人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり
どんなに辛いことがあったとしても、祖母の前では決して、それを見せてはいけないと思っていた。
#我慢に代わる私の選択肢
意識された日常
誰に言われた訳でもないのに、祖母がいる食事の席で私は、いかに毎日楽しくて充実しているのかという話を聞かせることに徹していた。
それは嘘を吐くとか話を盛るとかそういうことではなく、例えば小学生のころ、友達とどんぐりでやじろべえ作っただとか、家庭科で作った炊き込みご飯が美味しかっただとか、そういう「私の世界の日常」を語るのだった。
今思えば、我慢強くひたむきにその時代を駆け抜けた祖母に対しての、私なりの報酬のようなものだったかもしれない。
私が毎日楽しそうに過ごすことで、祖母には「良い時代になった」と感じて欲しかったし、「頑張ってきてよかった」と彼女自身をねぎらって欲しかった。
そして「今日も平和だねえ」と美味しそうにご飯を食べる祖母の顔を見るだけで、私はホッとして幸せな気持ちになるのだった。
その時代のひと
祖母が東京大空襲に遭ったのは彼女が16のころだ。命からがら生き延びはしたものの、学校の先生になるという夢を彼女は追うどころではなくなった。
20歳になってようやく就職できたと思った矢先、GHQの指令により公職追放を受けることになる。
その後、転職先で営業実績を上げていく傍らで、必死に労働の自由と平和を訴え続けていた。
お金にだらしのない旦那の借金を抱えながら、5人の子供を女手一つで育て上げもしたし、40代で不動産会社を興し、地域のため子供たちのために必死に働いたりもした。
15人の孫たちが学ぶ機会を漏れなく得られるよう、全員分の学資保険を用意してくれたのも彼女だ。
70歳で農業大学に入学して、その小さい体で耕耘機を運転するほど、いくつになっても好奇心旺盛で前向きで芯の強い、そんな女性だった。
彼女は決して自分の実績について慢心するようなことはなかったし、自分が受けてきた理不尽も悔しさも、私たち孫に押し付けることはなかった。
ただそこにあった事実としての戦争の悲惨さや平和の尊さを、そして時には起業したてのころの珍事件や自分の実体験を、おもしろおかしく聞かせてくれる。いつも優しく孫たちを見守る、「みんなが大好きなおばあちゃん」だ。
祖母の話を聞けば、自分の目の前のできごとに関して「こんなの自分次第でどうにでもなる」と思えたし、「よし、頑張ろう」と前向きな気持ちになれたのだった。
だから、たとえ私が小学生のときに近所の友達から傷付く言葉を投げかけられても、中学の部活メンバーからハブられたことがあっても、高校のときに勉強と部活とアルバイトの両立で毎日ゲロ吐きそうになって逃げ出したかったときも、私は祖母には弱音を一切吐かなかったし、吐ける訳がないと思っていた。
願わくば生き生きとした私の日常から、「さすが私の孫だね」と、心のどこかで思っていて欲しかった。
さつまいものミルク煮
「海ちゃん、『人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり』よ。」
そうやって祖母が私の目をじっと見て言ってきたのは、私が高校を卒業して実家を出てから、初めての年末だった。
特にやりたいことも見つからないまま飲食店に就職し、まるで止まると死んでしまう魚みたいに、ひたすら時間を肉体労働で溶かしていた時期だ。
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夕食の時間で、母は忙しく台所で年越し蕎麦の準備をしていた。他の兄妹達も次々と配偶者を連れて顔を出して、家の中は少しずつ騒がしくなっていた。
そんな中、近所に住む祖母も来たようで、彼女は私を見つけるなり、声をかけてきた。
「海ちゃん、久しぶりだねえ。元気なのかい?最近はどうしてるの?」
私はしわの深くなった祖母の手を見たまま言った。
「元気だよ。中々帰ってこれなくてごめんね。」
その会話をしてから、私は高校3年生あたりから、祖母とのコミニュケーションを避けるようになっていたことを思い出した。
学校もサボりがちになって、自分でも分かるくらい、自分がこれまでみたいに戦えなくなっていたからだ。
祖母を見るたびに自分が「情けなくて惨めでカッコ悪い存在」のように思えたから、夕食時に会わずに済むように、帰宅時間をずらし、顔も見ないようにしていたのだった。
その日が久しぶりの再会だというのに、自分と目も合わせず、他の家族とも会話をしようとしない私を見て、祖母は私に近寄り「ちょっと、頼まれごとしてくれるかい」と言ってきた。
「おばあちゃん、さつまいものミルク煮作ったんだけど、家に置いてきちゃったみたい。海ちゃん、おばあちゃんと一緒に行って運ぶの手伝ってくれる?」
年末に似つかわしくないその煮物は、祖母の得意料理の一つだ。昔から孫達からの評判が良くて、みんなが集まるとなると、祖母は毎回作ってきてくれていた。
冷たい風の吹く中、実家から祖母の家までの数十メートルの道を、私は無言で、祖母と一緒に歩いた。膝を悪くしたという祖母の歩くスピードは、以前と比較して格段に遅くなっていた。
「海ちゃん。」
