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1. 舞台は水族館か? 2. 数えられてもダンスか? 3. 舞台はどこに行ったのか? 4. 見えないものがすべてなのか?:スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』評

批評 東京はるかに

 舞台は水族館か? と問うてみればふつう答えはNOに決まっています。舞台は水族館ではありません。逆に、水族館は舞台か? という問いは一考に値するでしょう。
 それでは、なぜわたしはこんな問いから書き始めてしまったのでしょうか。答えはもちろん、スペースノットブランクの舞台『ストリート リプレイ ミュージック バランス』が水族館だからです。

 まず確認しておかなければならないのは、この『ストンス』にはすでに二つの批評が書かれているということです。
①佐々木敦「知覚の限定と振り付けの生成」
②松本奈々子 西本健吾/チーム・チープロ「ずっと気持ちがいい、それはどのような?――スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』」
 前者は、観る者と観られる者がともに在る、劇場という非対称な空間が、見せること、見せずにおくことを通して再編されてゆく様を捉えるものです。そして後者は、『ストンス』を観ることの身体的な快自体を、観客に対するある種の振付において生じてくるものとした上で、出演者の身体の表面に産み出される運動が、空間や観客を巻き込んでいく様を捉えるものです。
 ところで、佐々木さんの批評は、「私のこのテクストに求められているのは、作品の前提の確認でもダンスにまつわる教養や蘊蓄でもないだろう。また、四つのフェーズがどのようにしてクラスたり得ているかの分析や考察でもないだろう」という認識に発するものです。それなら、スペースノットブランクの保存記録を務めるわたしに求められているのは、「四つのフェーズがどのようにしてクラスたり得ているかの分析や考察」を果たすという、このほとんど野暮な仕事の方でしょう。
 そこで、この批評では、『ストリート リプレイ ミュージック バランス』の展開をひととおり追いかけ、作品名に並べられたこれら4フェーズがどのような層=クラスを折り重ねていたのかを確認しながら、その水族館ぶりをお伝えしていきます。

 断りなく「フェーズ」とか「クラス」といった言葉を引用・使用してしまいました。これはスペースノットブランク自らの言葉遣いです。

スペースノットブランクが2019年よりリサーチと上演を連続して行ってきた、ダンスと作品、そして作品とメソッド、それらのどちらともつかない性質を保有する『フィジカル・カタルシス』。2020年8月の上演以降、そこに内包される「段階(フェーズ)」たちは独立することでより集中的な探究が施されてきた。ふたたび「段階」たちがゆっくりと重なり、そろそろ「層(クラス)」を成したいとしている。

『ストリート リプレイ ミュージック バランス』公演チラシより

 『フィジカル・カタルシス』に内包されるフェーズを独立させてきたというのは、2021年3月に『バランス』、同年9月に『ストリート』、同年同月および12月に『サイクル』、そして2022年3月に『オブジェクト』と、単一フェーズからなる上演が続いていることを指しています(なお、体調を崩したわたしは鑑賞できていませんが、2020年8月より前にも、2019年末に『フォーム』を単独で探求するワークショップならびに上演が行われています)。
 まだここに名前の挙げられていない「ジャンプ」「トレース」をあわせて、現状合計9つのフェーズからなる『フィジカル・カタルシス』。そのうち4つのフェーズを取り出して重ね合わせ、クラスを成すのが『ストンス』だというわけです。そして、この文章の目的の一つは、そのクラスの組成を明らかにすることにあります。

1. ストリート(ダンスを水族館にする)

 『ストンス』を水族館にたとえたのは僕の独創ではなくて、2021年夏に行われた『ストリート』アフタートークでの、演出者中澤陽さんの発言をそのまま持ってきています。僕たちは水族館に行くのが好きだから、スペースノットブランクの舞台も水族館みたいなものになっている、と。もしかしたら記憶違いかもしれず、動物園だったりビオトープだったりしたかもしれませんが、ここではもはや水族館で行くしかないので、それで行きます。
 俗に「第四の壁」といわれる壁があります。目の前にいる観客に俳優が気付かないのはおかしい、それなら見えない壁が舞台と客席の間にあることにしよう、という理屈で要請される壁です。でも、「第四の壁」にもいろいろ種類はあるはずです。
 水族館の魚と観客の間にも見えない壁が存在しているわけですが、これは単に透明なだけで、実際に存在している壁です。というか、ほんとうは見えないわけでもありません。透明なので「第四の壁」にふつう求められるはずの遮蔽機能さえなく、壁の中のパフォーマー=魚たちは気が向けば人間たちに視線を返すこともできます。
 しかし、基本的には魚たちは人間には無頓着に見えます。これは、人間が自負しているほどには、魚にとって観客というのはたいして重要な存在ではないのであって、魚は魚で自分の世界を生きているから、ということです。そういう、自然のもつ当たり前のつめたさに直面することが水族館の魅力の一つだと思います。しかし、壁のむこうの人間たちもやはり魚たちの世界を構成してはいるし、もしその壁がなくなって境目がなくなったら、大変なことになって、魚たちと人間たちは互いに強く注意を向けあうでしょう。
 そして、スペースノットブランクの舞台が客席との間に設けている仕切りは、どちらかといえば水族館の壁寄りの「第四の壁」であるようです。
 その証拠に、

