見出し画像

偽預言者に注意せよ(4)(第二説教集2章3部試訳4) #94

原題: An homily against Peril of Idolatry, and superfluous Decking of Churches. (教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教)

※第3部の試訳は10回にわけてお届けしています。その4回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(35分36秒付近から47分42秒付近まで):


異教徒の偶像崇拝と分ける者の言い分

 自分たちは異教徒が彫像に対してしているように偶像を崇拝してはおらず、偶像を通して神や聖人たちに崇敬を向けているので、自分たちが偶像の前でしていることは異教徒がしていることとは違うと言う者たちがいます。この点については聖アウグスティヌスも、ラクタンティウスも、またクレメンスもそれぞれに、そのようなことは偶像崇拝を行う異教徒とまったく同じものであると見解をはっきりと述べています。聖アウグスティヌスはこう残しています。異教徒も宗教の純粋さから偶像を崇拝しているのではなく、自分たちが崇めるべきものの徴を、体を象った像にみているとのことです。

それに対する教父たちの反論

 ラクタンティウスはこう残しています。異邦人が言うに、自分たちは偶像に畏れをもっているのではなく、偶像として造られたもとのものを畏れていて、そのものの名前を聖としているとのことです。ここまでがラクタンティウスが残しているものです。
 クレメンスが残しているのは、悪魔である蛇が人間の口を通して呟いているということです。見えざる神の誉れに対して目に見える像を拝んでいるというのは明らかに間違いです。彼らは偶像崇拝を行う異邦人と同じような言い訳を用いて、偶像崇拝を異教徒とまったく同じように行っています。彼らは言い訳を用いていますが、聖アウグスティヌスも、クレメンスも、ラクタンティウスも、彼らを偶像崇拝者としています。

クレメンスの反論

クレメンスに至っては、悪魔である蛇が偶像崇拝者の口でそのような言い訳を言わせているのだと言っています。聖書では、偶像崇拝者が棒切れや石を崇拝していることが書かれています。それはわたしたちのなかにいる偶像を正当化する者たちがしているのと同じようでさえあります。エゼキエルはアッシリア人の神々を棒切れや石と呼んでいます。もちろん、そのようなものは彼らの神々の偶像にすぎません。神や聖人たちの名を冠した偶像も、異邦人のものと同じ使い方をされています。
 同じ著作の中で、クレメンスは次のようにも述べています。「彼らがあえて他の何者にも皇帝という名を付さないのは、皇帝がその敵対者や背信者を次から次へと罰しているからであり、彼らがあえて他のものに神という名を付すのは、神がその敵対者を悔悛させて受け入れるからなのです。」

昼間に蝋燭を灯すことの愚かさ

わたしたちのなかにいる偶像崇拝者たちもまた、同じように神や聖人という呼び名を付しており、加えて、偶像崇拝を行う異教徒がそうするように、神のものであるはずの誉れを偶像に向けています。偶像崇拝を行う異教徒のように、彼らが偶像を前にして昼も夜も蝋燭に灯をともしてそこに誉れを向けるというのはどのようなことを意味してしまうのでしょうか。他の目的でそのようにするなどありえません。昼なのに蝋燭に灯をともすなど必要のないことであり、せいぜい愚かさを表す格言にでもあるかのようです。夜にしても、目の見えないものの前で蝋燭に灯をともしても意味がなく、神はそのようなことを求められておりませんし、それによる誉れもお受けになりません。

ラクタンティウスの反論その1

この蝋燭の灯をともすことについては、千年も前にラクタンティウスが次のように述べたことが有名です。「太陽から出でる天なる光をみれば、人間の手によって光を作っていることになる蝋燭の灯など、神は必要となされはしないことがわかるだろう。太陽の円の形はあまりに小さく、これは太陽が極めて遠いところにあるがゆえに、人間の頭よりも大きくはないように見えるものの、そこから出でる光はとても強いもので、人間の目では捉えようもないほどのものである。むしろ、少しの間だけでも目を凝らして太陽を見ようとしたものなら、人間の目はつぶれて暗闇のなかにあるように目が見えなくなってしまうことだろう。夜も暗闇もお持ちにならない神に、どれほどの光の強さが、またどれほどの眩さがあるのかに、私たちは思いを致すことができるのだろうか。」このようなことを書いております。
 これに続けて、彼は次のようにも述べています。「神は正しいというのに、どうして光を出そうとする者に対して、蝋燭の光を授けようなどとなさるのか。神はわたしたちにそうではない別の光を求めておられる。くすんだものではなく、強くて眩く、知性と思考の光でもあるものである。」

