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迷宮としてのテクスト:スペースノットブランク『クローズド・サークル』評

・『共有するビヘイビア』

 2021年11月に上演されたスペースノットブランクの『クローズド・サークル』は、『共有するビヘイビア』(以下、『ビヘイビア』)という題の一連の作品を土台としています。『ビヘイビア』は2018年1月にd-倉庫の「ダンスがみたい!新人シリーズ16」で、2019年1月に早稲田小劇場どらま館での「どらま館ショーケース2019」で上演されており、わたしは後者を鑑賞しました。
 小野彩加さん、古賀友樹さん、中澤陽さんが独特なリズムでおおむねダンスについての会話を淡々としかし内容としてはさんざん蛇行しながら進めていきます。ダンスは途中で実際に踊られます。テクストの内容がダンス一般そして目の前で踊られるダンスそれ自体へのコメントでもあるこの『ビヘイビア』は、ダンスとその説明が同時並行するトリシャ・ブラウンさんの『アキュムレーション』(1973)を想起させます。岡崎乾二郎さんはこれを「共存しえない複数の時間、運動系が一つの身体の上を行き交う。両立しえない複数の任務(マルチタスク)に主体を分裂させてしまう緻密な計画」と評しています[*1]。そこではダンサーとコレオグラファーの区別はもはや維持されません。
 しかしブラウンさんの『アキュムレーション』においてダンスと同時進行で為される注釈が演者の意識をテクストと身体の二つに分裂させ、そのようにして自身の意識を超え出ていくことに向けられていたのに対し、『ビヘイビア』にそのような性格は希薄です。というのも『ビヘイビア』では注釈を行うのは必ずしも踊っている当人とは限らないからです。では『ビヘイビア』では何が目指されていたのでしょうか?
 スペースノットブランクについてはしばしばそのテクストの特異性が取りざたされます。線型的な進行をせず、話題の切り替わりもあいまいかつめちゃくちゃで、しかもそれが稽古場での出演者の発話をベースに構成されているのです。なぜそのようなテクストになるのか? 作家による『ビヘイビア』のステートメントにはそのヒントがあります。

『共有するビヘイビア』は、私たちが恒常的に行っている舞台の制作手法を観客と共有し、生み出される舞台を世界へと共有します。行動としての制作を分解し、そこから生まれる舞台を観客と共有することで、観客が私たちの舞台を追体験しながらそこに実在する上演の時空間の一部を想像力によって担うこととなります。舞台が創造され、すべての点に於いて舞台が舞台であり続け、舞台が観客席を通過した先にも、舞台として共有され続けていくものとして、どのような変遷を辿ろうとするのかを探求します。

 劇場での鑑賞が「舞台を追体験」する行為であるなら、その上演に先んじて別の「舞台」が生じていたことになります。いずれ上演されるテクストが稽古場で出演者の口から生まれ出たその瞬間、そのビヘイビア自体が演出者の目で「舞台」として観られていたのであり、「すべての点に於いて舞台が舞台であり続け」るわけです。
 スペースノットブランクのテクストを真に特徴づけているのは、クリエーション過程で「上演」された「舞台」の副産物として、「観ること」の痕跡として編まれるという事実に他なりません。そしてこれは稽古場でのコミュニケーションをフェティッシュ化する内輪的な態度からも区別されるべきです。
 スペースノットブランクのテクストでは、言葉はねじまげられ、かたちを変えて舞台にもたらされます。この言葉の変型は演出者が「観ること」の帰結です。観られた舞台はそのままの仕方で保存されることはありません。必ず受け手の想像力による変型を蒙ります。当然のことですが、ふるまい(ビヘイビア)とは常に観客との「共犯関係」によって共有されるのであり、その意味で客席と舞台を切断する論理はすべて抽象なのです。演出とは一般に「観ること」を制作にフィードバックさせる作業ですが、この「観ること」を制作の始点とし、それに先行して上演に組み込まれることが決定されているテクストや身振りが存在しない点で、スペースノットブランクの演出を通常のそれと同一視することはできません(この問題については『ミライハ』の批評でも視点を変えて論じています)。
 しかし言葉の連なりにはねじまげられてなおその時その言葉をそのように発さなければならなかった意味上身体上の論理があり、その場でそれを見聞きした人間たちに保存されています。そして、その身体を通じてやってきた「舞台が観客席を通過」してゆきます。
 だから、ここで「舞台」と呼ばれている場所は、もはや時空間上の特定の点には位置付けられません。そして、こうした「舞台」の性格をわずかな特定の上演時間に凝縮して呈示する場合、テクストの進行はパイこね変換式の変型を経て折り畳まれた非線形なものとならざるをえません。
 ブラウンさんの『アキュムレーション』において分裂した主体はもはや自らの身体に目を向けません。一方でスペースノットブランクの上記の制作方法は、制作と鑑賞を同時に遂行し、後者の次元を前者に回収するものです。『ビヘイビア』では出演者の挙動に対して距離のある説明的な言葉が並べられます。「観ること」の作用を言葉に代理させているのです。同作を以降のスペースノットブランク作品から区別する特徴として、演出の小野さん中澤さん両名が出演していることが挙げられます。制作の現在における観る言葉、観る身体が上演の現在、観客にとっての「観ること」の現在に地続きのものとしてあったのでしょう。そこで為されているのは異質な二つの時空間の捩じれた縫合なのです。