この通り、『ストンス』の出演者たちは、水族館の水槽の中にいそうな服で踊っています。
 もっとも、さきほど「人間が自負しているほどには、魚にとって観客というのはたいして重要な存在ではない」なんて書きましたけれど、スペースノットブランクは魚ではないので、観客のことをどう思っているのかはわかりません。それでも、『ストンス』の出演者たちが水槽の中の魚のような仕方で空間を泳いでいるのは確かです。

あくまで私の印象ではあるが、最初と最後を除くと、SRMB〔引用者註:ストンスの別の略し方〕では「観客席に相対する正面性」が解除されていると思った。通常、パフォーマーは観客の視線の正面に――絶えず移動するとしても――基本的に定位している。また、同様に背景に対してもそれが背景を成しているという意識が働いている。つまり空間のフレームへの配慮が必然的に生じるのだが、SRMBの三人のダンサーは、すごく乱暴に言ってしまうと、観客の目の前で何かをやってみせるという感じがかなり希薄で、さまざまな角度や向きで、ただそれをやっている、という感じに見えたのである。

佐々木敦「知覚の限定と振付の生成」

 佐々木さんは『ストンス』が観客に対する正面性を回避しつつ、背景やフレームといった空間の枠組みをも突き崩していることを指摘します。後者の論点については、チーム・チープロの批評でも同様の指摘が行われています。

この上演を観て評者のふたりはそれぞれアンリ・マティスとジョルジュ・ブラックの絵画を思い出していた。正確にはそれらの絵画を鑑賞したときの感覚を想起していた。〔…〕上演空間の奥にみえていたものを前景化させたり、手前にあったものを後景に退かせたりする。動きを遮る壁を透明にして、その向こうにある動きを想像する。そうやって要素と要素を目で関係させながらその舞台の空間(のリズム)をわたしたち自身で再構成するという感覚がそれらの絵画を鑑賞するときの感覚に近しいと感じさせたのだと思う。

松本奈々子 西本健吾/チーム・チープロ「ずっと気持ちがいい、それはどのような?」

「動きを遮る壁」とあるのは、上の写真でも確認できるかと思いますが、『ストンス』が上演されたカフェムリウイのアクティング・エリアは室内とテラスをともに含んでいて、両者を壁が阻んでいることを言ったものです。そして、普通なら屋外での演技は壁の窓越しに見える範囲にとどめそうなものですが、『ストンス』のパフォーマンスは見えないところでも平気で展開されるのです。ここでは、不透明で厚みをもち、ただフェノミナルに(つまり主体におけるエフェクトとして)のみ透明化するカフェムリウイの壁が、『ストンス』の水族館的舞踊空間をつくりだすのに一役買っていたわけです。
 奥にあるはずの身体や風景が前方にせり出してくるような錯覚、あるいは目の前に確かに存在するはずの壁を目が通り抜けていくかのような錯覚、そうしたある種絵画的な効果は、観客の目に見える空間を組織し直します。
 言うまでもなく、『ストンス』の舞台が水族館のようだと言う時にわたしが言いたいのは、単に出演者が観客を時々無視して見えるとかいったことではありません。この時生じるのは、目の前の出演者たちは、わたしたちの目の前にいるという空間的事実を軽やかに離れ、つまり、まったく別の時空間に所属しているのではないかと観客に感じさせる、そうした知覚上の効果なのです。

 さて、問題にしたいのは、正面性の解除という佐々木さんの指摘です。ここでわたしは、『ストンス』ではむしろ例外的に正面性のもつ重要性が高められていたのであり、強調すべきはむしろそのことの方だと、主張してみたいのです。それが最もはっきりするのが、パフォーマンス序盤に設けられた「ストリート」のシークエンスです。