ラクタンティウスの反論その2

 また、このすぐあとのところでは次のように書いています。「しかし、彼らの神々は地にあるもので、闇のなかにあり続けることのないようにと、光を必要としているので、それを崇拝する者たちは、およそ天にあるものなど考えつきようもないので、その教えを守るあまり、もとより暗いこの地の上にあって、光を必要とするのである。彼らは自分たちの神々に天にあるものを求めず、死すべき人間の持つ地にある知恵を求めている。それゆえに、彼らは神々にとって必要で喜ばしいものとは、わたしたちにとってそうであるような、飢えた者に対しての肉や、渇いた者に対しての飲み物や、寒さの中にある者に対する衣服や、太陽が沈んだ後に私たちが物を見るために使うろうそくの光であると信じているのである。」さらに、ここで引用するには長くなりすぎてしまうのですが、ラクタンティウスはこれに続けて、信教のために神殿において彫像などの偶像を前にして蝋燭の灯をともすことについて述べています。そのようなことはそもそも愚かであり、また、わたしたちが偶像崇拝を行う異教徒と同じく蝋燭に灯をともしているということを考えても愚かであるとしています。

偶像に供物を捧げることの愚かさ

 偶像崇拝を行う異教徒に倣って香を焚き、偶像を金でしつらえて支柱や鎖を施すとともに、船や、脚や腕や、男や女の全身を蝋で造ってその偶像の前に置き、あたかもそういったものによってあるいは彼らが聖人と呼ぶものによって、彼らは体の不具や病や虜囚や難破から救われようとしています。これはどのようなことを意味するのでしょうか。これこそ神の御言葉によって固く禁じられた、偶像を「コローレする」こと、すなわち偶像を崇拝することになるのではないのでしょうか。そうでないと彼らが言うなら、預言者ダニエルの第十一章を読んでもらいましょう。ここでダニエルは反キリストについて、「彼は砦の神を崇める。彼は、金、銀、宝石や財宝で、先祖たちが知らなかった神を崇め(ダニ11・38)」たと言っています。ここはラテン語では「コレート」となっています。『歴代誌』第二部の第二十九章では、あらゆる外面的な儀式において、香を焚くなどして神殿で神に誉れを向けることは「クルトゥス」すなわち「崇拝すること」と呼ばれていて、偶像に対して為してはならないものであるとして、神の御言葉によって強く禁じられています(代下29・25)。

殉教者たちは偶像に跪かなかった

教会史のあらゆる逸話によれば、わたしたちの聖なる殉教者たちは彫像や偶像の前でひざまずいて恭しくしたり、それに香をひとつまみ捧げたりするのではなく、あまたの極めて恐ろしく惨たらしい刑を甘んじて受けたのではなかったでしょうか。どのような言い訳をするというのでしょう。この世の生を歩む中で香を焚いたり蝋燭に灯をともしたり、木片や鎖や、船や、腕や脚や、あるいは蝋で造った男女のからだ全体を掲げたり、もろ手をあげて跪いたりするということが偶像に対して行われています。一方で偶像が置かれていないところや、偶像がかつてはあったところや、偶像が取り去られてしまったところでは、人々はそのようなことをまったくしないでいます。偶像がかつてはあって、今では取り去られて打ち捨てられているところをどこでも訪れてみれば、そこの人々はそのようなものをまったく忌み嫌っていることがわかります。これこそがかつて偶像に対して崇拝が向けられていたことの何よりの証拠です。

異教徒と同じく偶像崇拝をする愚かさ

わたしたちが男も女もともに、一団となって偶像のあるところに足を運んで、その前で跪いてもろ手を高くあげ、蝋燭に灯をともして香を焚き、偶像の前に金銀を献じ、船や木片や鎖や、蝋で造った男女を置けばどうなるでしょうか。神の御恵みとしてある息災や平安を偶像や、その偶像が表している聖人に祈るのを目にしたらどうなるでしょうか。偶像を正当化する者たちは偶像崇拝を異教徒が行うものとしていながらも偶像崇拝をよしとする考えをもって、外面だけの儀式や式典など、極めて忌むべき偶像崇拝を犯すことにおいて異教徒と同じくなっています。このことを誰が、いったい誰が疑うというのでしょうか。

偶像崇拝で暴利を貪る者たち

このような気ちがいじみたことをするのに、邪な者たちは自らの金銭的な利益や恩典のために、偶像崇拝を行う異教徒に倣い、偽りの物語や寓話をもでっちあげて、偶像の奇跡を声高に世に広めてきました。そのようなものにはパラディオンやエフェソの女神(使19・28)といったように、奇跡として天からもたらされたとされるものがありました。そのようなものは人間の頭がカピトリウムにあって馬の頭がカプアにあったというように、奇跡として地にあるものともされました。天使がもたらしたとされるものもありました。そのようなものはフォルトゥーナがローマに伝わったように、はるばる東方から西方に来たものでもありました。また、わたしたちがよく知っているかの女性の絵は、医者であったはずなのに意図して画家であるとされた聖ルカによって描かれたものでした。牛をつなぐ軛が百あっても動かせないものとしては、船でも運ぶことのできないボナ・デアや、ローマに連れ帰ろうとする職工たちを嘲笑ったゼウス神殿がありました。

