見出し画像

短篇小説「ノクターン」

 目を覚ましたら僕はここにいたんだ。硬い石畳のような道の上で、丸くなって寝ていた。ここではゴォーとか、ヒューとか、不思議な音が聞こえるんだ。だけど、風が吹いているわけでもなく、ただその音だけが鳴っている。誰かの声のようにも聞こえる。でも、なんて言っているのか僕にはわからない。
 夜に連れてこられたのか、目を覚ました時、辺りは真っ暗だった。見渡す限り街灯一つなく、建物が建っているのかどうかさえ、わからなかった。ただひたすらに真っ暗な世界が続いていたんだ。
 自分で言うのもおかしな話だが、僕はこの頃からかなり好奇心旺盛な子どもで、こんな場所に連れてこられても特別怖がることもなく、すっと立ち上がり、寝転んでいた道を真っ直ぐ歩いていった。多少の体の震えより、この場所を知りたい気持ちの方が勝っていたのかもしれない。
 この道はずっと平坦で、幼かった僕でも簡単に歩けた。小さな靴で小さな歩幅であてもなく歩いた。どこまで歩いても何が出てくるでもなく、真っ暗な中、ゴォーとヒューだけが果てしなく聞こえていた。
 しばらく歩き続け、とうとう僕は気づいたんだ。ここは僕の住んでる町じゃないと。どれほど経っても、いつもの公園も見えないし、大嫌いな学校も見当たらないのだから。
 時間もわからず、その日は長い長い夜を過ごした。ただ一人、道の上で眠ったんだ。幼い僕にこの道を歩き切るだけの体力はなかった。それは冷たく、石のように硬かった。ここで寝転んでいたら、僕の体も同じように硬くなってしまうのではと不安に駆られた。けれど睡魔には勝てなかった。どこかも知らぬ道の上で僕は眠りに落ちたんだ。この日を境にこの不思議な夜は僕の生活に潜むようになった。

 夜が明けて朝が来ると、僕はいつものベッドの上にいる。横を向けばお気に入りの星模様の壁紙だし、勉強机の上にはやりっぱなしの宿題もそのままだった。そして僕はというと不思議な夜のことはよく覚えていなかった。けれど、なぜだかいつもよりずんと体が重たかったんだ。
 この日僕は初めて学校を休んだ。どうしても体の鉛が落ちてくれず、思うように動かなかったんだ。どれほどイジワルをされても、どんなに先生が理不尽でも、毎日きちんと行っていたのに。おばあちゃんはそういう日は休みなさい、と言ってくれた。どういうわけか、おばあちゃんは随分と優しくなっていた。だから僕は学校を休んだ。
 しかし一日中ベッドの上に寝ていたかというとそんなこともなく、昼間にはすっかり元気になっていた。時間を持て余していた僕は階下へ行き、おばあちゃんと一緒にお昼ご飯を作った。
 キッチンに背が足りない僕は、僕専用の黄色の踏み台の上に立ってお手伝いをした。お手伝いといっても、幼い僕ができることなんて限られていて、せいぜいおばあちゃんの横でおしゃべりを繰り出すくらいだった。それでもおばあちゃんはありがとう、と言ってくれたんだ。
 その後は二人で絵本を読んだり、雨の降る中お庭で遊んだりした。しばらくすると学校帰りのクラスメイトがやってきて、宿題を届けてくれた。おばあちゃんはクラスメイトと僕にオレンジジュースを入れてくれた。けれど、僕たちはそれに手をつけることなく、言葉を交わすことはなかった。だって、お友達ではないから。おばあちゃんは、少し寂しそうな顔をしていたけれど。
 そして僕はパパとママの帰りを待った。だけど、夜になっても二人は帰って来なかった。部屋のカーテンは閉められ、外はすっかり暗くなってしまった。そしておばあちゃんはこう言うんだ。もう寝なさい、と。
 おばあちゃんに抗ったところでうまくいかないことはわかっている。だから僕は仕方なく、ひとりで2階に行き、部屋に戻ってパジャマに着替えてベッドに潜り込んだ。でも、パパとママのことが気になって眠れなかった。目を閉じようと思っても全然閉じれないんだ。そうしているうちに僕はまた、あの真っ暗な世界に連れてこられた。
 この真っ暗な世界というのは本当に不思議なところだった。ここへ連れてこられる度、僕は最後には必ずあの冷たい道の上で眠ってしまった。それなのに朝目を覚ますと必ずベッドの上にいるんだ。そして翌朝、僕はこの真っ暗な世界のことをあまりよく覚えていなかった。
 じゃあどうして今この話ができるのかって?それはすべてが解決したから。すべては収まるべき鞘に収まり、僕も平穏を取り戻せたから。ここに至るまでには、本当に色んなことが起こった。簡単なことじゃなかったんだ。でも僕はやり遂げたんだ。
 この先を読み進める前にひとつだけ知っておいてほしいことがある。それはこのとき僕はまだ、たったの6歳だったのだということ。

