見出し画像

たとえ病気でどんなにつらくなっても、書き続ける理由

2021年も残りあと少し。せっかくなので、2021年を振り替る文章を書こうと思っていたが、その前に触れなきゃいけないことがある。

今から一年以上前に有料のメルマガのように、noteの機能を使って有料記事を不定期更新で書くことにした。しかし、今年になって持病の線維筋痛症が悪化したせいで、前よりも限られた体力と時間なかでしか文章を書けなくなってしまった。すると、note記事を月に1〜2回書くだけで精一杯になってしまい、この一年間は有料記事を書く余裕がなくなってしまったせいで、結果的に更新が停止している状態になってしまった。

更新を楽しみにしていた読者の皆さま、ごめんなさい。本当は数ヶ月に一回くらい書けたらいいなと思っていましたが、今年一年間有料記事を更新できないまま、結果的に放置することになってしまいました。

さて、今からその書けなかった理由を書いていきます。書いていくうちに、自然と今年を振り返る文章になりました。なぜ、そこまでして書き続けたいのか。病気と共に生きながら書くこととは一体何なのか。これからじっくり語っていこう。



持病の悪化、無力な現実

今年は1月半ば辺りから症状が悪化し、体力と時間が減った。休憩する時間ばかりが増えてしまい、一日の中で作業できる時間が極端に減った。また、ほんの少しでも無理をすると、持病の線維筋痛症の全身の激痛や寝ても全く回復しない極度の疲労感などの症状がひどくなり、その場で動けなくなってしまうことが多くなり、どこまでなら大丈夫なのか探る一年だった。

病気のせいで、許容範囲を超えてしまうと動けなくなる。そうして、体力と時間が減る。もはや、必要以外のことで動かないほうがいいのではないか。でも、何もしないで動かないでいるのも心が折れてしまう。病気で母の介護なしでは最低限の生活さえもできない、殆ど寝たきり生活の無力な現実を突きつけられる。

その状況下でどのくらいまでなら、のしりことしての活動に時間と体力を費やせるか。病気と共に生きるためにあれこれ試行錯誤するしかなく、文章を書くのもポッドキャストを録音するのも何をするのにも、どうしたら楽にいられるか母と話し合った。具体的に言うと、バリアフリーな部屋にするために模様替えや工事などをして、より良い環境作りをした。有料記事以前の問題が大きすぎたせいで、今年はその根本的な問題を解決するのに精一杯で、有料記事を書くことが出来なかった。

けれど、そんなに無理をしてまでのしりこの活動しなくてもいいんじゃないか、有料記事じゃなくても文章を書くことさえも難しいのに、のしりこの活動自体を継続したい理由は何なのか。



それでも私は言葉を届けたい

たとえどんなに全身が痛くても、たとえどんなに現実で殆ど寝たきりで過ごしていても、インターネット上では現実よりも自由に活動できる。

もちろん、体力と時間がすぐに消耗されてしまうため、なかなかできなくて悔しい思いを抱くこともある。それでも、現実よりも遥かに選択肢が増え、好きな時に活動することができる。不特定多数の人たちに自分の想いを形にして届けることができる。時には、活動を通して感想を頂けたりして、結果的に誰かのための言葉にもなれる。のしりことしての私になら、それが可能だ。だからこそ、のしりことしての活動をなんとかして継続していきたい。たとえどんなに更新頻度が少なくなっても、画面の向こう側のあなたに向けて言葉を届けたい。

これは、病気と共に生きるために必要なこと。病気だけが私の人生ではないことを自分自身に言い聞かせるためにも、言葉を使って何かを表現することが必要なのだ。そう、病気は偶然を消して視野をさらに狭くし、病気が私のすべてに陥りやすいからだ。


偶然、他者との接点が消えていくなかで

コロナ禍辺りで車いす生活になってから、以前よりも増して偶然が少なくなった。また、外出する回数が週に1〜2回なので、他者との触れ合いも少なくなっていく。そうして、家で症状に耐えながら過ごす時間が増えていくと、偶然を求めて積極的に自ら行動でもしない限り、偶然から来る刺激が消えていく。単調な生活に嫌気がさしてくる。

