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死の脱出行ジブチまで650km人類の運命を賭けた旅ウルトレイア2


 
OUT of AFRICA
脱出ルートを探る。
 
 この話を進めると、どんなルートをたどったのかがわかる。それは想像を絶する苦難の道だった。6万5000年前のアフリカ、現在のエチオピア、タナ湖など水源が点在し、ナイル河の水源地である。地形は複雑で、かつては熱帯雨林が生い茂り、高さ50mを越える樹林がうっそうと茂っていた。それが焼け落ちてしまった。


 大地溝帯が南北に走り、高低差があり、ひとが隠れ住むにはうってつけの場所。
ちなみに現在の首都アジスアベバの標高は2400m。気候は4-9月が雨季、10-3月が乾季。朝は冷え込みが厳しく雹が降ることもある。

 ここに住むひとはガーゼを二重にした3m以上ある綿の布、ガビ1枚をきように全身をまとっていた。

 今では家畜の牛と荷役用のロバがほとんどだが、かつてはアフリカを代表するほとんどすべての動物が闊歩していた。
これほど急激に動物の棲息地域が後退したのは熱帯林の消滅が理由だ。

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エチオピアの首都アジスアベバにはおとなしくなったハイエナに野生化した野犬の群れ、牛にロバ、凶暴化した人間が見られる程度。
首都といっても標高が高いので、日中と夜間の温度差が20度もあり、特に朝夕の冷え込みは厳しい。
 
エチオピアの湖がある土地からアラビア半島へ行く道はない。
砂漠を越えるのだ。
砂漠といっても砂ではなく不毛の荒野で雨が降らない水のない世界。
距離にして650キロ。いくら水を担いで行っても、足りない。


今も続くアフリカ脱出

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 実は今でもこのアフリカ脱出は続いている。その現実を知るとみな驚く。エリトリア、エチオピア、ソマリアから単独、あるいは家族、グループで内戦や襲撃を逃れ、そして仕事を求めて、今も人々はこのルートを歩いていた。

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そして、その中の数%は途中で行き倒れている。水が完全に切れたのか、溶岩流が固まった岩のうえで横たわる死体。

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男の死体、若い女の死体。それも2,3人ではない。

10体以上はある。
まだ、男女の区別がつき、20-30才代だろう。手や脚の肉は捥がれているが形をとどめている。

そして、墓らしきものも立てられている。
 
 海まであと少し、紅海が見える5-6キロ手前。ゴールを前に息絶えた人々だった。
 
この横断ルートは、エチオピアからジプチまでの650キロ。貧しいアフリカからの難民は、毎年10万人がこのルートをたどってアラビア半島へ渡ろうとする。

だが、ジブチに無事たどりつけたとしても、そこには仕事はない。さらに彼らは船に乗って紅海を遡り、オマーンをめざすのだ。

6万5000年前と現在の難民が見る景色はどれほど変わったのだろうか?

そう考えずにはいられない。

エチオピアのアジスアベバから紅海が見えるジブチに行く途中、テンダホ農場が突然、出現する。インドとの合弁で砂漠に巨大なプランテーションをつくり、サトウキビ農場をやっていた。500キロ平方メートルに5万人が働く。

だが、地元のアファール族の娘はいくら働いても日本円に換算して月に2000円しか稼げないという。アジスアベバでもここ20年ずっとこの賃金だという。もっと昔からかも知れない。
 
月給2000円、1日働いて80円(日曜日を休んで)。
これではおんなたちは、身体を売った方がましと考えるわけだ。
彼女たちは生涯1度もアフリカから外にはでられない。よほどの幸運に後押しされない限りは、、、。

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一番多いのはアラビア人との混血、次いでギリシャ人、イタリア人など。アジスアベバには中国人か韓国人、あるいは日本人との混血もいる。


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バンコク駐在記者。ミャンマーのヤンゴンからチン州ミンダットに転戦。ウィルス戦争取材に呼び戻され、世界最前線で戦うためコロナウィルスの突然変異に迫る😂もし、頂上に立てなかったら、日本は中国から千年の隷属国家に貶められます、戦いのすべてはコロナ感染で苦しむ人々のために❗️