 2021年9月の『ストリート』について論じたことをまとめ直します。出演者たちは、富士見市民文化会館 キラリふじみのほぼ全域を踊りながら渡り歩きます。アクティング・エリアは建物のロビー部分や廊下、あるいは外部など、上演用の空間として囲い込まれていない場所にも及ぶのです。そのため、客席は局所化されません。出演者についていきながら、絶えずポジションを選び直していく観客たちの振る舞いは、周囲からは奇怪なものと映る他なく、また、パフォーマンスを予約していない、偶然鉢合わせた歩行者も上演を鑑賞できたために、出演者と観客とそれ以外の歩行者の境界がゆるんでは引かれなおし、ひいては、上演空間として名指された場とその外部もが地続きの物として扱われることになりました。前進運動をベースに構成されたその動きは、やろうと思えばそのままどんなストリートにだっていつまでだって歩いて行けそうです(実際、2022年10月には大阪各地のストリートで『ストリート』が上演されます)。
 つまり、本来「ストリート」はそのへんの道で上演されるべきなのです。カフェムリウイは、①上演が行われるための場所としてあらかじめ囲い込まれていること②方形の空間であって、道ではないこと③結果として演者と観客とが空間的にあらかじめ分節されており、④きわめて歩きまわりづらいこと、という四点において「ストリート」には不向きなはずです。
 ④について補足しますと、方形の狭い空間では前進すればすぐ壁にぶち当たることになるし、かといって空間をくるくる周遊ばかりしていても画的に退屈になるからでしょうが、『ストンス』版「ストリート」では、歩行の要素は薄められているのです。
 したがって『ストンス』では、この劇場をいかに街路へと変貌させることができるか、そういう空間の質の操作が「ストリート」の主要素となり、前進運動や出演者/観客/歩行者の攪乱といった要素はむしろ後景へ退くこととなります。『ストンス』の「ストリート」フェーズにおいて、劇場は回遊空間として再定義されなければならないのであり、そしてこれを可能にするのが、これまで論じてきたような、水族館的空間枠組みだと言えるでしょう。しかし、単に動き回っているだけでは、移動をダンスとして呈示しているのだと言って、再び既成の劇場的空間枠組みに身振りは回収されていくはずです。劇場を道とするとは、観客に何かを見せる場として定義された空間枠組みをデコードして、これを移動の場とすることに他なりません。
 『ストンス』の「ストリート」はやけに客席の方を向いて遂行され、強い正面性を示します。室内で3人で「ストリート」を踊るところなどは、非常に狭いので動き回る度合いも減り、正面性はさらに強調されます。しかし、先にも述べました通り、出演者は平気で壁に隠れて踊るわけですから、この正面性は、単に観客にとっての見えをクリアにするものと解釈することはできません。ここでは、観客が観ているという事態はほとんど問題ではないのです。そうではなくて、アクティングエリアと客席という、二つの空間が、向かい合うようにしてあらかじめ分節化されているために、そのような空間の特性を無視せずに歩くのなら、自然と身体は客席を向くことになる。『ストンス』のストリートが呈示した正面性とはそのような質のものです。劇場を街路として歩くとは、おそらくこういうことです。
 しかしこのことは観客に緩やかな衝撃を起こすでしょう。水槽の中の魚の目がこちらを向いて、相手の世界に自分が実は含まれているかもしれないのだと知るときの、あの驚きを思い出してください。

 なお、『ストンス』において、舞台の内外の時空間を接続させるという「ストリート」の問題意識が希薄化したことに先ほど言及しましたが、これは空間的にはそうであっても、時間的には偽りであると認めざるを得ません。
 特異な上演スケジュールがその証拠です。本番は2022年7月24,29,30,31日に行われています。公演期間における割合からして、4日間の休演日は異様に長いですが、それよりも重要なのは、初日の24日の上演直前に、公開リハーサルが行われていることです。これはスペースノットブランクとしてはおそらく初の試みではないでしょうか。
 つまり『ストンス』は、リハーサルの時点で観客を設けて上演を行えるような作品性格を兼ね備えているのであり、しかもそれは、従来のスペースノットブランクの他作品にはない特徴なのです。
 この点でも『ストンス』は「ストリート」の延長にあると言えます。というのも、路上で上演される『ストリート』の稽古は路上で行われる他なく、本番として定義された時間以前から、2021年版『ストリート』は道行く歩行者を巻き込んで歩まれているはずだからです。
 ちなみに、上演リハーサルはきわめてゆるい雰囲気で行われ、スペースノットブランクの演出だったかどうかはわかりませんが、最中にヤマト運輸の配達員が荷物を引っ提げて舞台に顔を覗かせるほどでした。もしも仕組まれた演出ではないのなら(実際、意図せぬ偶然に見えました)、『ストンス』の舞台は外の街路にさえ期せずして接続されてしまったことになります。

2. リプレイ(ダンスを数列にする)

 ところで、ここまで「踊り」や「ダンス」という言葉と、「身振り」という言葉をそれ程区別なく用いてきました。スペースノットブランクのダンスには、ダンスよりもなにか純粋な行為を指して「身振り」と言いたくなるようなところがあるからですが、しかし、ここにあるニュアンスの差異とは何でしょうか。
 もちろん、それらが既成のダンスのボキャブラリーに登録されていないことや、自然と不自然のあわいをさぐるような独自の速度感、そこから帰結する身体の物質感も、「身振り」ということのニュアンスには含まれているのでしょうけれども、ここでは、スペースノットブランクのダンスが通常音楽を用いないことに着目してみましょう。始点と終点が決定されていて、その枠組みの中で一定の構成やリズムを持つ音楽。それに身体を添わせていくとき、ダンスにもまた全体性や構成の観念が生じます。しかし、スペースノットブランクのダンスの連なりには、そのような完結性が認められないのです。
 決して即興ではないはずの緻密に構築された動作にもかかわらず、それはその場で生成されているように見えさえします。観客の予測を裏切る、というよりも、そもそも予測というものが成立しない組み立てられ方をしているのです。あらかじめシークエンスの全体性を確保して構成された身振りではない以上、その原理とは継起、すなわち次から次へ、のみです。身体をさまざまな身振りたちが通過していく様はどこか都会の雑踏のようです。
 目の前に展開される行いを具体的な文脈に位置づけることができないとき、それは単にいくつもの動作を順々に遂行しているように、つまり身振りの上演であるかのように、目に映ります。

 さて、では、このようにいくつも脈絡のない動きが続いて行く時に、出演者はそれをどのように整理し、記憶しているのでしょうか? ひたすら動作を反復して練習して、身体に記憶させるということはもちろんあると思いますが、それにしても、スペースノットブランクのダンスはあまりに覚えづらそうなのです。
 『ストンス』ではその記憶術が明らかにされているように思われます。
 というのも、あるシーンで、小野彩加さんがいくつかの動きのフレーズを繰り出すたびに1、2,3,4、とカウントを行うからです。さらにリハーサルでの「ストリート1やろ!」との発言からは、それぞれのシーンが個々のフェーズに具体的に紐づけられたうえで、それが数字によって分節化されていることがわかります。
 突然ですが、今から30秒以内に次の数列をすべて記憶してください。


