2027年のビーンズショップ  <夢の途中> 第9話 天使現る


その翌朝、私は朝早めに起きて温泉に浸かった。気持ちの良い朝だった。九州地方から徐々に天気が崩れて来ている様だが、まだこちらは好天だった。
 
一人で港に行ってみた。谷川さんは疲れているのだろう、まだ、ぐっすり眠っている様だった。早めに港に来たのは魚市場の様子を見てみたかったからだ。私は市場と言うのが大好きなのだが、、市場の人にしてみれば、素人がウロウロするのは危ないし、中に入れない様にしてあるらしかった。見学お断りと大きな看板が立っていた。
 
魚市場の中は活気があった。イサキやアジなどの魚も見えたので、それで満足して宿へ戻るともう谷川さんも起きていた。『おはよう。』と挨拶してから、着替えて下へ降りてゆくと宿の御主人がフロントの所に居て声を掛けた。
 
『おはようございます。もう前の食堂に朝食の準備は出来ていますので、いつでもどうぞ。』と言ってくれた。更に『昨日の件は町役場が始まり次第、聞いておきますので、暫くお待ち下さい。』と言ってくれた。
 
私と谷川さんは前の食堂に行った。係りの人が席に案内してくれた。朝は鯵の干物だった。大ぶりの鯵の干物に鰯の刺身も付いて来た。後は海苔と卵、小さなサラダに味噌汁と漬物だった。とても美味しい朝食だった。海の旅館に来たのだから朝は干物が食べたかった。鰯の刺身も美味しかった。海苔の佃煮も豆腐の味噌汁も美味しく、私達は満足して部屋へ戻った。
 
帰り支度をしていると部屋の電話のベルがなった。10時に小柴未由という観光課の係りの人が話を聞いてくれるという電話だった。谷川さんがお礼を言って電話を切った。
 
九時に会計を済ませ、御主人に挨拶した。『どうもいろいろありがとうございました。助かりました。』と私が言うと御主人が『この女の子はまだ若いんだけど。この町の土地と建物に関してはとても詳しいし、とても親切だから、いろいろ話を聞くと良いと思いますよ。松崎町の方だって新しい店や宿泊施設が増えるのは嫌なはずがないんで、人だって増えてほしいだろうし。』と言ってくれた。
 
谷川さんもお礼を言い、二人で日産デイズの所に行った。『上手く行きますかね。』と谷川さんが言い。『分からない、全て会って話をしてからだね。』答えた。町は狭いので、町役場には直ぐ着いてしまった。町役場の駐車場に車を止めると、三十分程余分な時間があったので、周りをいろいろ歩いてみた。
 
半端な時間なので、町はガランとしていた。町役場は大沢川の畔にあるので、川に沿って歩いた。
 
昔、豊崎ホテルから海沿いの道を川に向かって歩いた事がある。まだ早い時間で、橋の向こう側で(橋と言っても小さな橋なのだが)橋の袂の角の家のおじさんがカニ網を仕掛けていた。仕事から帰ってカニが入っていたら、茹でて食べるのだろうと思った。何と素敵な生活だろうとその時思った。私も又、自分に合わない仕事場で人生に嫌気がさしていたのだ。その風景は私の頭の中にいつまでも残っていた。
 
それから十年ほどしてバブル最後の時に家が売れ、私としては今迄手にした事のないお金が手に入った。私は直ぐに仕事を止めてしまった。半年間ブラブラした後豆屋を始めた。その豆屋が今の<夜間飛行>だった。
 
もう十時に近づいて来たので、二人で町役場に行った。
 
町役場には約束の五分前に入った。普通の役所の作りで、片側にカウンターが続き、カウンターの前は長椅子だった。
 
一番手前で係りの男の人に聞いた。『<小柴未由>という方に十時にお会いする予定なんですが。』『分かりました。今、小柴を呼んできます。暫くお待ち下さい。』と男の人は席を立ち小柴未由を呼びに行った。
 
