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本物の美はいずこ? ~ 映画「ベニスに死す」とマーラーのアダージェット

お宝鑑定でわかった「本物」

たまたま見ていた「お宝鑑定」番組。地方にはよくありそうな古いお屋敷の居間で、家族全員が見守る中、お父さんが期待と不安の表情で、先代から受け継いで大事にしてきた壷や器やらを鑑定士に渡す、・・・
ところが、それらは精巧に作られた「偽物」で数千円の価値しかないことが判明。がっかりする家族、・・・ところが鑑定士、ふと、日常使用の棚にある品物に注目、・・・どう見ても安物にしか見えない茶筒や小物入れが、有名作家の「本物」であることが判明
たちまち何十万円もの高額の査定額がはじき出され、家族みんな喜びと驚きで大騒ぎ・・・お父さんがそこで一言、
「へぇー、普段使っていたこんな物がね・・・。さっきの偽物、色艶もきれいで気に入っていたけどね~。」

それを聞いた鑑定士がこう答える、・・・
でも、有名な作家の本物ではないですからね。


本物の美を求めて

このエピソードで思ったのは、やはり、「有名であること」は商品に価値を付ける必要条件である、ということです。伝統工芸の世界では、弟子と師匠の作品では商品として別格扱いであるように、まして偽物と本物では、素人の目にはどちらも美しく見えても、偽物に商品価値は無いわけです。

工芸であれ、芸術であれ、「美」への飽くなき追求が作家と鑑賞者の相互で行われる中、「本物の美」に「偽物の美」がきわどく紛れ込んでは「美の攪乱」を起こしているようです。

どうやら「本物の美」というものは、人間には抗し難い魔力のように作用するようで、以下に述べますことも、まさに美を求め、美に執りつかれた人間の物語です・・・

美少年タッジオと芸術家アッシェンバッハ

映画「ベニスに死す」は、イタリアの巨匠ヴィスコンティ監督の1971年作品です。世代を超えていまだに語り継がれている映画史上の傑作ですが、よく話題にされるのは、登場する「美少年」と、劇中に流れるマーラーの音楽、交響曲第5番第4章アダージェットでしょう。

映画の大筋:
創作の行き詰まりを抱えた初老の著名作曲家アッシェンバッハは、訪れた避暑地ベニスでポーランド貴族の美少年タッジオと出会い、その「美」に憧れ、愛し、翻弄され、流行病に侵されて死んでゆく・・

それだけの話なのです、しかし、冒頭の海の遠景から、ゆっくりと岸へ近づく船、そして主人公の微妙でどこか屈折した表情( ダーク・ボガードの適役!)を流麗なカメラが捉え続ける中、波の流れにゆったりと寄り添うように、マーラーの有名なアダージェットが奏でられます。この世の音と思えぬ彼岸的な美しさに陶酔しながらもどこか不協和音も聞こえる旋律に、「安らかな死」へと誘われていくかのようです。

タッジオはまだ十代前半であろう典型的な西欧人体型で金髪の美少年。ですが、恋焦がれるあまり、髪を黒く染めて肌化粧もして、まるでストーカーのようにつきまとう作曲家アッシェンバッハの存在に気づくと、わざと弄ぶような目つきと態度をして彼を翻弄させます。

ストーカーのようにつきまとう
髪を黒く染めて肌化粧
わざと弄ぶような目つきと態度

やがてアッシェンバッハは流行り病に侵され、段々と化粧が崩れ、無残な老醜をさらけ出すようになり、ついに「死」」を迎えます。

ベニスを舞台に当時のヨーロッパ貴族社会の華美で退廃的な雰囲気をヴィスコンティ監督(彼自身が貴族の血筋)は周到かつ精緻な演出で描いて見せます。とりわけ、美少年タッジオを捉えるカメラワークは尋常でない熱い視線と化してます。一方で、初老のアッシェンバッハの滑稽かつ無惨な死をリアリズムに徹して描いています。

演出する監督と出演者たち


同性愛か、芸術か、あるいはもっと別の象徴?

さて、この映画が議論される際に最も多い論点は、ヴィスコンティ監督は「ホモセクシュアルな愛」あるいは「理想の美への憧憬」のいずれを描いたのか、ということでしょう。
私の考えは、両方を重ねて描いている、と思います。

まず、「ホモセクシュアルな愛」を描いていると思うのは、ヴィスコンティ自身がバイセクシュアルを公言していたこと、映画の雰囲気からもそう感じられるからです。
次に「理想の美への憧憬」という点においては、美少年タッジオは理想の美の象徴である、と捉えるならば十分に可能な解釈となります。さらには、
ギリシャ神話におけるアンドロギュヌス、つまり、両性具有の概念も当てはまるような気がします。

以上のような2つの視点は、映画のラストシーンをどう感じるかにもつながります;

砂浜で、タッジオと友人が戯れており、友人がタッジオを力で組み伏せてしまう。砂で汚れたタッジオは機嫌を損ねて、独り波打ち際に歩いて行く。

病で死に瀕した状態のアッシェンバッハは椅子にもたれたままじっとタッジオを見つめる。

タッジオは、すくっと姿勢を正すと、波に反射する光の氾濫の中、アッシェンバッハのほうへ振り向くと、おもむろに片腕を高々と上げて空の遥か彼方をさし示す・・・カメラはその姿を遠景でじっと捉える。

片腕を高々と上げて空の遥か彼方をさし示す

アッシェンバッハは最後の力をふりしぼってタッジオのほうへ手を差し伸べようとする。タッジオは水平線の彼方に遠ざかって行く。

最後の力で手を差し伸べる

永遠の美の化身」を見たかのような表情のアッシェンバッハはその場で息を引き取る・・・・マーラーのアダージェットが押し寄せるさざ波のように哀悼と陶酔の美しい旋律を奏で続ける・・・ 

別の天空の基準に属する「美」

私としては、このラスト・シーンにおける、タッジオが空の彼方をさし示す、その神々しい姿に、「人間の憧れる美」というものが、少年の姿を借りてこの世に降臨し、絶対的な美の勝利宣言を行った、と感じ取りました。いや、そのようにしか感じ取れませんでした。
少年愛やらホモセクシュアルやらの、この世の既成概念など越えた、別の天空の基準に属するであろう「美」が、否定しがたい圧倒的な存在としてこの世に顕現した、その象徴的なシーンだった、と私は思いました。

最後に

このように、ひとつの芸術作品を巡って多様な解釈や賛否両論が生じるのは、逆にその作品の抗し難い魅力が時代を超えて強烈に放たれているからだと思います。
そしてそのことはまさに、映画「ベニスに死す」が「本物の美」であることの証明なのだと、私は確信しています。