 あの日はみんなが涙を流していた。本当にみんな、だった。その光景に怖気付いた僕は、わけもわからず一緒になって泣いた。わけではなかった。そんな姿の大人たちに呆気に取られ、ただ呆然と立ち尽くしていただけだった。
 そこにいる全員が真っ黒い服を着ていた。かばんも帽子も、全部真っ黒。僕はなぜかいつものTシャツにジーンズだったんだけど。だけど、それがなぜかは分からなかった。おばあちゃんに聞こうとしたけれど、とてもそれどころじゃなかった。みんな泣くのに必死で、僕の疑問に答えられる余裕のある人は誰もいなかったんだ。パパとママはいなかったけれど、昼間いないのはいつものことだから、特別不思議にも思わなかった。
 外は雨模様で、みんな黒い傘を差していた。おばあちゃんも黒い傘を持っていた。僕はなにも持っていなかったけれど。本当はお気に入りの青い傘を持ちたかった。でもどこにも見当たらなかったんだ。家中探してもどこにもなかった。なんで?なんで?誰も教えてくれなかった。
 しとしとと雨が降る中、僕は目一杯に広がる草地にいた。目の前には灰色の四角い箱のようなものが一つ建っていた。地面は大きく深く掘り起こされ、その中にはこれまた大きな箱が二つ、それから少し小さい箱が一つ、すっぽりと納まっていたんだ。その穴は僕が寝転がれるほど大きかった。
 綺麗に生え揃ったこの草地には、他にもたくさんの灰色の箱が建っていた。それはだだっ広い緑の中に等間隔に置かれていた。風変わりな公園のように見えたけれど、遊具は一つもない。ブランコも、すべり台も、なにも。そこには僕ら以外、誰もいなかった。僕は箱の中に何が入っているのかおばあちゃんに聞こうとしたけれど、やっぱりうまくいかなかった。
 この場所は味わったことのない息苦しさで覆われていて、深い霧のせいで、昼間でも辺りは薄暗かった。結局、何が起きていたのか、何が行われていたのか、誰からも教えてもらえないまま、夜がやって来た。それはとても静かで、不気味で、長い夜だった。
 おばあちゃんと一緒に家に帰ってきた僕は、どうしてかすっかり疲れてしまい、気づけば1階のソファの上で眠ってしまったらしい。おばあちゃんが茶色い古びた小さなブランケットをかけてくれてた。目を覚ますとカーテンも閉め切られ、外は真っ暗だった。
 僕は勢いよく立ち上がり、部屋を見渡した。パパとママが帰ってきてるはずだから。まだおかえりのハグもしてないし、ただいまのキスももらっていない。でも、どこにもいなかった。リビングにもキッチンにもバスルームにも、僕の部屋にもおばあちゃんの裁縫部屋にも二人の寝室にも、どこにもいなかった。
 不思議なことにこの日からパパとママは帰ってこなくなったんだ。いや、本当はもう少し前からだったのかも。けれど僕にはこの日が強烈に記憶され、この日から二人はいなくなったと思ったんだ。
 パパとママは、朝になると僕よりも随分と早く目を覚まし、毎日同じような紺色の服を着て、まだ寝ている僕に行ってきますのキスをして出て行くんだ。僕は夜帰ってくる二人を待たない限り、パパとママに会えることはなかった。それでも帰ってくると必ず僕のことを抱きしめてくれた。それが嬉しくて、僕は眠い目を擦りながら毎日待っていた。
 けれどそんな日が訪れることは決してなかった。次の日、目を覚ましても、やはりそこにパパとママの姿はなかった。代わりにリビングには二人の写真が飾られていた。真ん中には僕が立っていた。それは三人で出かけた、海での写真だった。初めて見る海に、大興奮したんだったっけ。
 その日僕は、学校でも、公園でも探したんだ。怖い骸骨がいる理科室にもちゃんと行ったんだ。授業以外の時間に入ると先生に怒られるのに、この日はなぜか怒られなかった。背の大きな強そうな男の子たちがいる、公園のトンネルだって覗いてみた。彼らは弱いものいじめが好きだったけど、この日僕は何も声をかけられなかった。不思議なことばかりが起こったんだ。
 そして、やっぱり、二人はどこにもいなかった。おばあちゃんに尋ねても、深いため息をつくばかりで何も言わない。僕は諦めて、ただおばあちゃんと二人きり、生活を送ることになった。
 この日から毎日は退屈で、一分一秒が果てしなく感じられた。学校での授業もなぜだか退屈だった。それまでは授業中にノートに絵を描いて先生に怒られたり、休み時間や放課後にはクラスメイトに教科書を隠されたり、ロッカーを荒らされたりしていた。それなのに突然、すべてがなくなった。誰も僕に興味を持たなくなったかのように。
 パパとママがいないのは、もちろん寂しかった。だけど、必ず帰ってくると信じてたんだ。だって、これまで一度だって帰ってこなかった日はなかったのだから。けれどパパとママが帰ってこなくなってから、三回目の夜が過ぎようとしていた。僕は何もわからないなりに、心に深い溝ができてしまったような、塞ぎようのない穴がどんどんと奥底へと広がっていくのを感じ取っていた。
 おばあちゃんはというと、すっかり気落ちしてしまったのか、僕とも全然話をしてくれなくなったんだ。常に暗い顔をして、ため息をついてばかり。話しかけても聞こえているのかどうかさえわからない。あんなに毎日おしゃべりしていたのに。一緒に遊んでくれたのに。あまりの変わりように、僕からもおばあちゃんに声をかけることはなくなっていった。
 僕にはおばあちゃんが怒っているように見えたんだ。だって僕が話しかけると、決まってあの写真のほうを向いてしまうから。それまでは必ず目を見て笑って話を聞いてくれたのに、そんなことはなくなってしまった。とうとう僕は、おばあちゃんの笑った顔を忘れてしまった。