・「同じレベルに引き上げる」

 さて、『クローズド・サークル』です。場所はトーキョーアーツアンドスペース本郷のスペースC。劇場というよりは展示を意識して作られた空間です。舞台には出演者の私物やyogiboなどが置かれて生活感のある空間が仮設されています。上手には演出の小野さんと中澤さんが長机を構えて座り、舞台をまなざしています。出演者は『ビヘイビア』に引き続き古賀さんと、それからスペースノットブランク作品初出演の鈴鹿通儀さんです。舞台上に終始姿を見せつつも、『クローズド・サークル』では演出の二人は出演者として自らの名前をクレジットしていません。

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 客席と舞台を隔てるように三台のテレビが並べられて眺めを遮蔽しています。実体化した「第四の壁」でしょうか。そこに、上演テクストが次々に表示されます。出演者はビジネスマンがプレゼンテーションでスライドを示すかのように、発話と同時に手に握ったリモコンを使ってテクストを進めていくのです。文字情報は発話のたびごとに切り替えられます。
 語られる内容は、出演者のそれぞれの家や飲食店での過ごし方や、出演者同士で抱いている印象、つまり、制作途中の日々についてのコメントです。『ビヘイビア』では踊りがその説明と同時に遂行されました。『クローズド・サークル』では生活が説明(プレゼンテーション)と同時に遂行(パフォーム)されます。
 発話内容と表示される文字情報の内容は基本的に一致しています。基本的にというのは、文字情報の方にだけ出来事の日付など、読み上げられないメッセージが括弧に入れられて示されることがあるからです。
 また上演は「う、う、い、お、う、お、い、だ、お」といった意味をなさない奇妙な文字列で開始されましたが、これはおそらく実際に発話された内容の頭文字の母音をとったものでしょう。文字情報は現在の発話と過去の発話の双方からこうして距離を確保します。『クローズド・サークル』では出演者の言葉を話し言葉ではなく書き言葉から拾い上げるという、スペースノットブランクにとって初めての方法が試みられていたことも記しておきます。

