見出し画像

どこにでもいる人間の半生17

私の、性別や年齢などで一括りに見られるのが堪え難いと言う性質には、そこに至る経緯があるのだと思う。

例えば、私が小学校3年生か、4年生の頃だろうか。

母が友人らとお酒を飲みながら言っていた言葉にとても傷ついたのを覚えている。

まだ子どもよ、生理がはじまったら女だわ

あぁ、私は母の子ではなくなるのか。
私は生理と言うものが来ると、途端に違うものとして見られるのか。

私は子どもであったが、人と認識されていないような気持ちにもなった。

例えば、私が前の旦那と最後にヨリが戻りそうになった時だろうか。

女のお前が事務なんかで稼いだところでたかが知れている

あぁ、私はどんなに前を向いて努力したところで、所詮はそう見られるのか。
同じ額面でも女と言うだけでそんな言葉をかけられるのか。

例えば、実の父と再会した際に前の旦那に対して、

ネイルもしてないような女によく勃つなぁ

あぁ、私はすでにこの人の子ではないが、やはり女と言うのは色目で見られてしまうのか。

例えば、養父はよく言った。

まだ子どもだからわからんのや、生意気だ、お前の血は汚い

あぁ、誰もかれも、私を一人の人としては見てくれないのだろうか。

例えば、10代の頃に友人は言った。

あなたがあんな格好なら友達ではないなぁ。

あぁ、見てくれで選ばれるのか。

例えば、小学生の頃、同級生が言った。

あなたは呼び捨てでわたしの事を呼んだらダメよ

例えば、中学生の頃、私が垢抜けた事で、陰湿な陰口を叩いていた同級生の態度がコロっと変わった。

私は書ききれない数々のこう言った言動に幻滅し、更に自分が風俗で色を売って働いた事に、もっと言えば私が好意を抱く相手が男性であると言う事にも矛盾を覚えた。

確かに、TPOや最低限のマナー、清潔感などでその人となりを判断すると言うのは理解できるし、私も子どもを持つ身としては、人を判断する基準として念頭に置く部分があるという事は否定しない。

けれど、男だから、女だから、子どもだから、大人だから、ああだから、こうだからの差別の壁にたくさん当たって来た私には、特段男には負けたくないし、子どもにだって1人の人間として耳を傾け声を聞く。

太っていようが、痩せていようがいいじゃないか。

高学歴でも、低学歴でもいいじゃないか。

服のセンスがなかろうが、派手な身なりをしていようがいいじゃないか。

歳が下でも、上でもいいじゃないか。

自分と相性さえ合えば、人を人として見れる人なのであれば、その他はフラットでいいじゃないか。

けれど、それでも今尚、私を苦しめる。
それがトラウマであり、コンプレックスと言うものなのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?