 どんな日でも決まって夜はやって来る。それも毎日同じ時間にやって来るんだ。絶対に狂うことはない。パパとママは平気で1時間遅れて帰ってくることがあったのに、夜は何が起きても遅れることはなかった。
 パパとママが帰ってこないのに夜だけがやって来ることが、僕には不思議でならなかった。この頃の僕にとって夜というのは、二人が家へ帰ってくる時間だったから。一緒にご飯を食べ、テレビを見て、学校の話をする時間だったから。
 その全てがなくなってしまった今、僕は夜になると毎日迷子になった気分だった。何をすればいいのか、わからなくなってしまったんだ。おばあちゃんと二人きりで夜を過ごしたこともなかったし、部屋で一人きりで過ごしたこともなかったのだから。
 どこまでも果てしなく続く道をパパとママを探して歩いた。薄暗い路地だって、ゴミの溢れた道だってすべて歩いたんだ。深い森や長い川だって越えて見せる。二人を見つけるためならなんだってしようと思っていた。
 だけど、どれほど歩き回っても二人が見つかることはなく、気づけば僕は迷子になっているんだ。声を上げても誰も気づいてくれない。パパとママを呼んでも、助けには来てくれない。毎日がこの繰り返しだった。なんとも夢現な気分だった。
 この頃にはすっかり誰とも話さなくなってしまっていた僕は、部屋に篭もる時間が長くなっていた。頭の中では学校にも行ってるし、宿題だってちゃんとやっている。もちろんおばあちゃんとだって仲良く遊んだり、お手伝いもしてる。
 だけど実際は何もできなかったんだ。そういった妄想の世界の中で僕は僕を保つようになっていた。塞ぎ込み、おかしくなってしまったおばあちゃんの側で、僕も一緒におかしくなってしまったようだった。
 変わらず何も発さないおばあちゃんだったが、毎日ご飯だけは作ってくれた。きっと何も考えずに作っていたのだろう。パパとママと僕の三人分。毎日毎食、出てくる料理は一緒だった。
 だけど、その時間だけは僕も部屋から出て、1階のダイニングテーブルに座った。僕の向かいがパパ、その隣にママ、僕の隣がおばあちゃんの席だった。そうそう、おじいちゃんは僕が生まれるよりももっとずっと前に死んじゃったみたいで、このダイニングテーブルにおじいちゃんの席はなかった。
 僕はおばあちゃんの隣に座った。目の前に置かれた皿には少し焦げたベーコンエッグが盛られ、コップには牛乳が注がれていた。
 僕はほとんど食事が喉を通らなかった。相変わらず何が起こっているのかわからないままで、この異様な空気が僕を変な気分にさせたんだ。それはとても気持ちの良いものではなかった。どちらかというと、吐き気を催すようなものだった。
 そんな空気を常に吸っているのだから当然お腹が空くはずもなく、僕は何も食べられないでいた。僕の目の前に置かれた皿の料理は、減ることはなかったんだ。もちろんパパとママのお皿も。減っているのは、おばあちゃんの皿の料理だけだった。
 そうして僕の生活はどんどん狂っていった。すっかり学校には行けなくなってしまったし、とうとうクラスメイトも宿題を持ってこなくなった。唯一、先生が訪ねに来たみたいだったけど、おばあちゃんと二人、涙を流してそのまま帰ってしまった。そのとき先生は全身真っ黒の服を着ていた。学校では一度も見たことのない格好だった。どうしてそんな服を着ていたのか、どうして先生も泣いていたのか、僕にはわからなかった。とうとう僕は、ひとりぼっちになった気分だった。
 だけどあの不思議な夜がやってくるあの時間だけは、一人じゃないと思えたんだ。もちろん誰の姿も見えない。変わらずそこではゴォーとヒュー以外の音は聞こえなかった。それでも僕は毎晩不思議な夜に連れてこられては、しばらく道を歩き、疲れると冷たくて硬い道の上で体を丸めて眠ったんだ。
 僕は、目を覚ましたくなかった。ずっとこの不思議な夜に留まっていたかった。ここにいればなぜだか心は落ち着くし、かわいそうなおばあちゃんの姿を見ずに済むから。ひとりぼっちにならずに済むから。
 だけどそれは時間が許してくれないんだ。必ず朝はやって来て、僕の体はそれに従うように目を覚ましてしまう。ベッドに深く潜って少しの間抗ってみるけれど、うまくいったことはない。そしてまた、狂ってしまったおばあちゃんと、僕の二人きりの、寂しい一日が始まるんだ。
 かつて、それはパパとママが毎日帰って来ていた頃のこと、僕はそれは活発で元気な子だったんだ。外で遊ぶのが大好きだった。友達は少なく、勉強もあまり好きじゃなかったけど。ママは毎日美味しいご飯を作ってくれたし、パパは僕の話をたくさん聞いてくれた。二人はとても忙しい仕事をしていたけれど、それは僕の自慢でもあったんだ。
 どれほど忙しくても、休みの日は必ずお出かけに連れて行ってくれたし、たくさん遊んでくれた。僕は車が大好きだったから、滅多にない晴れの日、パパはよく僕を隣に座らせて、ドライブに連れて行ってくれた。海にも行ったし、山も登った。
 そんな時間が呆気なくどこかへ消えてしまった今、僕は途方に暮れるしかなかった。おばあちゃんはどこにも連れて行ってはくれなかったし、だけど、学校に行かない僕を叱ることもなかった。毎日、いっぱい遊びなさい、と言っていたのに、庭で遊ぶことがなくなった僕を見ても、何も言わないんだ。パパとママが帰ってこなくなってから、僕の周りではこうした不思議な出来事ばかりが起こるようになったんだ。

