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小説「まなざし」

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交通事故で聴力を失った女性、瞳美と彼女と生きることを選んだ恋人の真名人。音のない世界で、彼女のまなざしは何を語ろうとしていたのか。 普通の恋人と同じように愛し、すれ違い、味わうこ…
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2020年1月の記事一覧

まなざし(30) 暗闇の端と端

まなざし(30) 暗闇の端と端

彼のお父さんとお母さんと、その後も他愛のない話をした。
真名人くんは小さい頃、ドジで近所の川に落っこちたことがあること。
小学校の運動会のかけっこで、一番でテープを切る寸前に転んで二位になってしまったこと。
その時、子供ながらとても悔しそうにしていたこと。
真名人くんはどの話を聞いても、
「そんなことあったけー」
「覚えてない」
と知らないフリをしていたが、本当は照れ臭かったんだということを知って

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まなざし(29) 急転

まなざし(29) 急転

真名人くんの実家は、私たちの住んでいる街からおよそ1時間の場所にあった。先週遊びに行った桜川と同じくらい時間がかかるけれど、方向的には真逆。二週連続でちょっと遠くまで足を伸ばすのは久しぶりかもしれない。

この二週間で、とにかく私の人生は急転した。しかしこの感覚は初めてじゃなかった。

14歳のあの日、親友だった佐渡歌が突然この世から去ってしまったとき。
20歳の誕生日、交通事故に遭い、目が覚めた

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まなざし(28) 好きになってほしくて

まなざし(28) 好きになってほしくて

隣にいる彼女が、ぽかんと口を開けて目の前に差し出された婚約指輪を凝視していた。

結婚、という言葉を人生で初めてまともに使ったような気がする。
小学生の時、教室で仲の良い男女がいれば、
「お前ら結婚するんだろー?」
とからかった記憶がある。
高校ではバスケ部の同期の友人が、付き合っている彼女と「結婚したい」と惚気ていたのを聞いて、中島と一緒に「絶対今の女と結婚なんかしねーだろ」と呆れ気味にそいつを

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まなざし(27) 四角い包み

まなざし(27) 四角い包み

ゆったりと流れる川の上を、船は抵抗なく進んでゆく。波に揺られながら海を渡るのともまた違う。波のない穏やかな水面は、ただそこにいるだけでとても居心地が良かった。

「さあ皆さん、ここから約1時間、周りの景色や水上の居心地を楽しんでください」

船が動いている間ずっと、陽気な船頭さんが櫂で水をかきながら、船に乗っているお客さんたちに左右に見える景色の説明をしてくれた。
途中で背の低い橋が現れた時には、

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まなざし(26) 出発の日

まなざし(26) 出発の日

彼女と約束をした週末は、快晴とまではいかないけれど、雲の隙間から暖かな光が差す心地良い朝を迎えた。

うだるような8月の暑さをなんとか乗り切り9月も半ばまで過ぎたが、それでもやはりまだ日によって真夏と同じくらい汗をかく日がある。とりわけ仕事で歩いて営業活動をしなければならない日はなおさらだ。ひどい時は、得意先の玄関まで着いたところで10分間汗を乾かす時間を置かないと人前に出られないことがあるほどに

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まなざし(25) 4.7cm

まなざし(25) 4.7cm

「お客様、誕生日プレゼントか何かをお探しですか?」

ジュエリーショップには一度だけ足を運んだことがある。それこそ、瞳美の22歳の誕生日にはそこそこの値段のするネックレスをプレゼントした。
その時も、ショーケースに並ぶキラキラのアクセサリーを見て、たじろいだ記憶がある。知識ゼロの自分が彼女が満足してくれるようなプレゼントを選べるかどうか分からず、緊張していた。緊張しすぎて、何度も店に入っては出て、

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