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小説「まなざし」

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交通事故で聴力を失った女性、瞳美と彼女と生きることを選んだ恋人の真名人。音のない世界で、彼女のまなざしは何を語ろうとしていたのか。 普通の恋人と同じように愛し、すれ違い、味わうこ…
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2020年3月の記事一覧

まなざし(最終話) 伝えられる言葉

まなざし(最終話) 伝えられる言葉

土曜日の朝8:00、彼女が玄関から出ようとしていた。
今日はシフトで介護の仕事が入っているというので、彼女だけが仕事に行く。一ヶ月に数度、週末に仕事が入る彼女にとっては当たり前の日常だ。
「いってらっしゃい」
普段は7:30に家を出る俺の方が彼女に見送られているので、時々こうして彼女を見送れる日があることはいいことだ。
「いってきます」
いつものように手話で答えてくれる瞳美は、目元から微笑みを浮か

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まなざし(37) たった5文字

まなざし(37) たった5文字

「だ、い、じょーぶ、で、す」

誰がどう聞いても彼女の本来の声ではないと分かる声色だった。
けれど言葉を覚えたばかりの子供のようにゆっくりと放った言葉は、母の肩を震わせ、頭を上げさせるのには十分強力だった。

「瞳美ちゃん、あなた……」

言いたいことは分かった。
きっと母は「喋れるようになったのね」と続けたかったのだ。でも母さん、それは違うよ。瞳美は前から“喋れない”わけじゃない。今みたいな発声

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まなざし(36) だいじょうぶ

まなざし(36) だいじょうぶ

その週の日曜日、夜の時間に俺と瞳美は両親とのご飯に行くため、二人で電車に乗っていた。両親とは店で直接待ち合わせる予定だ。電車に乗ると言っても家からほど遠くない場所にあるご飯屋さんだったので、普段の会社での付き合いで飲みに行くようなものだった。
しかし、いつもの飲み会とは確かに違うもの。それは、俺たちの心の持ちようであることは言うまでもないだろう。

「瞳美、大丈夫か?」

電車から降りて店までの道

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まなざし(35) 迷わずに

まなざし(35) 迷わずに

看護婦さんに彼女の居場所を聞くと、俺が眠っていた病室のすぐそばにある部屋にいるらしかった。自分たちのいる病棟は軽度の患者が入院している棟であるため、瞳美も命に関わるような怪我をせずに済んだらしい。ただ、地震の衝撃で川の土手から落下した際に足首を捻挫していると聞いた。治療のため、しばらくは入院生活になるだろうとも。
しかし俺にとっては、彼女がこうして軽度の怪我で済んだというだけで十分だった。

「え

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まなざし(34) 愛情

まなざし(34) 愛情

「……と。真名人」

誰かが、俺を呼んでいる。
瞳美か……? そういえば瞳美、助かったんだっけ。きっと、助かったと信じている。

混濁する記憶の中で、重たいまぶたを上げて最初に目にしたのは、俺の顔を心配そうに覗き込む母の顔だった。

「母さん……?」

母は、目を覚ました俺を異星人でも見るかのように「まあ」と口に手を当てながらそこにいた。母の顔の背後に見える白い天井から、自分が今病院にいるのだと悟

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