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中村彝研究ノート

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中村彝研究を手短かに紹介します。従来における自他の研究および各種資料の追加・訂正などもあります。彝研究のための新たな視点を探っています。引用に当たってはコメント欄から事前にご連絡… もっと読む
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中村彝とルノワールの女性裸体画「泉」をめぐる誤解と混乱

中村彝とルノワールの女性裸体画「泉」をめぐる誤解と混乱

 2003年に茨城県近代美術館で開催された『中村彝の全貌』という展覧会図録の「年譜」にこんな記述がある。

 「大正9年8月19日、(中村彝は)今村繁三邸においてルノワールの『泉』『庭園(風景)』を見て、深い感銘を受け、画室に帰ってから記憶により模写する。」

 そして、ほかの美術館の解説などでも、このような記述が繰り返されていることがある。

 しかし、私は既に『研究紀要』(第4号、茨城県近代美

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中村彝が読んだドストエフスキー『虐げられし人々』の一場面 

中村彝が読んだドストエフスキー『虐げられし人々』の一場面 

 この稿は、「中村彝と中原悌二郎の読書メモ」の(2)として書いている。前回は悌二郎とトルストイのある断章と、悌二郎が言及したドストエフスキーの「空想的にまで進んだ写実主義」に触れた。
 今回は、彝がその書簡で述べているドストエフスキーの『虐げられし人々』について書いてみよう。
 彝のこの本への言及は、彼の手紙の中に出てくる。すなわち大正5年1月31日、ほぼ同年齢の彝の支援者であり、芸術愛好家でもあ

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中村彝と中原悌二郎の読書メモ(1)

中村彝と中原悌二郎の読書メモ(1)

 中村彝の親友・中原悌二郎は、大正3年の春、突如喀血に倒れ、故郷の北海道・旭川に帰った。匠秀夫氏によると、この静養中、彼は旭川第7師団でロシア語教官をしていた米川正夫を知り、ドストエフスキーの小説を耽読したという。旭川では米川を中心にした文学青年の間でガリ版刷りの文芸同人誌『呼吸』が発刊されていたらしい。
 しかし、悌二郎の文学好きはその時に始まったわけではなく、明治40年の彼の日記にも見られるよ

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中村彝と『ルカ福音書』のザカリア

中村彝と『ルカ福音書』のザカリア

中村彝の未刊行の葉書(多湖宛、大正10年8月2日着)に『ルカ福音書』の一節に関連した箇所があることが分かった。
もともと聖書の一節に関連した言葉かと察せられたが、はっきりとは分からなかった。それは彼の葉書のこんな文脈の中に書かれていた。

「僕ハ大によくない。去年の暮から臥たきりだ。…それでもどうにか生きてだけハ居る。たゞ生きてるといふだけだ。昔日の元気ハ全くない。毎日眠いばかりで睡(ネム)ってば

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中村彝の肖像画論

中村彝の肖像画論

 中村彝は、「エロシェンコ氏の肖像」や「田中館博士の肖像」、さらに彼が愛した新宿・中村屋の娘、相馬俊子をモデルにして幾つか描いた作品(この場合、肖像画と狭く限定するよりも広く人物画と呼んだ方がよい作品もある)などがあり、近代日本洋画史の中で最も優れた肖像画を残した画家の一人と言えるだろう。
 だが、その中村彝の肖像画の中には、生きたモデルを前にして描いた作品と、あまり本意ではなかったが、写真を基に

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中村彝の野田半三宛の絵葉書(明治40年8月26日)

中村彝の野田半三宛の絵葉書(明治40年8月26日)

日立の川尻から出したこの絵葉書は、ある種のユーモアを交えた男女の盆踊りに始まる。
一見、他愛もない盆踊りの男女3人を描いた絵葉書に見えるが、本文を読んでみると、賑やかな盆踊りに対比される彝の若くて繊細な、そして寂しい内面も強く感じさせる内容となっているのが分かる。
   ***
【盆踊りの絵の囲み内にある文字部分】

「盆踊り」

「石の地蔵様頭が円い 烏とまればなげ島田」

※石の云々は、全国に

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中村彝の野田半三宛絵葉書(明治40年7月30日)

中村彝の野田半三宛絵葉書(明治40年7月30日)

2003年茨城県近代美術館と愛知県美術館で開催された「中村彝の全貌」展に出品された彝の絵葉書を読んでみよう。
図録番号1と2にカラーで、文字もはっきり見えるように掲載されているが、彝の文字はやや癖があって、やや読み取りにくいが、読んでみよう。
なお、カタカナ表記や旧漢字は、読みやすいようにひらがな表記に改めた。
まず、明治40年7月20日の絵葉書から。