もはや恥も外聞もない

石でできた硬いものでありながら、優しい憐れみの心で涙を流す偶像もありました。なかには、じめじめとした天気のなかで大理石の柱がそうなっているだけであるのに、戦場で助け合うカストールとポリュデウケースが汗を流したようであるとされているものもあります。偶像が命を持っていてバラムのロバよりもはるかに多くを語ったということもあります(民22・28~30)。不具の人がこのオークの聖人に挨拶をしたら徐々に体がよくなったので、自分もこの杖を持っているのだという人もいます。また、嵐のなかで聖クリストフォロスに挨拶をしたら事を逃れたので、このように蝋で造った船がありますとしている人もいます。聖レオナルドの助けによって牢から出て、自身の足枷が吊るされているところを見たという人もいます。このように恥も外聞も厭わない嘘によってあまたの数えきれないほどの奇跡が広められました。

偽メシアや偽預言者が人を惑わす

偶像崇拝を正当化する者たちは、異教徒が偶像に対して偽りの行いを為しているように、自分たちが持つ偶像に対して熱心にそのような奇跡を望もうとします。偶像のあるところで奇跡のいくつかが悪魔の瞞着によって行われていたとすれば、そのようなことの多くは偽のものです。人間によって造られたものであることは明らかであるので、そのような偶像には誉れが向けられてもそれが続くことはなく、ヒゼキヤが青銅の蛇を粉々に砕いたようになります(王下18・4)。この蛇は確かに神の御旨によって造られ、大いなる真の奇跡を持つものとして崇拝され、多くの者が癒されていました。しかしわたしたちは奇跡を望んで神の御言葉に反した行いを為すべきではありません。聖書にはこのことについて、次のような言葉があります。「偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとする(マコ13・22)。」

聖人崇拝の儀式とその愚かさ

 彼らは異教徒の愚かさや邪さでもって聖人の骨などの遺物に誉れを向け、それを崇拝までしています。聖人も死すべき人間であり、また実際にすでに死しているので、聖人を崇拝することはけっして神々に崇敬を向けることであるのではなく、恥ずかしいことに、したがってこれは異教徒がその神々に信心を向けているのとは違うとまで言っています。わたしたちは聖遺物の日曜日に遺物に口づけをして供物を捧なければならないことにまでなっています。わたしたちはそこにどれほどのお金がかかるかなど考えてはいけないのであり、供物を捧げている間ずっとその遺物の前では、音楽や吟遊詩人たちの詩歌が楽しげに流れ、聖人たちの名が唱えられほめたたえられます。水でさえもそうです。そのような遺物が水に浸されて大いなる崇敬の念をもって取って置かれていれば、極めて聖にしてご利益のあるものとなります。

聖遺物で暴利を貪る者たち

このようなことを聖クリュソストモスはどのように思うのでしょうか。彼は遺物について次のように書き残しています。「聖人の遺体を焼いた灰も、その肉体や骨による遺物も、時とともに意味を持たなくなるとは思わないのだろうか。信仰に目を見開いて、天なる美徳と聖霊の御恵みをもって目を閉じれば、天なる光をもって輝いているのが見えるだろうに。」しかし、偶像崇拝者たちは聖クリュソストモスの言葉に従うより、遺物やそれを浸した水による利益を強く求めました。遺物はとても利益を生むもので、それ以上に利益を得るものはほとんどなかったほどです。

聖遺物が各地にあることの怪

よりたくさんの遺物を手に入れるためには、ひとりの聖人に頭がいくつもなければならないはずで、ある聖人のものがあるところにあって、別の聖人のものが別のところにあるはずです。それなのに、ある聖人には六本の腕と二十六本の指があったことになります。救い主が背負われた十字架だけをとっても、そのかけらとしてある遺物をすべて集めれば、イングランドで最も大きな船にほぼ匹敵するほどになります。しかしその大半は異教徒の手にあって、彼らが自らの手に持って祈りごとをするのに用いられています。聖人たちの骨のみならず、それに類するすべてのものが聖なる遺物とされました。あるところでは剣や鞘が、あるところでは靴や聖なる馬とやらに載せられた鞍が、またあるところでは聖ラウレンティウスが火あぶりにされたときの炭が、はたまたあるところでは、主イエス・キリストが載せられた驢馬の尻尾が、遺物として口づけを受けて崇拝されるものとしてあります。

聖遺物をでっち上げる者たち

真の遺物そのものがなくても、彼らは遺物として口づけを受けて崇拝されるべきおとめの腕や驢馬の尻尾ではなく、どこかの馬の骨を遺物だとするでしょう。ああ、このようなものを人前に出すとは、なんと邪で厚かましく恥知らずな者たちでしょう。驢馬の尻尾に口づけをするのが善いと信じるなど、なんとばかげていて愚かで卑劣であり、獣のようであることでしょう。しかし、真に生きる道を確かに持つべきであるというのに、偽りや嘘に騙され、偶像崇拝を行う異教徒よりもはるかに邪で、知性を持たない騾馬よりも賢さがなく救いがたい愚かなキリスト教徒に対しても、神は慈悲深くあられます。


今回は第二説教集第2章「教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教」の第3部「偽預言者に注意せよ」の試訳4でした。次回は試訳5をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。


Twitterもご訪問ください。
高校英語教師が翻訳した説教集(@sermons218tm) / Twitter
高校英語教師が選んだ聖書名言(@bible218tm) / Twitter
翻訳出版を目指す高校英語教師(@tmtm218tm) / Twitter

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?