『The Greatest Showman』の時代を先行したメッセージについてvol.2

次に登場する曲は「Rewrite The Stars」であるが、これは一身上の都合により、ツインソウルの話にしか聞こえないので
割愛する。
次に特筆するのはこの映画の中でも最も話題となった名曲、「this is me」。
自己認識や自己尊厳が夢において、どのようにかかわってくるのか、詳しくは「リスペクトが力を引き出す」という
記事を近々書く予定なのでそちらを参照いただきたい。

「this is me」に関しては、本当に自分のことのように聞こえる。
イントロが終わった一番最初の歌詞が、「ずっと暗闇の中で生きてきた」。
八年間のひきこもり生活のすべてがこの一文で表すことができる。
次の歌詞が「表に出てくるんじゃない」(と言われた)「ひとつひとつの傷を恥じるようになった」

これは幻想の中で本当に何度もよく聞いた言葉である。
次によく聞いた言葉は、「お前には幸せになる価値がない」と「お前の本質は闇だ(だから光を放つな)」である。
それと「決して目立つな」。

重要なのは、後半の歌詞である。
「バリケードを壊して、太陽に手を伸ばす」「そう、這い上がってきた」「私たちにもふさわしい居場所があるのだから」
「価値がないなんて言わせない」

本人がどういった意図で語っているのかはわからないが、自分にとってバリケードは外から締め出されるためにつくられたもの
ではなく自分を守るために自分で作ったものだった。
自分には太陽に当たる資格がないと感じていた。
人から押し付けられた偽の罪状を背負って、”お天道様に顔向けできない”を真剣に愚直にやっていたのだ。
(それだけが理由ではなかったけど)

(烏滸がましいこととは思うが)これには非常に重要な意味があった、それは天照大御神と同じ道を歩くという意味があった。(自分は人生の中で時折、日本神話に酷似した状況が創造される。なんでかは知らない)
天照大御神は自身の光について知らなかった(と自分は思っている)、だからひきこもった後、鏡に映った自分の輝きが
まぶしくて惹かれ外へ出たのだ。(ほかにも舞踏や演奏の楽し気な雰囲気があったらしい)
あらゆる神の力を借りて。(天照的な輝きは今も感じられないが。)
彼女(彼でもいいと思うけど)のエネルギーゾーンとシンクロしてわかったが、あの強力な因果は自己解決できるレベルではなかった。
恒星である太陽もまた違う何か大きなものの影響を受けて存在していると理解体感できる。
より大きなスケールでは、太陽神も、それよりも大きなものの動きの中に存在するのだ。
つまり引きこもった天照大御神について落胆するようなほかの神々の非難や嘆きは見当違いと
いっていいだろうと思う。
局地的と思われる巨大な渦潮も、大海の影響を受けているのだから。

バリケードを壊して、太陽に手を伸ばすという一文は自分のことのように思えてならない。
私たちにもふさわしい居場所があるのだから、という歌詞には今現在、つまりひきこもりをやめてから二年程度
経たなければ響かなかった。
自分にとって今まで居場所は死に場所でしかなかったから居場所を欲するということ自体あまりピンとこなかった。
自分の居場所は天国にだけ存在するものと信仰してきたからだ、安楽死がその道程だとも。

人にとっての居場所とは、精神的なものと機能領域的なものの二種存在すると今は思っている。
前者はコミニティーと呼ばれ、後者は我が家とか自分の部屋と呼称されるだろうと思う。
またスピリチャル的観点からすれば、ユーザル体程度の範囲を自分のいいエネルギーで
満たせているかどうかも重要であると思われる。後者においてはどう”機能しているのか”が
重要である。
健全な人生にとって、両者を欠かすことはできない。
つまり何が言いたいかというと、自分にとって心地のいいコミニティーに感謝し大切にすることと、自分に許された場所を
大事にケアすることが重要であると言いたい。

「The Other Side」 はほかのシーンとは比べ動きが大きくなくあっという間に終わる。
他の演芸者をスカウトするシーン。
このシーンでは自由に夢を追う主人公と決められた範囲の中で毎日を送る演芸者の対比が
象徴的である。実際には、決められた範囲で生き続けることは悪いことではないし、自由に
向かえばそれでいいということでもない。
演芸者は毎日に満足しているし、自由を渇望しているわけではない。
何度も曲を聴き、歌詞に目を通せば、掛け合いの本質が見えてくると思う。
それは演芸者は感動する仕事をしたことがないのだ。仕事はあくまでライスワークでありそれ以上
を求めることはない。仕事の内容もある程度は効率性が重視されており、リスクを負って
別のことをする気にならない気持ちは理解できる。