 ところで、わたしはこれまでのスペースノットブランクの作品について、<出演者=モノ=観客=空間>という四項関係をたびたび指摘してきました。たとえば『舞台らしきモニュメント』イントロダクションでは、中澤さんの「観客と出演者の立場をよりフラットにするのと同時に、舞台上にある「空間」とか「言葉」も全部同じレベルに引き上げることをしたい」という言葉を紹介しました。しかし、たとえば「出演者」と「空間」が「同じレベルに引き上げ」られるとは、実際のところどういうことなのでしょうか? そこで「レベル」と呼ばれている水準とはどのような次元なのでしょうか。この言葉は感覚的には理解できるにせよ、文字通りに受け取ろうとすると意味不明なのです。
 「総合芸術」である舞台芸術では、個々の要素が全体として醸し出す独特の時間や空間を発生させることが意識されます。この時、それが「全体」であるためには、もはや言葉や身体は要素として認識できたとしても、もはや独立なものとしては考えられていません。同じ場に帰属し密接に連関し合うものとして捉えられています。それが、「レベル」でしょうか。
 しかしそのように、つまり、上演の要素を均等に大事にしつつ密接に関係づけるといった程度の意味で理解するなら、「同じレベルに引き上げること」はなんら特別なことではなく、わざわざ語るまでもないことです。だから、「同じレベルに引き上げる」という言葉の文字通りの意味に、ここでもう少しこだわってみます。
 ふつう、空間は背景すなわち「地」として、俳優の身体は「図」として現れます。どれだけ空間が美しくあるいは奇抜に用意されても、この関係の非対称性は原則的に揺らぎません。だから、それらが「同じレベルに引き上げ」られるとは、普段後景に退いているもの、舞台の無意識として抑圧されているものを「図」に引き上げるということに他なりません。
 では、空間はいつ「図」として浮かび上がるのか? 絵画と違って「地」が所与の物質的な空間性を持つ舞台芸術の場合、これはなかなか大変なことです。しかし、いま「所与の物質的な空間性」と書いたわけですが、その「所与」としての性格、つまり、その中でなにもかも自在に展開できるタブラ・ラサ、不動の基底面であるという錯覚こそが、空間という存在を「地」の位置に追いやっているのではないでしょうか。そしてこれまでのスペースノットブランク(=非タブラ・ラサの空間)は、まさに空間を自明の前提として受け取らず、それを批評的に操作し、あるいは別様の姿を映し出すことをしてきたのです。その時、空間は新たな姿で、すなわち「図」として浮かび上がります。
 たとえば、鈴鹿さんが何分もかけて食事一式を食べ終わるまで、その食事の様子が真上のカメラから俯瞰で撮影され、モニターに表示されるシークエンスがありました。正面から生で鈴鹿さんを見る視点と、真上から映像で鈴鹿さんを見る視点、空間はこの二つの視点に引き裂かれます。演技のさなかに食事というごく現実的な行為、それこそ日頃の生活と同じ質の行為が持ち込まれることで、舞台が実際の生活空間としても現れることをねらってもいたのでしょう。
 これは空間の現れを更新する術としてはごく素朴であるとしても、実はスペースノットブランクは似たような空間の書き換えを繰り返してきたのです。わかりやすい例としては、2021年の『ささやかなさ』では出演者が床に横たわりながら発話を行うことで、まるでその足裏から延長される平面こそが床面であるかのような、90度転倒した仮想空間が立ち上がっていました。任意の点や平面を設定し、そこを支えに身体を位置づけ運動させることで新たに空間を再組織するような演出はスペースノットブランクの作品に頻出しています。

・迷宮としてのテクスト

 しかし『クローズド・サークル』が行った空間操作はそれにとどまりません。
 舞台奥にはテーブルゲームのバックギャモンが置かれ、開場時間と上演終盤、出演者はそれで遊んでいました。そして、モニターにはそのゲームの進行の様子がやはり真上からの俯瞰で映し出されていたのです。モニターの平面はここでゲームの情報が書き込まれ操作されるテーブルのような空間として意識されます(それは先述の食事のシークエンスでリテラルにテーブルとして名指されもするわけですが)。
 さらに、ルールの周知度に鑑みてここでは詳述は省きますが、テクストの時間進行はこのバックギャモンと同じ構成をもっていたのです[*2]。

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 『クローズド・サークル』のテクストで出演者が説明するそれぞれの生活内容はところどころ対応しており、時に、これは同一人物の語りなのではないかと思わされます。2人の語りは混濁していくのです。服装が似ており、また舞台の構図がかなりシンメトリカルなこともあって、出演者は鏡像関係を結んでいます。
 しかし、これは単に主体を曖昧にして融解させる操作とみなされるべきではないでしょう。鈴鹿さんが後ろに隠れている中央のモニターに古賀さんの上半身を映し出し、2人の身体を合体させるかのような中盤の演出に顕著でしたが、これは古賀さんと鈴鹿さんの人格を交差させ合体させた第三の人格をつくりあげることへの興味に基づくものと思われるからです。出演者間の人格の融合という仕方で、ここでも「共有するビヘイビア」が演じられているわけです。そうしてこの「クローズド・サークル」には存在しなかったはずの第三の人間が呼び込まれることとなります。

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 上演終盤では古賀さんと定位置を入れ替えた鈴鹿さんが次のような台詞を発します。

