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娘の高校卒業式で思い出すこと

「ニコニコしてる!!!きっといいお友達がいっぱいできるね。」
娘が生まれて、6か月過ぎたころに娘を見た母の友人が私の娘にそう言ってくれた。私はその時、思った。
「よかった。この子は私と違う人生を歩める。」って。

私はずっとずっと「ともだち」という言葉に恐怖を抱いてきた。「ともだち」と誰かのことを呼ぶのが怖かった。またそう躊躇なくそう呼べる人がいなかった。
だから、うちの娘は私みたいな人生じゃないんだ!と思って安心した。私みたいになってほしくない。ずっとずっとずっとずっとそう思ってきた。

私みたいになってほしくない。つまり、要領が悪く、不器用で、人付き合いが苦手で、本当に仲良くなれたと思う人にはのめりこみすぎて、結局は裏切られたと思ってしまう。人に片思いしすぎの重たい自分。一生懸命だけどその努力は決して実ることなく、「このことに気づくためだったんだね」と自分で自分を慰めて、悔しい思いを押し隠し、沈殿させて、本当の本音を押し込めた偽善者。ネガティブな自己分析はどこまでも続く。
とにかく、そんな私みたいな人生を、決して、この子は歩みませんように。明るく、大きく、のびのびと、可能性の翼をどこまでも広げ、どこまでも自由に、どこまでも、多くの人たちと、生きていく喜びを分かち合える人生を歩んでいけますように。

そして、彼女の高校の卒業式。私の思いはかなったと実感した。親はそっちのけで、たくさんの友人と和気あいあいと、写真撮影を楽しんでいる彼女に、「よかった。私の過去が、一つ、浄化された。」そう思ったのが正直な感想だった。

そして過去の高校生だったころの自分の思いが浮き彫りになった。

いろんな答えが自分の中で出てきた。

そして、本当だったら、だれにも言えないようなみじめな過去を、丸ごとすべて、受け止めて聞いてくれる夫が隣にいる。

もう消えてしまいたい高校時代だった。今でもその思いは決して消えたわけじゃない。だけど、今思うことは、消えなくてよかったってことである。

高校生の時、絶望のまま消えていたら、夫にも出会えなかったし、娘にも出会えなかった。そして、自分の過去も浄化されないままだった。今現在、一人は「ともだち」と心から躊躇なく言えて、お互いにそのことを分かち合える人はいる。

自分を決してあきらめない。放り出さない。だれが去って行っても、自分だけは絶対に自分の味方でいてあげる。これからもずっと。
そう思っても大丈夫だってことを、証明してくれた娘の卒業式が開催されたことは、決して当たり前じゃないことも、しっかり心にとどめておく。

追伸
私的なことなので、心に秘めておこうと思っていましたが、スタンドFMのほかの配信者さんのお話聞いて、私も私なりのことを語りたいと思って収録配信してみました。
こうして、いろんな方の影響を受けて少しずつ、自分の世界を広げていきたいと思います。みかんさん、ありがとうございました。
しゃべるだけだと、また、何か深堀足りないと思い、文章化してみました。それでもまだ足りないと思う部分は、おいおいと更新していきます。(笑)


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