なお、葉書宛名面は以下のとおり。

東京牛

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中村彝と白河の伊藤隆三郎(抱月庵)

中村彝と白河の伊藤隆三郎(抱月庵)

 白河の伊藤隆三郎は、中村彝より2歳若いが、その生没年は、意外に知られていないようだ。ネットを検索しても、生没年までは辿り着けなかった。
 一方、伊藤抱月庵は、実は隆三郎と同一人物なのだが、そのことも、2023年10月現在、まだネット上では、確認できないだろう。
 さらに厄介なことに、伊藤抱月庵を幾つかの大きな茶道辞典などで検索してみると、生没年の生年が大きく誤っており、白河の伊藤隆三郎と抱月庵と

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中村彝『藝術の無限感』初版で確認してみると

中村彝『藝術の無限感』初版で確認してみると

 中村彝の『藝術の無限感』を初版(大正15年、岩波書店)で確認してみると、今、多くの人が読んでいるであろう「新装普及版」では、どうもおかしいなとか、疑問に思っているところが解決される場合がある。
 例えば、かなり重要な彝の画室を撮影した写真「画室に於ける制作」は、後者では「大正6年」とされているが、初版では「大正8年冩」とされている。さて、どちらが正しいか。
 僅か2年の違いであるが、この写真には

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中村彝と相馬俊子の最後の会見―「黄金なす緑色の生活」とは

中村彝と相馬俊子の最後の会見―「黄金なす緑色の生活」とは

 彝と俊子との最後の会見の様子を伝える大正5年1月31日の伊藤隆三郎宛の彼の書簡に以下のような一節がある。

 ゲーテの『ファウスト』からの引用を以て彝は俊子の母・相馬黒光を「メフィスト」に喩えているのは明らかだ。が、一読して引用されている「黄金なす緑色の生活」の意味が直ちに理解されるだろうか。私は戸惑った覚えがあるので、改めて書いておこう。
 
 その前に断っておくが、先の引用部分は『藝術の無限

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発見が待たれる中村彝の消えた手紙

発見が待たれる中村彝の消えた手紙

 鈴木良三著『中村彝の周辺』(1977)ではなく、茨城県近代美術館発行の『中村彝とその周辺』(1999)に同館が所蔵する彝の書簡リストが載っている。
 しかし、このリストはいくつか訂正すべき点がある。なかでも重要なのは、このリストに入っている大正5年8月8日伊藤隆三郎(当時の白河町中町在住)宛の書簡についてである。これは、実は同館には無いので、特に注意しなければならない。
 この手紙は、封筒のみが

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中村彝の多湖実輝宛葉書三通

中村彝の多湖実輝宛葉書三通

「久しブリで御手紙ニ接してなつかしい気がした。余り便りがないから悪(わ)るいんではないかと実ハ内々心配していたのだ。僕ハ大によくない。去年の暮から臥たきりだ。木村博(*)に一度駄目をおされたがそれでもどうにか生きてだけハ居る。たゞ生きてるといふだけだ。昔日の元気ハ全くない。毎日眠いばかりで睡(ネム)ってばかり居る。時々喀血もする。この喀血もこの頃ハ平気なもんだ。熱も出る。熱も慣れっこになったせいか

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中村彝の手紙(断簡)小考(2)

中村彝の手紙(断簡)小考(2)

 広瀬君や中原君
 はどうして居るかしら
 どうか消息を知らせ
         下さい
        サヨナラ 
          彝 
 隆三郎様

 茨城県近代美術館に、このように読める中村彝の手紙の小さな断簡がある。伊藤隆三郎宛の手紙の末尾の部分で毛筆で書かれている。

 なぜ、このような断簡が公立美術館に残っているのだろう。
 こんな疑問が今頃になって自分の頭にわいてきた。

 私が

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中村彝の手紙(断簡)小考(1)

中村彝の手紙(断簡)小考(1)

 茨城県近代美術館に中村彝の手紙の小さな断簡がある。伊藤隆三郎宛の手紙の最後の部分だ。毛筆で書かれている。
 「広瀬君や中原君 はどうして居るかしら どうか消息を知らせ下さい サヨナラ 彝 隆三郎様」
 たったこれだけである。が、彝の手書き文字や言葉遣いに慣れていないと、読み取りに時間がかかるかもしれない。さて、首尾よく読み取れたとして、ここから何が言えるだろうか。
 例えば、この断簡の年代は、な

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