(彼は)鏡になってます そして交差するようにすれ違うので
スタートが (彼の)ゴールになるし
(彼の)スタートが ゴールになります

演者二人が鏡像関係に置かれ、時折台詞を巻き戻しながら(ヒット)互いに交差し、相手の初期位置に至ることで終点を迎える『クローズド・サークル』の上演構造は鈴鹿さんが愛好するボードゲーム、バックギャモンのルールに対応するものでした。
 テクストのパズル的な性格はたとえば『舞台らしきモニュメント』にも見受けられました。が、『クローズド・サークル』の特異性は、観客があらかじめこの同じモニター内でバックギャモンの遊戯空間を目にしているために、テクストの繰り広げる「バックギャモン」をも空間的に理解する可能性に開かれている点にあります。しかも、テクストの内容は上演内容にほとんど完全に対応しているわけですから、一時間程度の上演の時空間の全体が、開場時間中に目にしたバックギャモンの平面と想像上の写像関係に置かれます。その時、もはや目の前の空間は、「この場所のこの時」という仕方で指示することのできない、異様な質感を持つ自律的な場として出現します。
 ところで、『クローズド・サークル』というタイトルはミステリを想起させる言葉です。外界から閉じられたある閉域で殺人事件等が起き、容疑者もすべてその中に包含されている場合その空間は「クローズド・サークル」となります。容疑者が限定されるリスキーな犯罪ですから、なぜわざわざそんな閉域で犯行に及んだのかがまず問われるでしょう(もちろん、身もふたもないことをいってしまえば、局所に事件を発生させ人々の関心を一極集中させんとする「いま・ここ」の経済こそが死を呼び込んだ当のものです)。あるいは、もしかしたらそこに第三の容疑者が存在していたり、外界との抜け道が存在していたのではないかという可能性が疑われるでしょう。もっとも、その場合、そこはそもそも「クローズド・サークル」ではなかったわけです。
 実際、作中にもミステリ的なエピソードは登場するのですが、これはなかなかの食わせ物です。どうやら事件は主人と使用人の住む屋敷で起きた殺人をめぐるもののようですが、エピソードはいきなり謎解きシーンから始まり、古賀さん演じる探偵は即座に榊さんという謎の人物を犯人として指名するからです。主人にも使用人にも犯行は不可能だったとして、第三の人物である榊さんが犯人であると断定するためのロジックまでが明かされます(ちなみに、先述の第三の人格が舞台に現れるのはテクスト上で榊さんが登場した直後のことですが、榊さんもまた館に本来いるはずのない人物であることがテクストの内容からは推察されます)。榊さんの素性以外、そこに謎はほとんどありません。謎はむしろ本文でも確認したようにテクストの全容、およびその上演との関係にあります。
 制作プロセスにおける出演者個人の生活に内容を絞り、モニター越しにプライヴェートな空間を提示する『クローズド・サークル』は、舞台の現在と生活の過去を二重化する試みとしてまず受け取られます。さらにその時空間はある種のゲームとして組織され、観客にとってはほとんど難解なパズル、迷宮のように受け取られるでしょう[*3]。その場所はもはや「いま・ここ」ではありえません。そして、人はずっと前から「クローズド・サークル」に迷い込んでいたのに気づくでしょう。そうと知りさえすれば抜け出すのは簡単です。