直ぐに男の人の後ろについて、小柴未由が出てきた。思っていたよりずっと若い。美人の女子大生にしか見えない。東京の美大で絵でも描いていると似合う感じだ。美人だが顔はリスに似ている。伊豆高原の不動産屋の女の子はウサギに似ていたが、小柴有未はリスに似ている。私は直ぐに<松崎町役場のリス>とあだ名を付けた。何でも似ている動物に準えてあだ名を付けるのは私の癖だが、多分これは品性が下劣だからだ。面白いと思うと我慢できないのだ。幾つになっても困ったオヤジだ。
 
リスの未由ちゃんに連れられて、私達二人は奥のブースに行った。ブースはスチール製の壁とプラスチックの波板で囲われていて、デコラの板とスチールの足で出来たテーブルが一つと折り畳みの椅子が四客置かれていた。警察の取調室はこんな感じかも知れない。
 
未由ちゃんの前に谷川さんと私が座った。未由ちゃんが名刺を私達二人に渡し、私も名刺を出した。谷川さんは今無職で名刺は持っていないのでという事で名刺は出さなかった。
 
未由ちゃんの名刺を見ると松崎町観光課係員、小柴未由と書いてあった。
 
『今朝、豊崎ホテルの御主人からお話を伺いました。何か町内で物件を探しているというお話でしたが。』
 
『はい。』と谷川さんが話始めた。『実はカフェ付のベッド&ブレックファーストのミニホテルをやる場所を探していまして。』と言った。
 
『あら素敵。』未由ちゃん突然言った。
 
『いいなあ。』と私は思った。『こういう娘は面白いに決まっている。』
この感じは間違っていなかった。未由ちゃんはとても面白く有能だった。ただ、この未由ちゃんが私達の天使になり、救世主になるとは、私も谷川さんもまだ、本当にはこの時思っていなかった。
 
私が言った。『彼がこの町をとても気に入りまして、物件を探しているんですが、、昨日不動産屋を回ってみても物件は殆どありませんでした。とても困っているのですが。』と正直に言った。

未由ちゃんは言った。
『そうでしょう。この辺りの人は土地を売るのをとても嫌がるんです。別に使っている訳ではないし、使う予定も無いんですが、売ると近所や親せきの目もありますし、親戚がこぞって大反対する場合も出て来ます。先祖代々所有してきた土地の所有権を他人に譲るといのはこの辺りの人にとっては大変な事なんです。だから使っていない土地や家は沢山あるのに、不動産屋さんに物件が出る事は余り無いんです。』
 
『そうか。』と私は思った。私も谷川さんも暫く沈黙した。
 
未由ちゃんが聞いた。『物件は買わなくては駄目なんですか。』
 
谷川さんが訪ねた。『それはどういう意味ですか。』
 
未由ちゃんが言った。『借りると言うのは駄目ですか。』
 
谷川さんが言った。『いえ、私は土地が欲しい訳では無いので、別に土地の所有権が欲しい訳では無いのです。ただ長くやらないと駄目な仕事だと思うんで、お借りするなら出来るだけ長い期間貸して頂けないと後で困ると思うんです。』
 
『そうですよね。』と未由ちゃんは言った。
 
『それではどんな場所が良いんですか。』
 
『出来れば海の近くが良いんですが。それでなければ、川の畔でも良いんです。大き目の自家焙煎のカフェが一つと、小さな部屋が三つから五つぐらい。後は私達スタッフが暮らす部屋が二つぐらいと、トイレ、駐車場が五台から六台位という事になると思うんですが。』
 
『どの位の広さになりますか。』
 
『建坪で言うと、50坪から80坪。土地の広さで言うと出来るだけ広い方が良いと思っています。』
 
未由ちゃんが確認する様に聞いた。『カフェは自家焙煎にするんですか。煙なんかはどうですか。』
 
『一K釜と言う、本当に小さな焙煎機ですし、もし、必要なら消煙機も付けられます。』と谷川さんが言った。そこは、私が答えるんじゃないのと思ったが遅かった。たん井川さんが明確に答えてしまった。
 
