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心で信じ口で告白する(1)(第二説教集9章試訳1) #129

原題:An Homily, wherein is declared that Common Prayer and Sacraments ought to be ministered in a Tongue that is understood of the Hearers. (公祷と聖奠は人々に馴染みのある言語で行われるべきであることについての説教)

※第9章の試訳は3回に分けてお届けします。その1回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(9分16秒付近まで):


公祷と聖奠ほど大切なものはない

 親愛なるキリスト教徒よ、神の民が行う数多くのことのなかで、どの国家においてもどの時代においても、正しく公祷や聖奠を行うことほど重要なものはありません。そもそもわたしたちは、自分では得ることのできないものをすべて神の御手に委ねており、一方で神はわたしたちを受け入れられ、わたしたちがおすがりすることをよしとなされています。公祷と聖奠の二つがわたしたちにとってとても重要であるということを踏まえているのなら、こう問うことがたいして大切なことではないなどと思ってはなりません。一つは、祈りとは何であり聖奠とは何であるのかということであり、もう一つは、祈りの形がいくつあって、聖奠もいくつあるのかということです。このように問いを持つことで、わたしたちは祈りや聖奠を正しくはどのように行うべきかをよりよく理解することができます。

アウグスティヌスの公祷論と聖奠論

聖アウグスティヌスは祈りや聖奠がどのようであるべきかを知ることについて述べています。『魂と霊魂について』という著作の中で彼は「祈りとは心を捧げることであり、信仰深く慎ましい敬愛をもって神に帰ることであって、その敬愛とは確かな意思と心そのものを強く神に向けることである」とわたしたちに説いています。また、『律法と預言者への反論』に反駁する著作の第二巻では聖奠を聖なる徴としています。幼児洗礼をめぐってボニファティウスに宛てた書簡の中では、「秘跡であるとされるものでも確かな形をとっていなければ聖奠とはされない。形があることによって、聖奠はその名が示すとおりのものとなる」と述べています。聖アウグスティヌスのこれらの言葉から明らかであるのは、聖奠とは目に見えない御恵みを目に見える徴としているものであるということです。言いかえれば、目には見えない神の無辺なる御慈悲の業を目に見える形あるものにして、神の約束をわたしたちの心の中に刻ませているということです。したがって割礼もひとつの聖奠だったのであり、心の包皮を切り取るという目に見えない事柄を目に見える事柄にして、契約の種に神が触れるという約束を、割礼を受けた人々の心の中に刻みこんで確かなものとしていたということになります。

祈りの第一の形~絶えず祈る

 さて、祈りと聖奠にはどのようなものがあるかをみてみましょう。祈りについては聖書に三つ形を見ることができますが、そのうち第二までは私的なもので、第三にあるのが公的なものです。第一のものは聖パウロがテモテに宛てた書簡のなかで述べているものです。「だから、私が望むのは、男は怒らず争わず、どこででも清い手を上げて祈ることです(一テモ2・8)。」これは神に心を向け慎ましく手を上げるということであり、心にある悲しみを口にしたり、大声で欲望を語ったりするものではありません。このような祈りについては、王たちの第一の書にあるとおり、サムエルの母ハンナが神殿で悲しみに沈んで祈り、自身に男子が授かるようにと願うところに見ることができます。聖書には「ハンナは心の中で語っていたので」「声は聞こえなかった(サム上1・13)」と書かれています。これに倣ってすべてのキリスト教徒は週に一度や一日に一度というだけではなく、聖パウロがテサロニケの信徒に宛てて書いているように「絶えず祈りなさい(一テサ5・17)」とされています。聖ヤコブは「正しい人の執り成しは、大いに力があり、効果があります(ヤコ5・16)」と書いています。

祈りの第二の形~秘かに祈る

祈りの第二のものについては『マタイによる福音書』の中でこう述べられています。「あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる(マタ6・6)。」このような祈りについては聖書にたくさんの喩えをみることができますが、なかでも『使徒言行録』に書かれてあるものをみると心に安らぎがもたらされます。
 「敬虔な人(使10・2)」とされるイタリアの大隊の百人隊長コルネリウスは、ある日の午後三時に[7]家で祈っていると輝く衣を着た人が自身の前に現れたとペトロに言いました。彼は隠れたところで神に祈ったので大いに報われました(同10・30~31)。これらが私的な祈りの二つの形です。一方は心におけるものであり、言いかえれば敬虔に心を神に献げるものです。もう一方は声によるものであり、言いかえれば言葉をもって胸のうちにある悲しみや願いを密かにつぶやくものなのですが、それは奥の部屋など、ひとりになることのできる何らかの場所においてのものです。

祈りの第三の形~集って祈る

さて、第三にあるのが公的でありよく見られる祈りです。この祈りについては、救い主キリストが次のように言われています。「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天にあられる私の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである(マタ18・19~20)。」神はわたしたちの私的な祈りに耳を傾けることを約束なされました。それゆえに祈りは信仰深く、また献身的に行われなければなりません。神は「苦難の日には、私に呼びかけよ(詩50・15)」と言われています。聖ヤコブは「エリヤは、私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ると、三年六か月にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ると、天は雨を降らせ、大地は実りをもたらしました(ヤコ5・17~18)」と記しています。聖書に記された歴史によると、大勢の人による神への公祷は極めて意味のあることなのですが、これがキリストにおいてただ一つの肉体であることを告白するわたしたちの間で貴いものとされていないのは大いに嘆かわしいことです。ニネベの都が四十日のうちに滅びると告げられたとき(ヨナ3・4)、王も民もともに公祷や断食を行うことで災いを免れました(同3・10)。

