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言葉を知ると失う感受性もあるのでは?とか。

芸術作品に触れた時の圧倒感ってどう表現したら共有できるんだろうね。

造詣が深くないから、語れることがないというのはそうなんだけど。

いくら知識を付けたとしても、とーーーーーっても難しい。と思う。

そして、知識があると、理屈で先に考えてしまう気がして、何かを体験する際、私はあんまり事前に調査をしないで挑むことが多い。

触れた後で、理解を深めるために解説を読むことはあるけど、感動するために知識を入れることはしない。

ただ、そのせいで、趣味の美術展示巡りも、見にいった絵が素晴らしいほどに、良かった!!て感想しか出てこなくて、時々(いやいつも)情けなくなる。

そんな話を家族と話していると、言葉をもっと入れなさい。読書しなさい。と至極真っ当な指摘を受けてしまった。

うーん。

確かに、読書をして、文章を沢山入れた後の頭の中って、思考が文章的になっていることが良くある。

文章的?笑

私は頭の中がどちらかというと映像・画像的な人間なので、考えるとき、言葉は最後に出てくる。

それが、文章を読むと、自分の感じていることが言葉としてスラスラと出てくる感覚が、読んでいない時よりもある。確かに。

だから読書は大切だと思うし、自分の考えや想いを独自の表現としてアウトプットするときに、語彙を沢山持っていることってとっても大事だ。

なんだけども。

反面で、私は言葉を知ることが怖いとも思っている。

怖いというか、勿体無い?感覚というのかな。

言葉は何かを伝えるための媒体だ。研ぎ澄まされるほどに解像度が増し、ときに現実よりも事実を鮮やかに映し出す。

だけど。

ほんっっとーーーに、当たり前だが、体験そのものではない。

何言ってんだこいつ、と思った方、いや私もそう思います。

それを共有できないから文字で共有するのがコミュニケーションだろ!というのは、はい、そうなんです。

でもね。

何かの体験を人に伝えるために、言葉を入れるとね。

言葉が増えれば増えるほど、体験が先に言葉を通して自分に入ってくる感覚がついてしまうような気がするんです。

自分の体験をアウトプットするために言葉を使うはずが、その手前、インプットの時点で言葉が使われてしまう感覚というのかな。

言葉を知れば知るほど、事実を繊細に描くことができるようになる一方で、
対象を対象のまま捉える感覚がなくなっていく。と私は感じている。

感受性が言葉を通して自動的に単純化・整理されてしまう。

輪郭がはっきりしてしまう。

曖昧で混沌とした複雑な何かが、言葉で捉えられるものにプリントされていく。そのプリントを体験として受け取っていく。

そんな感覚である。

言葉を通して、誰かに何かを伝えたい気持ちはある一方で、

カオスをカオスとして受け入れるからこそ感じられる圧倒的・根源的な感動への感受性を、自分の中にとっておきたい。

言葉が頭の中にないからこそ、言葉に変換されないままで、感じ取れる何かを大切にしたい。


ということで。芸術作品と触れて何も頭の中に言葉が浮かばないときは、
情けないと思うのではなく、
そのときに感じられている感覚の方が、作者の表現したかった何かに近づけているのだ、とポジティブに捉えることにしよう。


なんて。


読書量の少なさに対してそれらしい反論を考えてみたので、そのまま家族に伝えてみたら、
それでもコピーライター?と言われてしまった。
はい。そうです。ここまで全て言い訳です。
素直に本読みます。









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