しかし主人公は、夢を通して現実に色彩を見ている。
それは仕事をしているときもそうだ。

「So trade that typical for something colirful」
「日常をカラフルに変えるんだ」

「Oh,damn!Cant you see Im doing fine」
「なんてこった!君は僕がうまくいっていると見てわからないのか?」

押さえておきたいのは、演芸者にとってこの誘いは”正解”への道ではないということだ。
実際本人が言う通り、本人の人生はうまくいっているのだろう。
主人公の誘いは演芸者にとって、”別のヴァージョンへ移行するお誘い”であり、不正解である人生から正解の道へシフトするわけではない。
主人公の皮肉や檻を開ける自由のカギを手にしろというセリフのせいで、演芸者は
サーカスへと誘われるべくして誘われているように見える。

ある程度の自由を諦め安全な毎日を受け入れるという、現実的、そして”人間的”な
選択のレベルから、”自分はただの人間であるだけではない”という可能性と発展の
人生のレベルへと昇華しようというシーンである。
超常的な次元において、リスクというのは構造的にとても幻想的な概念である。
そこに囚われず自由を手にするというシーンは印象的でありながら、そして日々を生きる
全員にとっては日常であるといえる。

「Come Alive」
蘇るという意味の「come Alive」。すべてを失った主人公が再起を計るシーンである。
非常にシンプルな曲の方向性をしているため特別語ることはないのだが、一文を取り上げる。

「元の世界にはもう戻れない 目を開けて夢をみているから」

描かれなかった主人公の中にある誘惑は、「失敗したと結論をだし、田舎へ帰ること」だ。
苦難の表情の描写が少なかったからからか、視聴者はこれから再起するのだという期待感と
理解があり、少なくとも自分はどきどきはらはらとならなかった。
この一文はこの曲のすべてであると思う。主人公がただ熱に浮かされて夢を見ているのか、
夢を叶えるという”信念を確かにもっているか”を証明するタイミングだったのだ。

余談だが、こういう苦難が生じたとき、その事情の本質を信念を持っているか(本当にそれを意図しているか)を世界に試されているのだ的なスピ的概念を持っている人がいるが
自分はあまり正確な考えであるとは思っていない。

確かにこの主人公のようにまっすぐ夢の大道を奔走するというのは、苦難が生じやすいと思う。が苦難を生じさせないよう意図して動いたうえで生じる苦難や障害は、夢を追ったこと
ではなく、別の因果から来ていることの方が経験上多く、以上のことから宇宙側に
そういった意図は存在しないと考えられる。
それどころか「お試し」を願望成就の通過儀礼に奉り、平坦だった道に先に自分で
ハードルを設置して後でそれを飛び越えるという結末を招く。
しかも皮肉なことに先に設置されるハードルは自分が前に超えたハードルを使い
まわしている。
これは上手な生き方とは言えない。従って上手な夢の追い方とはいえない。

自分のいう上手な夢の追い方とは、無理をしないことであり古いヴァージョンの自分がしたことや考え方を一切名残惜しむことなく忘れ去ることであり
原因の究明から離れることであり、自分の人生に起こるよくあること(因果のこと、中でも比較的ネガティブなもの)を忘れ、善い言葉を使い、祈り、感情を落ち着け、平穏に、そして
なによりも大事なのは、光と共に健やかに生きることである。

上記のことを真摯に誓約として設けるなら、あとのことは大抵問題ではなくなる。
精一杯制約を行動にしているうえでそれでも起こる問題は大抵「その問題が生じる状況が
後々必要になる」なるのである。
最小限の谷で助走をつけて、手早く山を登ってしまうために他ならない。
”解決が約束されていると知っている”いう泰然とした姿勢と安心感は、豊かな人生において
非常に重要なものである。弱さとは不安の信仰であり、強さとは安心の信仰とそれに類する
善のエネルギーのことであると、自分は思っている。


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