公祷の力は大きい

『ヨエル書』では、神が断食を布告して老いも若きも男も女も問わず民を集められ、口を揃えてこう唱えるようにと言われています。「主よ、あなたの民を憐れんでください。あなたの相続地をそしりの的、諸国民の物笑いの種にしないでください(ヨエ2・17)。」ハマンの悪意によってユダヤ人は一日ですべて滅ぼされそうになりましたが、エステルの言うところに従って断食をして祈ったことで彼らは守られました(エス4・16)。ホロフェルネスがベトリアを包囲したとき、民はユディトの助言により断食をして祈ったことで救い出されました(ユディ8・17)。ペトロは牢にあったとき、会衆が一つとなってともに祈ったことで(使12・4)、素晴らしい形で救い出されました(同12・11)。このような逸話から明らかであるのは、大勢の人による公祷の力は大きいものであり、それによって天なる父の御手にある慈悲と救いに与ることができるということです。

心を高く神に献げて祈る

 同胞たちよ、みなさんに言いたいのですが、教会堂に集って神の深い御慈悲に与るために大勢で祈ることに怠慢であってはなりません。神の御手から善きことを受け取りたいと願って公祷の場に集い、声と心を一つにして、天なる父がわたしたちにとって大切であるとお考えになっているすべてのものを求めましょう。わたしはみなさんに私的な祈りを禁じているのではありません。ただ、公祷が価値のあるものであるとみなさんにわかってほしいのです。そしてそれにまさってわかってほしいのは、三つの祈りすべてにおいて、みなさんの心を高く神に献げるということ以上に大切なことはないということです。「この民は口で近づき、唇で私を敬うが、その心は私から遠く離れている(イザ29・13、マタ15・8)」という戒めをみなさんに確かに持ってほしいのです。

聖奠は二つしかない~洗礼と聖餐

 わたしたちは聖書を通して祈りの形には三つあることを知りました。これと同じように、いやむしろもっとわかりやすく、いくつの聖奠があるかをこれからお話しましょう。また聖奠が救い主キリストによって始められ、いまも救い主キリストが願われているとおりの手順で行われていて、ひとりひとりのキリスト教徒に受け取られていることもお話しましょう。まず聖奠の数についてです。聖奠という言葉の意味するところを正しくとらえ、特に新約聖書にはっきりと書かれてある目に見える徴として、わたしたちの罪の赦しやキリストと一体となるという聖なる約束に結びつけて考えれば、その数は二つでしかありません。それは洗礼と聖餐です。告解によって罪の赦しの約束が得られると言われてはいます。しかし新約聖書で明確にわかるとおり、これは按手という目に見える徴と結びつけられてはいません。告解については、手をかざすという目に見える徴を持つべきと新約聖書にはっきりとは書かれていませんので、洗礼や聖餐と同等とは言えません。告解が洗礼や聖餐と等しく聖奠であるとはされません。また聖職者の叙任はといえば、これには目に見える徴が持たれるものの、そこに罪の赦しがないという点で洗礼と聖餐を除いた他のものと同じです。聖職者の叙任でさえも洗礼や聖餐と等しく聖奠であるとはされません。

洗礼と聖餐のほかは聖奠ではない

一般的に聖奠という呼称それ自体は聖なる物事を意味しますので、どんなものにも当てはめられてしまうのです。古い時代の著述家たちは、七つとされてきた聖奠のうち他の五つについてのみならず、油を塗ったり足を洗ったりといったそこにも含まれない多くの儀式についても、洗礼や聖餐と等しく聖奠という言葉を用いることがありました。聖アウグスティヌスは『キリスト教の教え』の第三巻でヤヌアリウスについて書くなかで、この言葉の真にして正しい意味に重きをおきました。キリスト教の聖奠は極めて貴いものであるので、数において限りなく少なくあるべきであるとして、二つの箇所でこの洗礼と聖餐という聖奠について述べています。もちろんこの二つの他に、聖職者の叙任や、聖婚や、信仰箇条を確かめて教会堂での祈りに加わるための堅信礼や、病者訪問の祈りにかかわる儀式や典礼が、イングランド教会の秩序によって保持されてはいます。また、これらは信仰深い生活にとっても、またキリストの教会にとっても必要であり、公的な施策や厳粛さをもって教会堂の聖職者によって行われるのが相応しいものです。とはいえ、キリストの教会における教化や慰めや啓発のために持たれる秩序だったものであっても、洗礼や聖餐と並ぶほどの意義や意味を見出して、これらを聖奠とする人は誰もいないはずです。



今回は第二説教集第9章「心で信じ口で告白する」の試訳1でした。次回は試訳2をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。


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