焼き栗とポートワイン | 旅エッセイ
まずい。
このまま来なかったらどうしよう。
秋も深まった11月のある日。
ユーラシア大陸の西の端、大西洋に面したポルトガルの古都ポルトのとあるアパートの前で、私は呆然と立ち尽くしていた。
観光地から離れたこの海辺の田舎町で、私は完全に異質な存在だった。
通りかかる地元の人々は皆、大きなバックパックを背負ったアジア人を、 怪訝 な顔でちらちらと見ている。
流行りの民泊サイトで予約したこのアパートに辿り着いたのは、午後1時より少し前だった。
オーナーのジョアオから、部屋の鍵を受け取るのは1時の予定だ。
しかし、1時を過ぎ、2時になってもジョアオはやって来ない。
ん?アパートの場所が間違っている?
いや、何度も住所と地図を確認した。間違いない。
まずい。
このまま、ジョアオが来なかったらどうしよう…。
誰かに助けてもらおうにもポルトガル語は話せないし、英語だってこんな片田舎では通じそうにない。何か手を打たねば。
しかし、私は今晩の宿の不安以上に、今現在の空腹に耐えかねていた。
朝、リスボンからポルトに向かう電車の中でサンドイッチを食べて以来、何も口にしていなかったのだ。
腹が減っては戦はできぬ、だ。
私は辺りを見回し、近所の小さなカフェに行ってみることにした。
カフェのウィンドウから中を覗くと、平日の中途半端な時間のせいか、近所の人と思われる年配の男性2、3人しかいなかった。
皆、新聞や雑誌を片手にエスプレッソを飲んでいて、いかにもヨーロッパの昼下がりといった様子だ。
私は、勇気を出して扉を開けた。皆が一斉に顔を上げて私を見る。
緊張して固くなった私に、すぐにお店の人が「ハロー」と話しかけてきた。英語だ!
顔を見ると、その店員さんはアルバイトらしき青年で、映画俳優のような彫りの深い美青年だった。
私はホッとした気持ちで、改めて店を見渡してみる。
カウンターの向こう側では、この店のオーナーと思われるおじいちゃんが何か作っていた。
席に着くと、先程の美青年がメニューを持ってきて、「今日のランチはこれとこれ」と説明してくれた。
私は、メニューの一番上の、リゾットのようなものを注文した。
しばらくすると、まるで機内食のようなプラスチックの赤いトレーの上の白い器に、あふれそうなくらい波々と盛られた、キドニービーンズ(赤いんげん豆)と細長いお米のリゾットが現れた。
量は多いのだが、見た目は極めて質素だった。
なんだか物足りない気もするが、こちらの空腹も限界に達している。
食べられればこの際、何でもいいや!
早速、ぱくりと一口食べてみた。
「お、おいしいっ!」
思わず声が出てしまった。
何の食材の効果かは分からないけれど、見た目に反して、とても複雑な味がする。調味料の味ではない、食材から滲み出る滋味深い味。
かなりの量があったと思うのだが、私はあっという間にたいらげてしまった。
すると、よほど私がおいしそうな顔をして食べていたのか、カウンターの向こうにいた(たぶん)オーナーのおじいちゃんが、ポルトガル語で何やら話しかけてきた。
「気に入ったかい?」と聞かれた気がしたので、「イエース!デリシャス!」と答える。
おじいちゃんはニコニコ顔になった。
すると、エスプレッソを飲んでいたお客さんたちも、私を見てニコニコした。
しばらくして、美青年が食べ終わった器を片付けると、今度は何やら無造作に新聞紙で包まれたものを持って来た。
「はい、これはサービス」
そう言って、私の前にその新聞紙の包みを置く。
包みの中を見てみると、中にはたくさんの焼き栗が入っていた。
「わ!栗!いいの?!」
そう言えばこの人、私が食べている間は暇だったのか、店の外のワゴンで何かしていたのだが、そうか、栗を焼いていたのだ。
私は栗をひとつ取り、焼けて弾けたときの裂け目から皮を剥いて、パクリと口に放り込んだ。
「ん!おいしい!」
またも声が出てしまう。
初めて食べたポルトガルの焼き栗は、とても野性的な味がした。
甘すぎないので何個でも食べられる。
すると、今度はカウンターのおじいちゃんが、右手にお酒のボトル、左手に小さな、高さが10センチくらいのワイングラスのようなものを持ってやって来た。
お酒のボトルのラベルを見せながらポルトガル語で何やら言うと、テーブルの上にその小さなグラスを置き、ボトルの液体を注ぎ入れた。
それはきらきらと輝く、美しく透き通った琥珀色をしていた。
私はお酒はあまり強くないが、せっかくなので一口飲んでみる。
「わあ」
それはかなり強いお酒の味ではあったが、うっとりするような甘酸っぱい香りがして、シロップのような甘みもあった。
とてもおいしい。そして、焼き栗との相性がものすごく良い。
おじいちゃんは、私の表情を見て満足したのか、「ごゆっくり」といった感じで、またカウンターに戻っていった。
すると、例の美青年が、
「このお酒は、ポルトで作っているポートワイン。この季節、食後に焼き栗と一緒に飲むのが定番なんだ」
と教えてくれた。
そうだった!
ポルトは、かの有名なポートワイン、つまり「ポルトワイン」の産地だ。
ポートワインとは、発酵途中でブランデーを加えてアルコール度数を高めたワイン。
昔から、ポルトの街を流れるドロウ川の上流にはぶどう畑が広がっていて、そこで作られたワインはドロウ川を下ってポルトへ、そしてポルトの港からイギリスまで運ばれていたそうだ。
ポートワインはそんな長旅でもワインが劣化しないようにと考えられたのが始まりなのだとか。
そうか、私は今、ポートワイン発祥の地でポートワインを飲んでいるのだ。なんだか感慨深い。
「なんか、はるばる来て良かったなあ」
私はしみじみと思った。
リゾットや焼き栗、初めて飲んだポートワインが感動するくらいおいしかったからだけじゃない。
突然現れたアジア人のバックパッカーに、地元の人たちがとてもよくしてくれたことが何より嬉しかった。
帰り際、私はオーナーのおじいちゃんと美青年に
「オブリガーダ!(ありがとう)」
と、元気よく言って店を出た。
例のアパートの前に戻ると、今度は長身の中年男性が立っていた。
手には鍵を持っている。
間違いない。あれはジョアオだ!
かくして私は、ポルトでの初めての夜に、ふかふかのベッドを占領することができたのである。
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