このことは、コロナ禍で外出を控えている人にも言えるが、偶然が減ると視野がいつもよりも狭くなりやすい。私も、日々症状に耐えながらお家で暮らしているので、運命的な出逢いや偶然から来る刺激が少なくなってしまう。そう、偶然から来る刺激は、他者を通して得るものだからだ。

そのような状態が長引くと、閉鎖的になりやすくなる。この現状をどうしていいかわからない。とくに、私のように難病で強制的にそういうふうな生活になったひと程、社会との関わりが少ない現状を打破しようと思っていてもできない。偶然も外出も他者との接点も少ない暮らしでは、自分が見える範囲内のことで世界が出来ているかのような錯覚に陥りやすい。そのような生活が長引けば長引くほど、自分に関わりのない社会や政治・世界の出来事なんてどうでもよくなる。


目の前の病気、属性が私のすべてではない

すると、前よりもどんどん視野が狭くなっていく。Twitterでよく話題になる瞬発的なハッシュタグ運動の政治の話よりも、目の前のこの病気をなんとかしてほしい。もう、病気のために生きるしかないのだろうか。「病気があなたの人生よ。」囁く声の向こうへ行かなきゃいけないのか。

いや、囁く声のところへ行ってはいけない。そこに進んでしまったら、病気が私のすべてになり、病気に飲み込まれていってしまう。病気だけが私じゃない。たしかに病気と共に生きているが、それだけが私の人生ではない。

そう、病気だけが私のすべてではないからこそ、病気と共に生きるために偶然・他者との関わりが減っていくなかで、閉鎖的な世界に行かないよう、常に危機感を持って気を付けている。ひとりの人間が見る視野は狭い。しかし、社会との関わりが薄くなりやすい生活では、積極的に今まで触れていなかったものを開拓していかないと、自分が見える範囲内のことで世界が出来ているかのような錯覚に陥りやすいため、哲学や文学などの古典を読むなどをして、なるべくそうならないように気を付けている。

けれども、同じように古典などをたくさん読んで研究している大学教授などの知識人層の人でも、SNS上では見える属性で乱暴に物事を判断しがちだ。人間にはひとりひとりに物語があり、様々な価値観や背景があって、同じ時代の世界を生きている。属性だけでひとを判断し、個人や集団を語ることは非常に暴力的なことである。その流れに逆らうためにも、私はこうして言葉を使って書いている。病気だけが私ではないことを自分自身に言い聞かせるためにも、のしりことしての活動は非常に大切なのだ。

来年に向けて

2021年は病気に振り回されて忙しい一年だった。病気と共に生きることについてたくさん悩んで泣いたりもした。のしりことしての活動が減っていくなかで、改めて言葉を届けることについても色々と考えたりした。有料記事に対しても、考え直したりした。

病気のせいで限られた体力と時間のなかで、のしりことしての活動を維持させるために精一杯になってしまい、有料記事を書くことが出来なかった。来年の目標として、限られた体力と時間のなかでも、有料記事を継続して書けるようになれるように、今よりもさらに良い環境を整えたりするなどの工夫をしようと計画中だ。

やっぱり、病気と共に生きることはなかなか難しい。けれど、そうやって来年もまた私は生きていく。今こうやって読んでくれる画面の向こうのあなたに言葉を届けるためにも、私は明日のために書いて生きていく。

2022年も、応援よろしくお願いします。

のしりこ



====


▷のしりこ 公式サイト
https://ricrck.com

▷Twitter
https://twitter.com/ricrck

▷Podcast『のしりこの旅のあいまに』
https://lit.link/ricrck





この記事が参加している募集

振り返りnote

【サポート募集中!】 普段は難病のせいで全く働けず、殆ど寝たきり状態のなかで活動しております。もしよかったら、サポートしてくださると心がウキウキでキュンキュンです。猫のトラも喜びます。SNSなどでサポートをいただいたことは触れますが、名前などは出しません。よろしくお願いします!