119246491878237564


18個の数字が並んでいるので、一見大変そうですが、おそらく簡単に記憶できたのではないでしょうか? というのも、これは①「1192いいくに(つくろう鎌倉幕府)」②「4649夜露死苦」③「18782嫌な奴」④「37564皆殺し」という、有名な暴力系語呂合わせの数字を順に並べたものだからです。これに気づけば、18個の数字は、4つのフレーズに分解され、覚えやすくなります。ここで行われている作業は、「チャンク化」と呼ばれるものです。脈絡なく無数に並んでいる情報にまとまりを持たせ、いくつかのフレーズ=チャンクに分解することで、記憶を容易にするのです。
 おそらく、スペースノットブランクの稽古場で行われているのも似たような作業ではないかと思われます。小野さんのカウントは、数列のように脈絡なく、次から次へと配列された身振りをチャンク化して身体にインプットし、容易にされた動きの発動のシステムの、種を明かすものです。

 このチャンク化は、単なる記憶術であるに留まりません。というのも、それはダンスを数列的に扱う操作だからです。
 思い返せば、一定期間の間、毎日一つずつ動きをつくり、それを順々にまとめて上演する「サイクル」とは、この数列化という方法を主題化し、ダンスという数列を一日一日の歩みにプロットしていくフェーズだと言えます。
 ダンスが数列になるとき、編集が容易になります。たとえば先ほどの数列からは、チャンクを並び替えるだけで、即座に次の24通りのバリエーションを導き出すことができます。

119246491878237564
119246493756418782
119218782464937564
119237564464918782
119218782375644649
119237564187824649
187821192464937564
187821192375644649
187824649119237564
187823756411924649
187824649375641192
187823756446491192
464911921878237564
464911923756418782
464918782119237564
464937564119218782
464918782375641192
464937564187821192
375644649187821192
375644649119218782
375641878246491192
375641192464918782
375641878211924649
375641192187824649

チャンク化されたダンスは、上演の時空間のいつ・どこにでも並び替えて配置することができます。複雑に変型させたり、重ね合わせることも容易です。逆に、考案された順序に即して身振りを完遂していく「サイクル」とは、編集的な視点を加えずに、所与の数列を受け入れて上演する試みだと言えます。
 お気づきの通り、ダンスを数列化することで可能になる、重ねあわせの操作こそが、いくつものフェーズを層状に重ねてクラスとする『ストンス』の核心です。そして、この重ね合わせを行う、いわば『ストンス』のメタ・フェーズとして遂行されているのが「リプレイ」です。「ストリート」「ミュージック」「バランス」の各フェーズにおいて振る舞われるダンスは、「リプレイ」の原理において別フェーズに移行され、再演されて、複数のフェーズは、同時に層状に上演されるに至るのです。

 いまわたしは「再演されて」と書きましたが、これは不正確な言い方になります。再演という時、まず初演があり、その後で再演が行われているというのが普通です。つまり再演という言葉はすでに時間的順序を内包しているのです。
 しかし、先に確認した通り、数列化されたダンスはどこにでも配置できるのでした。だから、上演終盤の「ミュージック」のダンスが、あろうことか上演冒頭で、しかも開演の挨拶以前に「リプレイ」されるのは、むしろ自然なことです。ここでは再演の「再」の意味は失効します。ダンスがチャンク化され数列化される時、それは現実の時空間から遊離していくのです。
 ところで、スペースノットブランクの舞台について、テクノロジーをクリエーションに組み込んだハイテク舞台だという評言を、わたしはいくつか個人的に耳にしています。実際、ダンスをデジタル化し、数列化する上記の操作は、コンピューターの媒介を意識させるものです。もちろん、スペースノットブランクが『ストンス』をつくるにあたってコンピューターを利用しているかは定かではない(し、おそらく実際使用していない)とはいえ、ダンスを書き込み、変形させる操作盤のようなものがどこかにあるのではないかと思わされるのは確かなのです。
 実際、スペースノットブランクのクリエーションを貫通する核心は、この仮想的な操作盤の存在にあります。ダンスは上演の時空間を離れて、観客の目が決して届くことのない、ヴァーチャルな操作平面において展開されていくのです。
 お気づきの通り、「『ストリート リプレイ ミュージック バランス』の展開をひととおり追いかけ」と書いておきながら、この文章も上演の展開を時系列順に追うものにはなっていません(展開のすべてを追うことも実は初めから放棄しています)。それは『ストンス』を時系列に沿って追うことがむしろ不自然だからであり、そして、このWebメディアnoteの仕様が近頃変更されて、まるでパズルのピースのように、段落をドロップして簡単に並び替えられるようになっているからです。この批評は、いくつかの内容をブロック状に散漫に並べた後、しかるべき順序に再構成し、その間を補うような仕方で書かれています。

 ダンスが数列的に扱われ、可算的な対象となるとき、それは身体を離れた抽象的な動きに還元されて、時空間に定位しえなくなります。つまり数のようになるわけですが、その時、これを果たしてダンスと呼ぶことはできるのか? という問題が生じてきます。これだけデジタルな単位に還元された身振りが、はたして美的な質を放射できるのかということです。
 佐々木さんの批評

ダンサーがそこ/ここにいる。観客も同じ時と場にいる。そこに「舞」と呼べる状態が訪れるには、何が必要十分条件なのか、そしていまだ認識されていない条件があるとしたら、それは何か?

