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まなざし(36) だいじょうぶ

その週の日曜日、夜の時間に俺と瞳美は両親とのご飯に行くため、二人で電車に乗っていた。両親とは店で直接待ち合わせる予定だ。電車に乗ると言っても家からほど遠くない場所にあるご飯屋さんだったので、普段の会社での付き合いで飲みに行くようなものだった。
しかし、いつもの飲み会とは確かに違うもの。それは、俺たちの心の持ちようであることは言うまでもないだろう。

「瞳美、大丈夫か?」

電車から降りて店までの道をマップで調べながら歩いている最中に、彼女は大きな深呼吸を繰り返していた。あれだけ大丈夫と言ってはいたものの、やはり直前になって緊張してきたらしい。まだまだ母親に会うには不安もあるだろう。
俺が、彼女をフォローしなければ。

「そういえばさ、瞳美にプロポーズすること、中島に報告しといた」

決して今言わなければならないことじゃないのに、彼女の気を紛らわすのに適当な話をぱっと思い浮かべて出てきたのが、それだった。
本当は「報告」なんて立派なものではなく、婚約指輪を買いに行く直前に「相談」という口実で彼に瞳美と自分のことを教えたかっただけだった。

「中島くん? 懐かしいね」

少しだけ声を発しながら、手話とともに彼女はそう答えた。

「あいつさ、全然変わってなかったよ。なんかちょっとうるさいし」

電話の向こうでの動作が目に浮かぶくらいに大げさに驚いたり、興奮気味で励ましてくれたり。仕事に疲れて性格まで変わっていたらどうしようと心配もしたがその必要もなく、なんだかんだで忙しく充実した毎日を送っているようだった。

「ふふっ。中島くんらしいね」

口に手を当てて彼女は笑った。良かった、少しは緊張がほぐれたみたいだ。ネタにするだけで彼女を笑顔にしてくれる芸人・中島に心の中で手を合わせる。本日もお勤めご苦労様でした。
学生時代の中島はサボリ魔だし、チャラチャラしてる適当なやつだったけど、その馬鹿みたいな明るさに、俺も彼女もいつも救われていた。

「また皆で会おうよ」
「ああ。その時は中島の彼女も一緒にな」

あいつに彼女がいるのかどうかは不明だが、そんな日が来ればきっと楽しいだろうと思う。

懐かしい友人の話をしているうちに、目的の店が見えてきた。町家のような落ち着いた風貌の店で、外に貼り出されたメニュー表を見た感じ、敷居も高すぎない。一目で彼女が気に入りそうな店だと思った。
店の外に両親の姿は見えなかった。LINEを開くと、すでに店内にいるらしい。俺は瞳美の手を引いて「早坂です」と店員さんに伝えた。
「どうぞこちらへ」と言われるがままに店員さんのあとをついてゆき、個室に通された。座敷の個室で奥側に両親が座っていた。
瞳美が手前側の奥へ、俺は一番入り口に近い方に座ると、必然的に瞳美の正面が父さん、俺の正面が母さんという構図になった。
「よく来たな」
父さんが、まるでここが我が家とでもいうふうに言った。家からの距離で考えると両親の方が遠いはずだ。
「ああ」
親子の会話はいつも素っ気ない。地震の日は瞳美や俺の一大事ともあって、ほとんど数年ぶりぐらいに両親と真剣に会話をしたのだ。だが、それも過ぎ去ってみれば今まで通りの関係に戻る。その方が良い。俺たちにはこれくらいの方が居心地が良いのだ。

全員が揃ったところで各々飲み物を頼み、4人での食事が始まった。瞳美は前回俺の家でやったのと同じように、手話で「いただきます」をした。俺は目の前の母の表情を見ていたが、瞳美の手話を目にしても特に何も変化はなかった。
「瞳美ちゃん、今日は構わずいっぱい食べてね」
ともすればプレッシャーのように聞こえなくもない台詞だったが、「はい」と頷く瞳美を見るとこの前の一件で少しは母に慣れたのだと分かった。

俺たちはしばらくの間会話もせず出てくる料理を夢中になって食べた。何にしろ美味しい。堅苦しい感じのない懐石料理は緊張していた俺たちの胃袋を一瞬のうちに緩めてしまった。
「うめえな」
父の渾身の「うめえ」。
俺はいつか彼女がラザニアを食べた際に「美味」と言ったのを思い出した。とっさに出た言葉が、紛れもない本心のような気がして俺は嬉しかった。彼女が自分に心を開いてくれたのだと感じたから。
「瞳美ちゃん、あのね」
前菜が来て、おばんざいが来て、お造りが来て、それを綺麗に平らげたくらいのタイミングだった。母がようやく本題だというふうに口を開いたのだ。
「この間は本当に、ごめんなさい」
母が、きちんと揃えたお箸を箸置きの上に置いて、しっかりと頭を下げた。突然の謝罪に、何のこっちゃ……とまではいかないが、心算りもなしに急の出来事だったので、俺も瞳美も「えっ」と動かしていたお箸を止めた。父は変わらずに次に運ばれてきたメインのお肉を齧った。
「私は軽薄だったわ。傷つけて本当にごめんなさい」
母が何のことを誤っているのか、聞かなくてもすぐに分かった。

——瞳美ちゃんとは、大変なんじゃないの。

何度も頭の中でフラッシュバックする言葉。俺にとっても衝撃だったが、それを傍目で聞いてしまった彼女にとっては、俺の10倍ぐらいショックだっただろう。
ちらっと隣を見ると、彼女は膝の上で両手をぎゅっと握りしめていた。
瞳美には母さんの言葉は聞こえていないのに、まるで細部まで聞き取っているかのような反応だ。

しばらく頭を上げない母に、父はつんとつついて、「もう顔を上げろ」と言った。それでも母は顔を上げない。
俺は瞳美を見た。母さんを許すのは俺の役目ではなく、彼女の役目だったから。

緊張感の漂う空気の中で、瞳美がすうっと息を吸う音が全員の耳に入っただろう。

「だ、い、じょーぶ、で、す」

瞳美のぎこちない声が、全員の耳にしっかりと届いた。

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