祖母は歩きながら、ひっそりと、でもはっきりと聞こえる声で私に聞いてきた。
「今、ちゃんと楽しいかい?」
ズシン、と腹にその言葉が入ってきた瞬間、これまで我慢していたものがぶわっと、体の底から昇ってくるのがわかった。
溝落ち、喉、耳の下が熱を持って、鼻の奥がツンとしたと思った矢先にはもう、目から涙がボロボロ溢れていた。私は暗闇でも祖母にそれを隠せないほど、鼻水をすすらないといけなかった。
ごめん、おばあちゃん。今全然楽しくないんだよ。楽しめてないんだよ。嫌なことから逃げてばっかりで、逃げてることがわかるから悔しくて、自分のやりたいことも、みんなのためになるようなことも何もできてなくて、毎日毎日無駄に過ごしてる感覚なんだよ。後ろめたくておばあちゃんのこともずっと避けてたんだよ。ごめんおばあちゃん、こんな孫でごめん。そんなこと言わせてごめん。私、おばあちゃんの孫なのに。おばあちゃんのこと大好きなのに。心配かけてごめん。
口に出せない言葉が次々と、涙になって溢れ出した。頭の中の声を伝えられないのが悔しくて、また泣いた。
それでも祖母は、私の背中をポンポン、と優しく叩いてから、何も言わずそのまま一緒に歩いてくれた。
祖母の家に着くと、彼女はさつまいものミルク煮をひとかけ皿に盛って、私に出してくれた。そして私の前に座ると、私の顔を覗き込んで優しく言う。
「海ちゃん、『人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり』よ。
周りから何を言われようと、どう思われようと、お構い無しでいいの。自分が納得いってないのであれば変えればいいし、逃げたいと思うときは、戦わずに思いっきり逃げていいの。」
ああ、祖母はこういう顔をする人だった。
その目の奥に芯の強さや私の知らない世界を湛えながらも、私をまっすぐ優しく見る人だった。
以前の私は、この目に何を言っても、言い訳になってしまうと考えていたのではあるまいか。
「自分の声に耳をすませる時間も必要。海ちゃんが、どんなに小さくても大事にしたいと思うことを、ゆっくり見つけて、そっと大事にすればいいんだよ。」
それに、と祖母は続ける。
「どんなに出来が良くったって悪くったって、海ちゃんが毎日楽しいと思えて、平和だなあと感じることができるのであれば、おばあちゃんはそれで良いんだからさ。
それでも海ちゃんを困らせる奴が出てきたら、おばあちゃん、とっ捕まえて怒ってやるから。」
拳を握って、冗談っぽく「コラッ」というポーズをしながら、祖母は笑って私を見ていた。
その祖母の言葉を聞いてから、まるで憑き物が落ちたみたいに、ストン、と私は肩の荷が降りるのを感じた。
私は、一体何と戦ってたんだろう。
また色んな感情や考えが脳みその中をぐるぐるとし始めたけど、やっぱり、すぐに口に出すことはできなかった。
理不尽も我慢も、私の遥か何十倍も強いられた人が、こんなに豊かになった時代の孫のために、優しく心の向き合い方を教えてくれる。
「…ありがとう、おばあちゃん。ごめん。ありがとう。」
ミルク煮の味なんてわからないほど鼻水をすすりながら、祖母を勝手に「そっち側の人」と線を引いていた自分を恥じた、19の冬のできごとである。
粛々と、日々粛々と
それから6年後。祖母は、86歳で亡くなった。
葬式の前日、叔母と2人で祖母の家の台所を整理していると、叔母がおもむろにその言葉を口に出した。
「人見るもよし、人見ざるもよし、我は咲くなり。誰の言葉だっけ、ほら。」
「誰って?」
叔母はシンクに寄りかかって煙草に火を付け、それを咥えながらスマホで検索し始めた。
「ああ、そうだ思い出した、武者小路実篤だね。」
検索結果を見ながら、スッキリしたように叔母は言う。
「え、あの言葉、おばあちゃんのオリジナルかと思ってた。短歌とか好きだったし。」
「確かに言ってそうだけどね。私、これ結構気に入ってるよ。」
「……私も。」
ふー、と叔母は換気扇に向かって白い煙を吐いた。
「強い人だったよねえ。この言葉通り、鉄の意思というか。誰に何言われても人の意見なんて聞きゃしないから、よく私とも衝突してたわ。」
実の娘と孫では少し、持つ印象も変わるらしかった。
「人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり」
私には頑固さの微塵も感じない、まるで祖母そのもののような「ただ、そこにある」という感じがするこの言葉が、私はたまらなく愛おしくて好きだと思った。
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生きていく中で、周りの目が気になったり、誰かが自分に心ない声をかけることがある。
自分が「我慢してる」と思わないこと自体が、知らずのうちに自分を苦しめていることもある。
でもそんなときは、祖母が私にそうしてくれたように、ゆっくりと自分と目線を合わせて、私が大事にしたいと思うことと、そしてそのために私がやるべきことを、粛々と、静かに実行していきたいと思う。
誰かが見ていようと、見てなかろうと関係ない。私は私の花を、大事に咲かせるだけなのだ。
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