佐々木敦「知覚の限定と振付の生成」

とあるのは、このあたりの緊張を言ったものでしょう。もちろんこれは論理で応えられる問題ではないし、佐々木さんとチーム・チープロの手による批評はこのことにすでに答えを出されているように思いますから、ここで深く立ち入ることはしません。ただ、一足飛びにわたしなりの結論だけを述べておけば、抽象化され仮想平面に移動したかのような身振りが、ふたたび出演者の身体に受肉され、鑑賞者の眼前に現れるとき、主体の内部にエフェクトとして生じてくるもののことを、どうやらスペースノットブランクはダンスと呼んでいるのではないかと思われます。
 ちなみに、『ストンス』の次にスペースノットブランクが創るのは劇作家の松原俊太郎さんとの共作『再生数』ですが、題の中に数という言葉が混入していることからも窺い知れるように、ここでも量から質への飛躍という問題構成は継続するでしょう。

 整理しましょう。脈絡なく次々と遂行されていく『ストンス』の身振りは、それぞれを一定のまとまりに区分けし、つまりチャンク化して、それぞれに数字を割り振ることで記憶され、編集されるものでした。つまりここではダンスが数列と同様な操作対象として扱われており、それが複数のフェーズを層状に重ねるという、『ストンス』の基礎原理である「リプレイ」フェーズを成立させているのです。
 もちろん、個々のフェーズはそのフェーズにおいて生み出された動きそれ自体を指すのではありませんから、ある時点でのある身体の動きが、同時に複数のフェーズに跨っていると見ることもできます。しかし、「ストリート」の項で確認し、そしてここからも論じていくように、「リプレイ」以外のフェーズはそれぞれ作中の特定のシークエンスと強く紐づけられています。それをデコードし、他フェーズに同時に跨るものとして鑑賞することを促すのは、やはり「リプレイ」の原理だと考えられます。
 さて、数列のようにデジタルで、上演の時空間に自在に配置できる対象としてダンスが扱われる時、逆説的にも、それは実際の上演の時空間を離れて、これを操作し変形するための仮想的な操作盤へと移行し、「リプレイ=再生」の意味自体がデコードされます。ここで「操作盤」が紙やスクリーンといった具体的な平面として存在しているかどうかは問題ではありません。
 結果、いま・ここの時空間に帰属しない、なにか独特の秩序を持つ別の空間があって、それが強引にこちらに転写されたかのように上演は遂行されます。前節で論じた水族館的舞踊空間はこの見方を補強します。魚を見るときのように、観客は、この人たちは違う世界を生きていると直観するのです。
 『ストンス』の出演者たちが別の時空間を生きていた証拠が他にもあります。毎回、4回開演しているのです。

3. ミュージック(ダンスを見失う)

 1回目の開演時点は、最初に中澤さんが踊る、ミュージックのリプレイです。2回目は、そのすぐ後に続く開演の挨拶です。3回目は、そのすぐ後に続く開演の挨拶です。4回目は、そのすぐ後に続く開演の挨拶です。
 開演の挨拶が3回あるのです。ここからの3,4節では、これらの開演挨拶について論じます。

 1、2回目の開演挨拶は、同じシーンに属しています。
 中澤さんがヘッドホンを装着し、喋りはじめます。当日配布されたパンフレットに書かれたテキストや、上演の諸注意を話しているのですが、「それでは開演します」の言葉は二度発話されます。一度目は、ヘッドホンをつけて話している最中。しかし中澤さんはその後も喋りつづけ、ようやく話し終えると、ヘッドホンを外し、「それでは開演します」と言って、挨拶を締めくくるのです。
 開演の挨拶が反復されること自体の意味はすでにおおよそ明らかでしょうが、二つの「それでは開演します」が持つ性格の違いにはここで言及せねばなりません。というのも、一つ目の「それでは開演します」はヘッドホンをつけながら発されるので、事前に録音された言葉に即して、中澤さんが言わされているものとして受け取られます。
 録音されている以上は、上演に先行して「それでは開演します」が発されていることになりますが、その様子を想像して文字通りに解釈すれば、本番前から開演していることになります。ここには、1,2節で論じてきたような時空間観がすでに顔を覗かせていますが、とりわけ重要なのは、観客にはその録音された音声を聞くことができないという事実です。
 観客は、「それでは開演します」を過去に発話したのが中澤さん自身か、それとも他の誰かなのか、そしてそれはいつどこで発話されたのか、を確定できないばかりではなく、そもそもそれは本当に録音されていたのか、本当に過去に発話されていたのかどうかさえ、決して知ることができないのです。
 こうして開演の挨拶は、存在していたかさえ定かではない、仮想的な過去へと送り込まれます

