣を数えると、1枚だけ残して、あとは私の背広のポケットに捩じ込んだ。
「女はね、金で釣れると思われるのが一番嫌なのさ。覚えときな、ボーヤ」
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私がテオドールにインタビューしたのはあと2回。
彼の兄、ゴッホがサン=レミの療養所にいた1890年の冬と、その半年後の夏だ。
もっとも、最後のインタビューの時にはもう、彼の兄はこの世にいなかったわけだが。
その2回の様子は、《後半》に譲りたい。

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