・註

[*1]岡崎乾二郎『トリシャ・ブラウン 試行というモーション』、ときの忘れもの、2006年
[*2]上演テクスト中には日付を中心に漢数字が無数に登場します。漢数字を含むスライドは133枚存在していました。駒を古賀さんと鈴鹿さんに割り振ったうえで、それぞれの台詞に登場する漢数字を賽子の出目とみなし駒を進めれば、テクストに対応して進行するバックギャモンのゲームを成立させることができます。駒を正式なルール通り各15個所持しているとするのか、駒一つのみを動かすことにするのか、チャプタータイトル中の漢数字はカウントするのか(する場合双方の出目とするのか)、漢数字以外の表記で登場する数字はどのように処理するのか、賽子には存在しない七以上の数字は出目とみなしてよいのか、また出目として日付の数字のみをカウントするか否かなど、それぞれの場合に応じて試行方法は無数に存在します。上演テクストを構成した際演出者がどのようなゲーム進行を想定して漢数字を配置したかは定かではありませんが、試しに2時間ほど実験してみたところ、たとえば、チャプタータイトルを双方の出目とみなしつつ六以下の数字のみ出目と捉えて互いに一つの駒を動かしていくとき、あるいは、(一日後)や(三日前)という日数の表示に即して互いに一つの駒を動かしていくとき、上演終了時にそれぞれの駒が相手のインナーに存在し、かつ、テクストがそれ以前のテクストをリフレインする箇所でしばしば駒がバー上に置かれるかベアオフされることが確認されました。また、こちらは無数のバリエーションのひとつといった形になりますが、タイトルはカウントせず、七以上の数字を出目と見做したうえで各15個の駒を動かす場合にも同様の状態は実現しました。
しかし上演を観ている観客はまさかこのような実験を脳内で試すことはできないでしょう。作家たちもそれを期待しているわけでは(必ずしも)ないと思われます。上演のさなかではけっして観客に解きえないパズルを舞台の核に据える(が、しかしそれがパズルであることだけは明かされる)スペースノットブランクの演出の特異性とその効果については、『クローズド・サークル』の2か月前に上演された『舞台らしきモニュメント』の批評でもすでに論じています。
[*3]美術史家のグスタフ・ルネ・ホッケさんは著作『迷宮としての世界』で、17世紀を主としたマニエリスム芸術と20世紀初めの前衛芸術がともにいかに時代の混乱のさなかにあり、「意識的に反―古典的な表現形式」を実践していたかを文学、絵画、彫刻に建築などさまざまなジャンルを横断しつつ論じています。ホッケさんによれば、この両時代には自然の再現表象は放棄され、迷宮のような抽象的図像が多く描かれたといいます。その代表格がかのレオナルド・ダ・ヴィンチさんです。

自由に展開する線の偶然にゆだねられながらも、同時に知性の厳密な統御に支配されたこれらの「構成」、これらの綾織紋様において、レオナルドは、抽象紋様の内に、解体する世界の一体性をふたたび取り戻そうとしたのだ、という印象がしばしば語られている。ありようは、真正の神話的迷宮が中核の部屋、「呪縛を解く」原房へと通じているように、これらのもつれあう線は、おそらくレオナルドの場合、ことごとく世界中心としての凝視する自我へと通じているのである。
――グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界(上)』(種村季弘・矢川澄子訳)岩波書店、p. 310

迷宮のような空間を表現しているという点で、スペースノットブランクもまたマニエリスムの精神性を共有しているかもしれません。ちなみに、同書の冒頭ではダ・ヴィンチさんが鏡を愛好したことがやはり迷宮性に紐づけられています。しかし、ホッケさんにとって迷宮は不可解なカオスというよりは、世界の真実を映し出す別の手段でした。その迷路は「「呪縛を解く」原房」、「世界中心としての凝視する自我へと通じている」のです。しかし、註[*2]で確認した通り、『クローズド・サークル』の迷宮はおそらく解かれることを期待していませんし、したがって「世界中心としての〔…〕自我」などもそこでは想定されていません。そもそも図像化された迷宮的表象を眺める主体は迷路のさなかに身を置いていません。上からこれを俯瞰しているのです。ホッケさんは迷宮的表象を観た主体が驚愕に見舞われ、分裂し、理解のひらめきとともに世界の真実を瞬間的に理解するといいます。しかし、それは「「呪縛を解く」原房」の見える上からの視点においてのことのはずです。そして迷路にはふつうそのような視点はありえません。逆に、迷路の愉しみとは、そのような俯瞰的な視点に到達しえぬままとりあえず歩いてみて、いつのまにかわけのわからない場所にたどり着いてしまう、その経験にあるのではないでしょうか。スペースノットブランクが用意する迷宮としてのテクストは、呪縛が解かれることの期待もなきままにそれでも必死で迷い、考え、経験される時間の果てに、いつの間にかたどり着いてしまう謎の空間こそを供するものです。もっとも、それはこれといって名指せるものではおそらくありませんし、多くの場合は出口でさえないでしょうが、ほんとうにその迷宮へと足を踏み入れたなら、同じ場所へ帰ることは二度とないはずです。

(撮影:高良真剣 画像提供:Tokyo Arts and Space)

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