 わたしにとって、「ミュージック」は最も不可解なフェーズです。これまで観た『フィジカル・カタルシス』中の「ミュージック」は、出演者が歌を歌うのが大半で、既成の楽曲の場合もあれば自作の場合もあります。しかし、何を企図した表現かが、明らかでないのです。歌声はダンサブルでも歌う身振りはそうではなく、行われるのはいたって普通の歌唱行為なことが多いので、そもそも従来の「ミュージック」はダンスなのかどうかさえ定かではありません。
 いくつかの解釈が可能です。①音楽を聴いてノッてしまう、観客の身体自体のダンスに注意を向けている。②ダンスと音楽という複数のカテゴリで同時に解釈可能な行為を行い、観客の認識を分裂させている。③上演において一般に副次的な部分とされる音楽を主要素に据えることで、ダンスについての既成の鑑賞枠組みを転覆させている。など。
 ところが、『ストンス』の「ミュージック」は歌わないのです。そして、代わりに為された実験が、このフェーズにまったく新しい意味を付与します。
 『ストンス』中で、「ミュージック」のフェーズに属するものとして論じられそうなのは次の三種のシーンです。①ストォレ・クレイベリーさんの楽曲”Ashes(Aske)”を流してのダンス②ヘッドホンを装着した中澤さんの開演の挨拶③音楽ガジェットArtiphon ORBAを用いたダンス。
 ①は、ダンス作品で音楽を使用することの稀なスペースノットブランクにあっては特筆するに値します。②はヘッドホンという音声デバイスを用いている以上「ミュージック」の枠組みで扱うことができるはずです(もちろん「リプレイ」の要素も強いです)。
 ここから扱いたいのは③のダンスです。

 ORBAは片手で持てるほど小型の、振ったりタップしたりと直感的な操作で使用できる音声デバイスで、シンセサイザー、ルーパー、スピーカー、コントローラーの機能を一台で兼ねています。作曲、録音、出力といった操作がこれ一台で簡単にできるということです。
 開演挨拶が一通り終わると、山口静さんがヘッドホンをつけて、舞台中央に立ちます。中澤さんがORBAを用いてさまざまな効果音を鳴らすと、山口さんはそれぞれの音に対応した身振りを発動します。ここでは開演挨拶の際の中澤さんと同様、音の命ずるままに動きを繰り出す身体が呈示されています。どこか機械仕掛けのようにも見えます。
 しかし、どの音をどのタイミングで鳴らすかは中澤さんがその場で決定しているらしく、山口さんがどれだけすばやく反応しようとも、その身振りは鳴らされた音に対して遅れてしまいます。ここにあるのは、固有のディレイを発生させる、生きた媒体としての身体です。
 上演の終盤部でも同じことが繰り返されるのですが、いくつかの変化が生じます。ただ、あらかじめ白状すると、ここで起きていることはあまりにも複雑なので、わたしには把握しきれていません。以下の記述はわたしなりにごく単純化した描写になりますが、それでも不正確な点があるかもしれません。

 まず、音源の出力が複数化されます。音の発生源は劇場に備え付けられたスピーカー、スペースノットブランクが持ち込んだと思われるPC、ORBA本体、そしてヘッドホンです(おそらく)。
 クレイベリーさんの曲が劇場のスピーカーから鳴っている中、中澤さんはふたたびORBAを使って、山口さんの身体に振付を施します。ところが、やがて山口さんのヘッドホンは取り外されます。いつのまにかクレイベリーさんの”Ashes(Aske)”は止んでいます。山口さんは一つの身振りを幾度も反復するようになるのですが、その動きは、ORBAから出力されている音に対応していません。
 ここで、ORBAのサウンドは、出力源が推移して変換されてゆき、同時に鳴り響くに至っていたはずなのですが、記憶が曖昧なわたしは、この点に立ち止まって分析する資格を持ちません。
 わたしがここで問題にできるのは、聴かれる音と想像される音の間の落差です。山口さんがヘッドホンを外すまで、観客たちは、いま聴いている音は山口さんへのある種の振付指示であると想像し、認識しています。ところが、その認識は裏切られます。音と身体の結びつきが切断され、デコードされるのです。
 この時、ORBAのサウンドは、身体を離れて、それ自体として宙に浮かぶような独自の物質的な手触りを手にします。逆に、動き続ける山口さんの身体は、山口さんの内側で響いている、わたしたちには決して聞くことのできない音楽の存在を意識させます。そしてこの想念に捉われるとき、山口さんの身振りを観ることは、山口さんの身体に流れる音楽を聴くことでもあり、鑑賞行為は観ることと聴くことの二つの系列に分裂します。
 やがて、山口さんの身振りは足を大きく踏み出すようなものに移行していきます。あらかじめ定められたデジタルな動作が音とともに反復され、情報量の過剰を空間中に充満させていった結果、そんな情報の海から身体が浮き立ち、現れてくる、そんな様を捉えて、「舞」の発生を踊るかのような、印象的なシーンです。

