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【休職日記】ホメオスタシスさん

二日連続で風呂に入れた。

これは由々しき事態だ。会社に通う必要がなくなって初めてのことだった。過眠気味なのは相変わらずだが、11頃に目覚めてぐずぐずして、しばらくしたら自然とバスタオルと下着を探し出して、ユニットバスに向かっていた。二日連続で髪を洗うと、まず抜ける髪の量が違う。手櫛で梳かしても猫の毛玉のように丸めなくてもいい。へばり付いた泥のような垢だって然程ない。恐ろしいことだ。一体自分に何が起こったのかと、なくなりかけのシャンプーのノズルをしゃこしゃこ押しながら考えていた。

シャワーを浴びた後、わたしはなんと洗濯をした。恐らく一週間以上溜め込んでいたが、ほぼ毎日同じ服を着て家にいたので問題なかったのだ。そして部屋に落ちているゴミを拾い集め、ゴミ袋を捨てに行った。これも二週間以上できていなかったことだ。わたしはそれをほぼ無意識のまま行っていた。やるぞ! と自分を鼓舞することもないままに行っていた。そして自然と外に出て、パン屋さんへと足が向かっていた。自分でも驚いた。一体わたしはどうしちゃったんだろうか。わたしの中で、何が起こっているんだろうか。

お医者さんの言葉を思い出す。「エネルギーが溜まったら、自然とできるようになるから。」そのエネルギーが溜まってきているということだろうか。わたしは自然になってきているんだろうか。

いや、そもそも自然ってなんだよ。

わたしは元から、家から出なければ風呂に入る必要などないと思っている派だ。恐らく衛生観念がひとよりも低い。そもそも、毎日風呂に入るのなんて日本人くらいだとよく言うじゃないか。日本で毎日風呂に入れないとなると不自然かもしれないが、海外に行けば自然だ。むしろ毎日風呂に入るなんて言ったものなら、潔癖症や神経症を疑われてカウンセリングに相談しに行くのかもしれない。(海外の衛生観念について詳しくないので、妄想だけれど。)

わたしにとっての「自然」は、出かける前日か当日の朝にシャワーを浴びることである。毎日体を清める必要性をあまり感じない。外に出る上で、他者に不快感を与えないための最低限のマナーとして、シャワーを浴びている。それがわたしにとっての自然で、ふつう。だと思っている。

では、なぜわたしは今日自然にシャワーを浴びていたのか。出かける予定もないのに、何故。

***

ホメオスタシス。

という言葉を知ったのは、生物の教科書だったか。なんだか人名みたいで可愛くて、妙に印象に残っている。恒常性。生物において、その内部環境を一定の状態に保ちつづけようとする傾向のことである。ウィキペディア引用。ホメオスタシスさんに従って、わたしはシャワーを浴びなければならない、と思ったのだろうか。わたしの周りをどうにかしてやろうと働いてやったんだろうか。頭が、意識上の衛生観念が、その必要性を感じていなくても。無意識の従うままに、シャワーを浴びていたんだろうか。逆に今までシャワーを浴びられなかったのは、無意識のホメオスタシスさんが死んでしまっていたからなのだろうか。わたしの理性はホメオスタシスさんの死から逃避するために、前述のような御託を考えていたのだろうか。

衛生観念が低いのは恐らく事実だ。低いし、何よりわたしは怠惰だ。怠惰だから、自分のせいで、こういうゴチャゴチャのゴミ屋敷生活を長年続けているんだと思っていた。怠惰になろうと思えばどこまでもできると思っていた。外に出なくていいのなら、どこまでも風呂に入らないままでいられると思っていた。わたしは怠惰で、そのツケを自分で払っているだけなんだと。

だけどもしかして、わたしの中のホメオスタシスさんがこれまで眠っていただけだとしたら。
その死と見間違えるほど深い眠りの原因が、お医者さんの言うエネルギー不足、つまり疲労なんだとしたら。
わたしは一体これから、何者になるんだろう。

***

時折、ラッセル『幸福論』を読んでいる。一章ずつだし、前回どこを読んでいたかを忘れるので、進みはとても遅いけれど。今日読んだのは、「疲れ」の章だった。

ラッセル曰く、疲労とは、大部分が心配のことだそうだ。この心配というのは精神的な訓練をすることでコントロールできるものだが、たいていの人はその能力に欠けている。心配ごとに対して何も打つ手がないときでも、あれこれ考えることを止めることができないのだ。それは建設的な考え事ではなく、半狂乱になってしまっているだけである。その半狂乱の心配が疲労となり、不幸の原因になる。そしてその解決策として、以下のように提示する。

賢い人が心配ごとについて考えるのは、考えることが何かの役に立つ場合に限られる。それ以外のときは、ほかのことを考えるか、それとも、夜分であれば全然何事も考えない。(中略)しかし、普通の日の普通の悩みごとならば、その始末をつけなければならないときは別として、締め出すことはまったく可能である。きちんとした精神を養うことで、どれほど幸福と効率がいやますかは、驚くほどである。きちんとした精神は、ある事柄を四六時中、不十分に考えるのではなくて、考えるべきときに十分に考えるのである。(ラッセル『幸福論』訳・安藤貞雄 岩波文庫)

確かにわたしは朝、何も心配をしていなかった。いつも通り体はだるいし、とにかく眠かったけれど、会社だの夢だの好きな人だのが頭の中に浮かんで離れない、みたいなことはなかった。考えるより先に体が動いて、体を清めて、洗濯をして部屋を片付け、家を出てパン屋さんの一角でこの文章を書いている。考えるべきときに、滅茶苦茶考えて、これを書いている。これが本来の、心配と疲労のないわたしなんだろうか。そうだとしたらわたしはこれまでどれほど疲れていたんだろう。下手をすれば、生まれたときからずっと疲れていたのではないか。疲れた体に鞭打って、24年間生きてきたんだろうか。ホメオスタシスさんをずっと殺したまま。

わからない。わたしのホメオスタシスさんがどんなものなのか。ホメオスタシスさんが何を以て、わたしの「自然」だと言うのか。だって今日初めて出会ったばかりなのだから。

でも幸い今、わたしはわたしを作り直している真っ最中だ。新しいわたしは、できるだけ疲れていないわたしにしてあげたいと思っている。だからこれからよろしく、たまに顔出してくれると助かります、ホメオスタシスさん。


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