自分の鬱。それと生と死の不支配性

『生々しい鬱と自死の描写があります。ご注意ください。』

鬱や精神を病むことへの理解が深まればと思います。

旧正月の新年会in静岡浜松にて。

2月15日、旧正月の新年会がまなみさん主催で開催された。
メンバーは自然とともに暮らすまなみさんのご友人で、農家建築士、日本画家に主婦に料理人、パン屋と様々。
全員が参加できる日を決めて開催されたわけではなくまなみさんが決めた日に来れるメンバーで開催された。
農家のみなさまは野菜を持参し、建築家のみなさまは月のしずくというお水を持参し、主婦のみなさまは
お菓子を持参し、パン屋の方はパンを持参し、まなみさんは牛肉の塊を持参し新年会が始まった。
(自分は推しの豆が新しく見つかったのでコーヒーを差し入れた。)

お酒がすきなひとはいち推しのお酒を持ち込んで話に花を咲かせていたし、料理も豪勢だった。
まなみさんが連日長時間の運転をしたあと仕事でする料理会のような作業量をほぼ一人でこなしていた。
自分は助手席に座っているだけで疲れて数時間は休憩していたのに。

初めましての方と話し込むなかで、こんな話が出てきた。
彼は少し前に仲間を自殺によって亡くしている。本人が最終的に選んだこととして
理解している一方で、その時の思いが彼の中でひっかかっているように自分には見えた。

彼は生きると死ぬは肉体のものでただそれだけでしかない、と口にしていた。
自分も同じ考えである。けれど超常的な答えと自分の人生のなかで本当の意味で真実としておかれる
考え、結論は違う。自分というあらゆる層の複合体は、今の一番力強い層がどの部分で、何がか起きたときに
あらゆる現実の側面の中で何を体験的に真実として感じるのか、という過程を通して、最終的に
自身の中の答えとして提示される。
それを本心や理性と食い違っているからと言って無視することは、健全ではない。
なぜなら以上の過程を経て提示された答えは、意識ではなく無意識に蓄積し、心の動作との乖離が大きくなるにつれて、膨れ上がった矛盾の処理ができなくなるほど大きくなった段階で、代わりに自我を崩壊させることで矛盾の帳尻を合わせるからだ。
これが精神疾患の大まかなプロセスであり、その底流には必ず「自分とは何か」という哲学的命題に対して
どう向き合っているかという日常的姿勢が問われている。
自分がセルフシップと呼ぶ命題はここからきているともいえる。

この課題に覚醒的に向き合えていない人間は潜在的な鬱の種を自らのうちに宿していることになる。
(育ちきるのは稀だとはいえ、自分を疎かにすることや過去の経験から出来上がった自分像に固執することは
危険だといえる。)

自分は過去、数多く自殺未遂をしてきたがそのすべてに自分の意思の問題ではなく、タイミングや自分ではどうしようもない外的要素によって決まっているという無力感や諦念が確かにあった。
死にたいという意思の強さと確定した自死の結果が強く結ばれているとも、況してや比例しているようにも、思えなかった。
心の底にある生きたいという意思が、死にたいという意思を上回っているように思えないときの方が
長かったし、当人がまだ生きているから、心のどこかで生きたいと願っているという結論には強い疑念が残るのも
事実だ。(十全に死を望めるようトレーニングしていた背景もあるけれど・・・)

自殺欲求と自死の結果の相関性は存在しない。
あるのはたまたまの結果であり、勇気があるとかないとか、死ぬ気持ちが強いとか弱いとか、生きてまだしたいことがあるとか、あるいは当人の心の動きがどれほどのものであるかなんて当人含めこの世のだれにもわからない。

ただ自殺欲求と自死の結果の方程式は、考えるに、「マヒした心」「信念」「手段」と「タイミング」との
四つを考慮しなくてはならない。
自死を常に望みつつげるのにはかなりの体力が必要だ。例えるなら四十二キロマラソンを三十七キロ地点の
辛さを常に味わい続けるようなものだ。心のどこか、あるいは神の使わした天使の「もう死を望まなくてもいいんじゃないかな?」という甘言は、マラソン中の足を止める誘惑ほど強烈で、マヒした心に甘言が浸透しないよう
心を律するのはかなり骨が折れる。

自分は鬱は死ねば治ると考えていたから、生きることを認めるなんてことは
絶望よりも忌避するべきことだった。
そしてそれが自死に失敗した後、もう一度死へ向かわせる信念になる。

そして手段だが、これは単純だ。
死ぬために必要なものが今そこにあるかどうか、だ。一番ハードルが低いのは安楽死薬で、それがコンビニで買えるのならば、自殺者の数は心の奥底や上辺の気持ちの多寡に依存することなく簡単に増やすことができる。