 しかし、話を戻しましょう。問われなければならないのは、次のことです。山口さんがヘッドホンを外した結果、その身振りは観客たちが聴いていたORBAの音と対応してはいないことが分かりました。それでは山口さんはヘッドホンで何を聞いていたのか? それまでわたしたちは何を聴いていたのか? ヘッドホンを外してから、同じ身振りを反復する山口さんは、なにを聴いているのか?
 これは答えようのないパズルです。ここで焦点化されているのは、ヘッドホンや身体というデバイスに内在する、媒介の不確定性です。この不確定性は、音に常に遅れを伴って反応する山口さんの身体に、すでにその一端を示されていました。
 媒介される前の、起源としての音には、観客が決して到達しえないということが、重要です。ORBAを使用したシークエンスの問題構成は、ここにおいて冒頭の中澤さんの開演挨拶のそれに合流します。聴かれるべき音はいま・ここにはなくて、それを媒介し変形させる身体だけがあります。聴こえない音を聴き、観る。それがダンスとなるのです。『ストンス』の「ミュージック」フェーズが対象化するのは、経験される音とその彼岸で鳴り響いている音の、このような分裂です。
 『ストンス』と同じカフェムリウイで上演された『舞台らしきモニュメント』の批評や、それに続く『クローズド・サークル』の批評でも、上演されている事柄と、観客の経験の間に意図的に設けられた構造的な情報の落差をわたしは問題にしています。
 スペースノットブランクのつくる舞台は、しばしば、解かれることを期待していないパズルとして仕組まれます。観客には解法はけっして明かされないまま、ただ、それがパズルであったということだけが示されるのですが、その時観客は、自分たちの経験の彼岸に舞台が立ち上がるのを、その確立の感触だけを、経験することになるのです。しかしその経験は、それまでのわたしたちの経験を根底から揺さぶります。見えているのとは別の世界が、見えているその世界のなかに含まれているのを知るときに経験される、あの特異なリアリティを問題にしながら、それでもその「いま・ここ」を捨象せず引き受ける点で、スペースノットブランクはきわめて正当な意味でリアリズムの作家と呼べるように思われます。
 おそらく、舞台をパズルにするという、スペースノットブランクの奇怪ないたずらは、今に始まることではありません。というのも、同種のパズルは、たとえば2019年に上演された『緑のカラー』にも仕組まれているからです。
 『緑のカラー』の上演途中、出演者の近藤千紘さんは台詞を間違えて、「あ、噛んじゃった」と素早く弁解するのですが、それがあまりに素早く、台詞然として流暢で、狙いすましたかのようなので、これは実際もともと用意されていた台詞なのではないかと疑われます。そもそも、舞台上で「あ、噛んじゃった」と俳優が発話するというのは、かなり不自然な感じがします。
 しかし、わざわざ噛んで「あ、噛んじゃった」という必然性も無いと言えば無いわけで、ここで観客は、近藤さんがほんとうに噛んだのか、噛んでいないのか、不確定な状態に置かれるわけです。
 重要なのは、このような疑いを持たず、ほんとうに噛んじゃったのだろうと考える人も、観客によってはいるだろうということです。
 スペースノットブランクの上演テクストはもっぱら稽古場での出演者の発話を素材としているので、この場合でも問題となるのは起源としての過去の不可知性です。「あ、噛んじゃった」は稽古場において発話されているのか、どうか?
 2019年の『緑のカラー』の時点では、スペースノットブランクは観客にパズルの解を与えています。上演後に500円で販売された上演テクストを購入すると、これはやはり用意された台詞であると、明らかになるのです。

4. バランス(ダンスはここに生まれる)

 「バランス」フェーズについては、過去のわたしの整理を引用して説明に代えたいと思います。

「BALANCE」の制作原理をごく簡単に単純化してまとめれば次のようなものです。一方の出演者が相手の出演者の挙動を別の動きへと変換し、この翻案された動きを今度は相手が翻案し返す。このことで生まれていく動きの連続の無数のパターンから舞台は構成されています(生まれてきた動きを相手に模倣させることで身体的特性のズレを際立たせるような振付も見られ、実際の原理はより複雑です)。
〔…〕この制作過程で為される変換のロジックは多彩で、個々の動きはそれぞれの演者の身体言語を通過して出力されます。水平方向のエネルギーを垂直方向のそれへと変換したりであるとか、ある体のパーツが描いた軌跡を別のパーツでなぞるようにしたりであるとか、そういう風にこの変換の内実を単純化して言語的に列挙していくことは可能ですが、しかしそれは『バランス』という作品の性格を解明するうえではむしろ遠回りな作業です。なぜなら、これらの変換の論理が観客の解読を誘いながら拒むその読解不能性にこそ『バランス』の本髄があるからです。

スペースノットブランク「劇場三部作」② バランス評

 複数の身体の間で、動きを変換しながら手渡し合うことで「バランス」の身振りは作られます。ここにA,Bという二人の人間がいるとして、Aの最初の身振りをA1とすれば、それを受けてB1がつくられ、今度はそれを受けてA2が生まれ、、というように動きは生成されてゆきます。生成というのは、こうして作られる身振りにはどこか個人の思考や想像力を越えていくところがあるからです。こうして生まれたいくつかの身振りが、一続きに上演されます。AはA1→A2→A3→A4→…、BはB1→B2→B3→B4→…という風にです。ここでもダンスは数列的に操作されています。
 「バランス」の上演において、A1→A2→A3→A4→…とB1→B2→B3→B4→…は同時に踊られることが多く、したがって観客はこれらの動きを比較し、両者のあいだの関係を推測することができます。しかし、A1→B1→A2→B2→A3→B3→A4→B4→…という本来の順序を辿るわけではないので、この比較は必ず混乱をきたすことになります。さらに、出演者の身振りは淡々と矢継ぎ早に繰り出されるので、録画された映像を分析するならともかく、客席の人間がこの踊りの構造を読み切ることはほとんど不可能です。上の引用で、「変換の論理が観客の解読を誘いながら拒むその読解不能性にこそ『バランス』の本髄がある」と書いたのは、そのことです。

