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「誰かに読んでもらうために書く」のは寂しい?

こんにちは。  愛に従って生きる事、『行動を起こす科学』について書いたり考えたりしていますReaching Out♡理詠と申します。


先日、ある一流クリエイターの方がインタビューで、

「読んでもらおうと思って書くの、寂しいじゃないですか」

とおっしゃっていた。


むむ…

私がnoteを書く理由とは…?
「読んでもらおうとして書いている」のだとしたらそれは「寂しい」のか……?


確かに、
自分軸、自分軸といいながら
じつは「〇〇して欲しいから」とか、
「〇〇してもらえるように」とか、

さりげなく自分の欲求の中に他人目線、他人軸が介入してることは結構多くて、
気をつけるようにしていますが長年の癖ですね、これは。



そうじゃなくて先ず
「私がこうしたい!」「こう言うものを書きたい!」という強い欲求や情熱があってこそ、
クリエイターってもんだろう?

きっとそんな事をおっしゃりたいのかなと思います。




「価値」とは人それぞれで、
自分が自信満々で発表しても全く響かなかったり、かと思うと、例えば私に取ってはガラクタでもある人にとっては「数万円出しても欲しい!」と言うような事もあったりする。
タイミングよくインフルエンサー的な人が呟いたら、とっくに忘れ去られていたものがバズったり。


そんな「運」も関係してくるとなると、
そんな博打事の為に、
自分のクリエイティブな魂を注ぐのは「寂しい」と思うのは、
なるほど確かに...
一流の悩み、少し理解できる気もします。



であれば、
どうせなら120%出し切って反応ない方がずっと健康的だと気づいたりして、

今はまず自分の為に、
自分で自分のご機嫌を取る。
誰がなんと言おうと自分が満足して、納得行くものを残す。

自分の欲求を満たす事ができたら、
まあ、少なくとも書く意味はあるのではないかと思いました。


先の通り色んな価値観の人がいる訳で、
思う存分やって見向きもされなかったり、
ちゃちゃっと書いたものが結構読まれたりする訳で、
その度一喜一憂するようなものでもないのかな…と。


諦めが付くってものです!
もし間違いなくそこに自分の精一杯が込められていたならば。


集団心理、流行り廃りや人の目を気にして書いていた人はいずれ書くことから離れていくだろうし、
目的がそこじゃない人はきっとずっと懲りずに書き続ける。


書いた数だけ得られるもの、
体当たりして出来たドドメ色の青あざの分だけ知れることがあるはず、と思っています。


今はそれでいい、と誰かが耳元囁きました。
そうやって自分の心に従って進んだ先には、きっと「YES」があるのだと。


考えるより先に、まず手が動いている時、
書かずには居れなくて気づいたら書き始めている時、
思いもよらぬ気づきを得たりします。

そうして私の手から巣立った言葉や文章が、
どこかで誰かに届いていると感じる時、

ぽっと胸に明かりが灯ったような感覚が訪れます。

私にとってそれはとても意味のある事だから、だから書いている。
それでいいんだ。
それがいいんだ!


たまたま目についたインタビュー記事でしたが、お陰で今自分が在りたい「書き方」に気づかせてもらいました。


直感に逆らわず自分の心に従って、
その結果、青あざ作ったりしながらもしっかり自分の人生を味わって、それを言葉や文章にしていけたらいいな。



最後までお付き合い下さりありがとうございました!
Reaching Out♡理詠でした☺︎

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