最後のタイミング。三つの要項が揃っていたとしても、この項目が可でなければ死ぬことはできない。
人は生まれるべくして生まれてくる、生まれきた以上生きてやりたいことがあるなどという考えは(心血を懸けて自由主義の旗を掲げているため)浅薄極まりなく、蕁麻疹がでるほど嫌いだが、死ぬべきタイミングは天が調整する、とはいえる。
これは所謂スピ系の美徳やアグレッシブポジティブシンキング(あらゆる物事の中の良い面だけを能動的に見つめ、そのように結論をつけることで最終的にポジティブな信念を構築する手法)が入り込む余地は存在しない。
よく勘違いされがちだが、「”タイミングではないから生かされた”という結論が正しいケースは多くない」
単純に死後の魂の霊的処理の担当者が不在のため、また後日にしてくれというだけのことである。
美容院と同じく死ぬのにも予約が必要なのだ。当人が予約しなくてもいいとはいえ、誰かが”担当者を呼びつけておき担当者がその場にいる必要がある。(担当者がいない場合でも実質的に死ぬことはできると思うが、かなりの力技になり、上方からかかる霊的負担に耐えられるかどうかが肝であると考えている。例えるなら半径八メートルの渦潮の中心から遊泳にて脱出することぐらい力技である。)
それがタイミングである。

死後、生後問わず、一度の自殺で死ねる人間を観察したことがないため、一発で死ぬことができた人間が
真の意味でクリアした条件はわからない。
が自分にとって自死できなかったことは今もわずかにコンプレックスの顔をして心中に居座っている。
それがたとえ至福の中であっても、羨望の裏打ちになっていることははっきりと自覚できる。

しかしながら、あらゆる諸哲学命題が示している通り、『人生において、常に過去は関係ない』。
従って、過去の自分が構築したアイデンティティは今の自分を幸せにしない限り、それに力を与えているのは
今の自分である。
過去の楔など存在しない、今自分が握っている縄しか自分の行動範囲を縛ることはできない。

重度のうつ病をぬけた先では、それを体現できる。

鬱と脱鬱は、奇妙な姿をしている。
がんのように鬱には人それぞれの形と治療法、つまり段階が存在すると思う。(精神的なアプローチでは)
長期的慢性的な鬱に関して、精神的アプローチを考えるならば、必ず、
『どうやって鬱になったのか、がどうやって鬱を治すかという答えを導く。』
ということを念頭におかなければならない。

治療の過程において精神過程は無視はできない。
鬱に対する特効薬、特効法は存在しない。あるとするならば、十全に治験を行っていない鬱を経験したことのない人間の信念として表現されるケースなら知っている。
しかし信念と特効薬は違う。重なり合う部分もないに等しい。

それぞれがそれぞれ唯一無二のオリジナルの問題を抱え、「鬱」という一言でカテゴライズされているに過ぎない。

死とは肉体のプロセスの一時的終了に過ぎない。魂的にはプロセスの段階を切り替えられるだけだし、精神に
当たる部分は所謂来世と呼ばれる過程でまた合流する。

精神的に病むということはある程度患者の精神的資質にも依存する。うつになりやすい性質を持っている人間が
いることは確かだ。
しかし構造的に鬱になることのない人間はいない。
交通事故と同じように、それは当人が決められる範疇を大きく逸脱して現実化することも多い。
つまり暴力的なまとめ方になるが、現代社会において鬱になるかどうかは運だといえる。

不慮の事故で死なずに今日まで生きてこれたという幸運は、精神を患わずに済んだという幸運と同じ背景を持つ。

天命などという言葉は人間が本来持つ自由への冒涜だと感じられるため使いたくないが、時折そういったものでしか説明のつかない事象も存在するのだろうと感じる。

この記事を読まれる方々が病んでいることはほとんどないであろう。(長文読むのしんどいだろうし)
ただ病んでいる人たちのあらゆる自傷の行動を通して、あなたまで傷つかないように自分自身を他者とより分け、守ってあげてほしいと思う。
自分に傷がついている時、他者を癒すことはできないのだから。


生と死の不支配性は、外界に堅牢な真理として存在するわけではない。
世界の性質や生と死の秩序がそうさせるわけではない。
各々がそれぞれの人生において、後天的にそして恣意的に構築するものであり恣意的である以上
精査された真理と呼ぶにはふさわしくない。精査されていない真理は、事実という石と真理という宝石の玉石混交n状態であるといえる。

けれど、内界に存在するからといって真理ではないことにはならない。
一部の真理をそこから紐解くことはできる。
生と死の不支配性は、真理を探究する蒙昧な人間にとって真理へのガイドの役割をしてくれる。

生と死がどのレベルで不支配的であるかが、我々がどのような存在であるかを浮き彫りにし我々の訓練された力の及ぶ範囲を見せてくれる。

身近な物事が支配的であるから自分は自由であるということは、不支配の日常の中でもできる。
仮想的な行為だからだ。
重要なのは、支配と不支配のコントラストの変容過程を通して我々が今の段階で、真にどれほど覚醒的な自由でいられるのかを見せてくれることだ。
生と死の不支配性という命題からは、誤った真理を語り驕り虚飾で着飾る都合のいい信仰心だけを持つ我々を、
(バベルの塔を崩すような過激なことをせずとも)諫め、啓蒙的にさせてくれる。

啓蒙的でいれば、真実を真実とし驕りを幻想とし、智の信仰心を光とすることができる。
智は獣を人間にしてくれる。光は人間を文明人にしてくれる。
文明人は光と共に暮らすことができる。その光の一辺が、智であることはいうまでもない。

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