 『ストンス』の「バランス」フェーズにはまた別の読解し難さが織り込まれています。同フェーズは「リプレイ」の原理によって構成されているのです。小野さんがカウントを挟みながら踊るシーンがあると先に述べましたが、それはこの「バランス」フェーズでのことです。
 まずは第一段階。小野さんと中澤さんが横並びに立って、小野さんのカウントにあわせて、いくつかの身振りの連なりを発動していきます。
 これが終わると第二段階に移り、中澤さんに代わって山口さんが現れます。二人はターン制で動きを発動してゆきます。まず山口さんがいくつか動きを示して、小野さんはそれを見ています。今度は小野さんの番で、それが終わればまた山口さんが踊りだします。動きの韻を互いに踏み合っているわけで、100年後にもラップバトルがあるとしたら、それはこんなものじゃないかという気がします。
 重要なのは、小野さんの呈示する踊りが、第一段階の小野さんのそれと同じであることです。ここで、山口さんの次に小野さんが踊るという順序から、第一・第二段階に共通するこの小野さんの身振りは、山口さんから受け取ってつくられたものではないかとの推測が成立します。
 さらに第三段階では、小野さんと中澤さんが屋外のテラスエリアに移動して、窓の前に立ちます。それに向かい合うように、客席に背を向けて、山口さんは室内から窓の向こうの2人を見つめます。ここでもこれまでに踊られた身振りが反復されるので、第一段階の中澤さんの身振りさえ山口さんのそれを受けたものであった可能性が、改めて浮上します。
 もちろん、この時、小野さんと中澤さんの身体同士がいかなる関係を結んでいるのかは、曖昧になります。もしかしたら三すくみで身体の「バランス」がとられているかもしれませんし、あるいは、小野さん・中澤さんの間には関係性は敷かれていないかもしれません。わたしには、このパズルは解けていません。

 とはいえ、そもそもこの「バランス」の構造にも、「リプレイ」の構造にも、気づかない観客が実は大半だったのではないかと思います。小野さんは第一段階では客席の方を向いていた一方、第二段階では山口さんと向かい合うので、身体の向きが変更されていて、身振りの印象はそれだけでかなり大きく異なります。しかも、まず山口さんに対する小野さんと中澤さんの関係が先にあるという解釈が正しければ、最初の第一段階では身振りの起源としての山口さんの存在は隠されているわけで、第二段階で登場する山口さんを動きの発生源と解釈することは、きわめて困難なことです。正直に告白すれば、上記の構造をわたしが把握するに至ったのは、最終日の、三回目の鑑賞時点です。
 ここでは、実のところパズルのタネは明かされているわけですが、やはりそれは解くことができません。その素早さと情報量は、鑑賞者の理解の要領をほとんど確実に上回るからです。実は、ここで問題になっているのも、やはり身体というデバイスに内在する媒介の不確定性です。ただし、ここでの身体とは観客のそれを指しています

 中澤さんの開演の挨拶が終わると、小野さんがテラスから屋内に入ってきて、「念力暗転」の説明が始まります。
 わたしはこの念力暗転は舞台芸術史に残るきわめて重大な発明だと思っていますので、スペースノットブランクにはぜひ今後もこれを多用してもらいたいし、そうでなければ、共有知として、どうか他団体にも実践してもらいたく思っています。
 念力暗転とは、小野さんが合図をするのに気づいたら、観客の側が急いで目を閉じることを指しています。これにより、単に劇場の照明を落とすのでは得ることのできない、限りなく十全な闇で舞台を包むことができます。

この小野さんが両手を下げていくのに合わせて、観客は瞼を下ろします。

 しかし、念力暗転の面白みはもちろんこの嘘丸出しの名前の方にあります。観客は小野さんのお願いを裏切って、目を開き続けていることもできるのです。念力暗転が発動されるのは、踊りのさなかです。目を開けていれば、踊りを見続けられます。見続けたいのが人情です。そこで目を閉じるかどうかは個々の観客の選択にかかっているわけで、それは念力と呼ぶにはあまりに無力です。
 では、この念力はいかなる時に首尾よく発動されるのでしょうか? たとえば、お人好しで、正直で、人の言うことにはまず従ってみるような人は目を閉じて、ひねくれ者は目を開けるのでしょうか?
 もちろん、わたしには他の観客のことはわかりません。観客とは不確定性のことを言うのだと、わたしは信じているからです。しかし、ここまで長きにわたって論じてきたことを踏まえると、言えることが一つあります。『ストンス』が立ち上げているのは、時に目を閉じた方がよりよく目が研ぎ澄まされるような、そういう舞台のはずだということです。
 もちろん、眼前の踊りと、ここで問題にしている彼岸の踊りとに、いかなる価値の優劣があり得るかは定かではありません。目の開閉が、それ自体観客の理解度や倫理性を指し示すこともありません。しかし、念力暗転において観客のスタンスが問われ、『ストンス』も問われるのは確かなことです。こうして、新しい、解きようのないパズルが呈示されます。だから、この念力暗転とともに、『ストンス』の舞台はひとまずの終わりを迎えたのでした。

(写真:月館森さん)


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