未由ちゃんが言った。『分かりました。これから私の知っている地主さん何人かにあたってみます。午後二時にもう一度こちらに来て頂けますか。それまでにどんな物件がどの位あるか調べておきます。』
 
世の中は分からない。何処にどんな人がいて、どんな仕事をしているか全く分からないのだ。
 
私達は未由ちゃんにお願いして町役場を出た。七十四歳の男と、三十九歳の男が二十代の女の子に頭を下げてお願いしているのだ。事情を知らない人が観たら笑ってしまうかも知れない。しかし、私も谷川さんも必死だった。
 
私達は町を歩き昨日と同じうなぎ屋にもう一度入った。ご主人は驚いた様だったが機嫌よく迎えてくれた。昨日同様うな重は美味しかった。二人とも直ぐに食べ終わってしまい、私達は川沿いの道を歩き昨日のカフェに入った。
 
谷川さんが言った。『どうなりますかね。』私は言った『まかせるしかしかないね。他にあてがある訳ではないし。』

『未由ちゃんはカッコいいですよね。』と谷川さんが言った。『何でこの町の役場に勤めているのか分からないけどカッコいいよね。』と私も言った。でも<松崎町役場のリス>と名ずけた事は言わなかった。又、谷川さんは黙ってしまうと思ったのだ。谷川さんは紳士なので、可笑しな冗談を言うと無視されてしまう。
 
カフェを出て、又、町を少し歩くと直ぐに二時近くになってしまった。松崎町役場に着くと、係りの人がブースに案内してくれた。
 
ブースには未由ちゃん以外に人がもう一人いた。未由ちゃんの隣に座っていた。白髪の老人だった。私より年は大部上の様だった。未由ちゃんが紹介した。
 
『こちらが田辺さんです。この辺りの地主さんで土地や建物を沢山持っていらっしゃいます。こちらが山下さん、こちらが谷川さんです。土地を借りたいのは谷川さんで、山下さんはそのコンサルタントと言ったところです。』
 
田辺さんが言った。『始めまして。田辺です。宜しくお願いします。小柴さんが是非お話したいことがあるというので、先程お話を伺いました。そういう事なら町の為にもなるだろうし、私も是非協力しようと思いました。家や土地は使わずに開けておいても仕方ないし、でも売るとなると周りも煩いしという事で、この辺りでは土地や建物の動きはなかなか無いのですが、私も土地や建物をどう使ったら良いのかいつも考えているので、お話が合えばお貸しすることは出来ると思います。』
 
『ありがとうございます。宜しくお願い致します。』と谷川さんが頭をテーブルにぶつける位下げながら言った。
 
田辺さんが、『それでは出かけましょうか。用意は良いかな。』と有未ちゃんに聞いた。有未ちゃんは『はい、大丈夫です。町役場の車で出かけますが良いですか。』と言い立ち上がった。町役場の車はカローラだった。横のドアに<西伊豆の宝石、松崎町>と書いてある。
 
私と谷川さんが車の後ろに乗り、田辺さんが助手席に、未由ちゃんが運転席に座った。
 
未由ちゃんが言った。『それでは、最初に少し桜田温泉に近い物件から見て行きます。今日は物件を三つ観て頂く事になっています。』
 
桜田温泉は大沢温泉と松崎町の間にあり、大沢川の中流域の辺りに温泉旅館が点在している。田園風景と温泉が売り物の比較的新しい温泉地だ。広々とした土地に古い建物が一軒建っている建物の前で車は止まった。
 
未由ちゃんが『こちらは田園風景と大沢川の景観が、売りになります。それにお金を出せば温泉を引く事も出来ると思います。』と説明した。建物の中を観せて貰い、それが終わると『それでは次の物件に向かいます。お答えは町役場に戻ってからお聞きいたします。』と言った。
 