 この町は本当によく雨の降る場所だった。それはほとんど毎日と言っていいほど。太陽を見る日は年に数回。それも数時間だけだった。そんな珍しい晴れの日に、またまた不思議なことが起こったんだ。
 それは二人が消えてから1ヶ月ほど経った頃。カーテンを開けると眩しいほどの陽射しが一気に差し込んできた。久しぶりの太陽に、目が焼けそうになり思わず目をつぶった。もちろん学校には通っていなかったし、おばあちゃんと言葉を交わすこともなかった。パパとママも、いない。
 その日も何も感じない一日を過ごすはずだった。それなのに突然おばあちゃんが僕の部屋に入ってくるなり、こう言ったんだ。学校に行きなさい、と。
 僕は驚いてしまった。1ヶ月もの間、僕は何も言われることなく、ただ一人、この部屋に篭って過ごしていたんだ。まさか学校に行くように言われるなんて思ってもみなかった。あれほどおかしくなっていたおばあちゃんの姿はそこにはなく、かつての笑顔のおばあちゃんが立っていた。
 その顔を見た瞬間、僕はこう思った。パパとママが帰ってきたんだ、と。そうでなければ急に笑顔なんて見せるはずがない。昨日の夜まで僕の目を見ることすらなかったんだから。そうだ、間違いない。
 僕は急いで階段を下り、パパとママを呼んだ。勢いあまってソファにぶつかって転んでしまったけど、そんなことどうだって良かった。だってパパとママに会えるんだもの。そして僕は再びパパとママを呼んだんだ。
───パパ!ママ!
 ……
 返事がない。二人が駆け寄ってくる足音もない。おかしい。そんなはずはない。だって、おばあちゃんがあんなに嬉しそうにしていたんだから。
───パパ?ママ?
 ……
 返事がない。二人が駆け寄ってくる足音もない。おかしい。じゃあ、どうしておばあちゃんは笑っていたの?
 呆然とする僕に、おばあちゃんは背後から声をかけた。やっと学校に行く気になったのね、と。僕はもう一度よく見ようとおばあちゃんの顔を覗き込んだ。やっぱり笑っていた。だけど、だけど、何か違う。やっぱりおばあちゃんは怒っているのかもしれない。僕はそう思ったんだ。だって、おばあちゃんは僕と目を合わせてくれなかったから。
 突然学校に行かされたこの日から、おばあちゃんはすっかり元気になったのか、以前のように笑顔でいる時間が長くなった。僕にも話しかけてくるようになったんだ。変わらず目は合わせてくれなかったけれど。久しぶりに行く学校はなんだか居心地が悪かった。僕がいない間に、僕の居場所は消えてしまったようだった。クラスメイトも、先生も、誰も僕に見向きもしないんだもの。僕が椅子に座っているというのに、その上に別の人が堂々と座ってくるんだ。僕は押し潰されそうになったけど、不思議と痛みは感じなかった。
 僕が必死に手を挙げても先生は当ててくれない。他に誰も手を挙げていないというのに。僕のロッカーはなぜか空っぽで、教科書やノートはどこかへ捨てられてしまったようだった。
 来る日も来る日もこんな調子で、僕は頭の中がいっぱいになってしまったんだ。6歳の子どもには抱えきれなかったんだ。結局僕は、再び学校へは行かなくなってしまった。おばあちゃんには学校に行きなさいと言われるから学校へ行くふりはするんだ。だけど、学校へは行かずに反対方向にある川へ向かった。毎日そこで寝そべり、雨に濡れながら夕方になるのを待った。そしてちょうどいい時刻になると僕は家へ帰るんだ。
 僕が出席しなくても、どうしてか、学校から連絡が来ることはなかった。だからおばあちゃんも僕が本当は学校へ行っていないなんて知る由もないんだ。