私達は次の物件に向かった。次の物件の前で車は止まった。『これが三つの中では一番海に近い物件です。建物はここが一番新しいそうです。』そこからは道の先に海が見えた。建物は結構新しい、白いペンキ塗りの建物で申し分無いと私は思った。中を見せて頂き、次の物件に移動した。
 
そして最後の物件に移動した。最後の物件に入った時、谷川さんが言った。

『これだ。』
 
物件はは前が住宅地と畑で、裏が大沢川に面していた。何と母屋の横に蔵があった。母屋は古かったがしっかりした造りで、きちんと手を入れれば充分素敵に使えそうだった。中を丁寧に見せてもらった。谷川さんが、田辺さんに『大沢川側に木製のテラスを出しても大丈夫でしょうか。』と聞いた。『川までは全部うちの土地なので、川に出っ張ったり、法に触れない限り大丈夫です。』と田辺さんが答えた。
 
私は谷川さんが興奮しているのが分かった。私も興奮していた。蔵の中も見せてもらった。荷物は殆ど片付けてあり、中は奇麗になっていた。蔵だから高さがあり、何よりも静かだった。
 
田辺さんが言った。『電気も来ているし、水道も引いてあるし、下水道も使えます。ガスはプロパンですが、この辺りは全てそうなので。温泉は引けないですが、建物は自分で費用を負担するなら、好きな様にして結構です。』私や谷川さんの興奮は田辺さんにも充分伝わった様で、田辺さんも微笑んでいた。
 
散々母屋の中を見せてもらった後、未由ちゃんの運転で町役場に戻った。先程のブースに案内され、席に着くと未由ちゃんがお茶を運んで来た。『お疲れ様でした。どうでしたか。』と未由ちゃんが私と谷川さんに聞いた。
 
『凄かったです。』と谷川さんが言った。『特に3つ目の物件が気に入りました。あそこの川沿いにテラスを出せれば凄いカフェが作れると思います。』と谷川さんが興奮を隠さずに言った。
 
『蔵は上手く使えれば、静かな過ごし易い客室が作れるのでは無いかと思います。本当にお借り出来ますか。』と田辺さんに聞いた。
 
田辺さんは笑って、『そんなに気に入って頂けて本当に嬉しいです。貸す方にしたって本当に喜んでくれる人に貸すのと、そうで無いのとでは全く違います。』

『失礼なのですが、家賃はどの位になりますか。』と谷川さんが聞いた。

『二十万と言いたいところだが、最初はいろいろ大変でしょうから十五万で結構です。』

『え。』と今度は私が言った。豆屋の物件だって、東京で十坪十五万と言うのはざらにある。

ただと田辺さんは言った。『契約の更新は三年ごとに行います。次の更新が三年後に来ると思います。その時仕事が上手く行っていれば二十万円にしてもらいます。これは契約書にも書かせて貰います。』

谷川さんが間髪を入れずに、『それでお願いします。』と言った。
 
田辺さんは『契約は今言った通りに三年契約で行います。敷金は五か月分、礼金が一か月、不動産屋は入れないので、不動産手数料はかかりません。あと前家賃が一か月と、書類の作成に司法書士を入れますので、その手数料が私と谷川さん半々で掛かります。この費用に付いては契約の当日に分かる様にしておきますが、それで良いですか。』
 
『大丈夫です。』と谷川さんは言った。
 
正式な契約は一週間後という事になった。場所は又この役場をお借りしてという事になった。今週中に田辺さんは司法書士に頼み、契約書類を作成するという事だった。
 
こちらは保証人と保証人の印鑑証明、住民票、ご自身の印鑑証明と住民票、預金通帳、と実印が必要で、契約金は当日現金でお持ちします。という事で話はまとまった。田辺さんは帰り、私達は未由ちゃんにお礼を言って日産デイズに乗った。

『もう一度、あの物件を観て良いですか。』と谷川さんが言った。
『うん。』と私は言った。日産デイズをさっきの物件の前に止め、谷川さんはいつまでもその建物と景色を見つめていた。

第9話終わり 第10話に続く

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