 そういえばあの不思議な夜の話をしていなかったね。おばあちゃんの変わり様に驚きを隠せなかったものだからすっかり忘れていたよ。
 この大きな異変は、少なからずこの不思議な夜にも影響を与えていたんだ。変わらずあそこではゴォーとヒューだけが聞こえていたけれど、あるとき僕はたった一つの街灯を見つけたんだ。ただの真っ暗な世界だと思っていたこの夜に、明かりが灯ったんだ。
 明かりが灯ったことで、不思議な夜の様子が少し見えるようになった。一様に暗闇が続いているだけだと思っていたそこには、建物が建っていた。それも一つや二つじゃない。長く続く道に沿って、何軒も並んでいたんだ。
 それは煉瓦調で、すべて同じ形をしていた。誰かが住んでいるのか、もくもくと煙が上がっているようだった。けれど、どの建物にも窓はなく、中の様子は見てとれなかった。そうしてしばらく歩いていると、明かりは遠くなり、辺りは再び暗闇に包まれた。あの一角だけがぼんやりと薄明るく見えていた。
 どうしてか僕は、あそこに行かなければならないという衝動に駆られていた。あの建物の中を知りたい、中に入らなければ。

 灯りのありかにたどり着くと、そこには懐かしい顔が二つ並んでいた。

───パパ!ママ!どこに行ってたの?

 僕は二人のもとへ駆け出した。早くあの腕の中に飛び込みたい。いつもように優しく抱きしめられたい。そして二人の笑った顔が見たい。
 パパとママはゆっくりと近づき、そっと僕の頬をなでた。優しく、柔らかい手だった。安心した僕は、歯を見せて笑った。やっと会えた。やっと会えたんだ。そして三人で手を繋いで歩き始めた。このときパパの手にはテントが一つ、ママの手にはクーラーバック、そして僕の手には釣り竿が握られていた。

───おばあちゃん、ごめんね。僕はもう行かなくちゃ。ひとりでも悲しまないで。ときどき顔を見せるから。

 そして僕は、この家を去った。そこに残されたのは、おばあちゃんと、キャンプに出かけたっきり帰ってこなかった僕ら三人の写真だけだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?