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不換紙幣の奴隷となる人々。

閉塞的な環境が非行の温床に。

 最近、お金持ちを狙った集団強盗事件が全国で相次いでいる。強盗に限った話ではないが、この手の被害に遭う人は、無意識のうちにお金持ちアピールをしていたり、自分が狙われる可能性があることすら自覚していない傾向にある。

 この構図は、いじめにも通じる部分がある。学校教育の場などで虐める側が絶対的に悪なんてロジックが展開されがちだが、どうにも綺麗事のように感じてしまう。無論、虐められる側にも問題があると言いたい訳ではない。

 人は社会性の動物で、集団行動を行う上で、多かれ少なかれ暗黙の了解による同調圧力が生まれる。しかし、空気を読む能力が低く、それに従わない者は集団から排除する力が働く構造上、いじめがなくなることはない。盗人も、貧富の差が大きくなる資本主義社会の構造上、なくなることはないだろう。

 さかなクンさんの新聞記事にもあるように、閉鎖的な環境に身を置くと、何かしらのストレスが生じるため、それを解消するために弱者を攻撃するのは生物に共通しているようだ。だから、例え被害者側であっても完全に受け身で良い訳ではなく、標的にされた際に、最低限自衛する手段や、そもそも標的にされない術を備えておかなければならない。

 強者の理論だと思われるかもしれないが、自身が社会不適合者で、学生時代に被害者側の経験があるからこそ、綺麗事ではなく、事実を淡々と記している。とはいえ、組織内で問題が起きた際に、加害者側ではなく、被害者側が居なくなることで解決を図る、日本社会の構造は異常だと思う。

 我々が生活している現代社会は、特に若年層が生きづらさを感じる構造となっており、長期目線で希望を持てない影響から、短絡的な発想の元で非行に至ってしまうのかも知れない。本来、この世界は広く、美しいのに、それを知らずに刑務所で長期間拘束されるリスクを負ってしまうのは非常に勿体無い。

すしざんまいの美談に学ぶ。

 そもそも、なぜ最近になって集団強盗事件が目立っているかを端的に言い表すなら、国全体が貧しくなっており、貧困層が増加しているからに他ならない。

 すしざんまいがソマリアの海賊にマグロの釣り方を教えて、ソマリアの海賊を消滅させた美談がある。確かに海賊は減っているらしいが、消滅したことを証明するのは不可能だし、そもそも擬似相関をこじつけているように思えるため、信憑性は定かではない。

 とは言え、なぜ海賊をしているのかと言う疑問を掘り下げ、略奪以外に金品を得る手段がないと言う問題の本質を突き止めて、それならば稼げる手段を教えれば、略奪をしなくても食べていけるだろうと言う発想は筋が良いと感じる。だからこそ美談として広がっているのではないだろうか。

 このすしざんまい理論を当てはめるなら、闇バイトに手を染めなければ生活がままならない若年層が増加して、反社会的組織に良いように使われているのが昨今の集団強盗事件の増加に繋がっているのではないだろうか。

 指示役の摘発も重要だが、若者が闇バイトに手を染めなくても、良い暮らしができる社会構造にしなければ、根本的な解決には至らない。

 大卒でなければ、エッセンシャルワーカーを始めとする、低賃金や失業のリスクを一手に背負うような、スキルの溜まらない単純作業にしか就けず、社会はそれによって支えられている。たとえ大卒でも、一度社会の枠組みから外れてしまうと元には戻れない。

 心身を壊すなどで、不幸にも社会の枠組みから一度外れてしまうと、元には戻れず賃金労働者としての道はハードモードになる。窮地に追いやられ、生活保護を申請しようものなら、若いことを理由に水際対策で門前払いをする自治体もあるらしい。

 これは、社会保障の前提として、まずは世帯で援助する体で、それを補完する目的で設計されており、ネグレクトなどで世帯での援助を受けられない境遇にある若者は、現行制度の抜け穴に埋もれてしまう意味では、構造上の欠陥である。

 結果、本当に支援が必要な社会的立場が弱く、聞き分けの良い人ほど受給できず、私のように社会保障制度や法律の知識武装をしていて、その気になれば行政を出し抜けるような、ずる賢くてクチの上手い、クセの悪い奴ほど受給できてしまう。

 仮に前者で漏れてしまっても、若年女性なら性風俗産業がセーフティーネットとなっている側面がある。しかし、若年男性にはそのオプションすら存在せず、NPO法人が細々と行う支援にアクセスできなければ、ネットカフェ難民と化し、住所不定無職の無限ループで行政の支援を受けられず、ジリ貧となれば自決するか、非行に及ぶかを迫られるのだろう。

お金は然して重要でない。使い方が重要。

 そもそも論ではあるが、強盗事件の被害者側も加害者側も、お金を過大評価しており、その魔力に取り憑かれている、言わば不換紙幣の奴隷のように感じてしまう。

 我々が扱うお金、日本円は不換紙幣であり、それ自体に価値はない。不換紙幣は何かしらの目的を果たすための道具に過ぎず、それを得るために多種多様な手段があるだけで、手段が目的化しては本末転倒だ。

 生きていくのにお金は切り離せない。しかし、人が最低限生きていくために必要なお金は高が知れている。大抵の場合、見栄とか安心を満たすために、不相応に生活レベルを上げては、それを必要経費だと錯覚していることが多い。

 これは蓄財する過程で、欲求に対する自己管理能力が高まることで、財布を太らせられるようになり、それにより人生の選択肢は増えたものの、そのオプションを行使しない限り、生活そのものが劇的に変化する訳ではないことを実感したからこそ言い切れる。

 老子はこれを「足るを知る者は富む」と表現した。清貧を美徳としたい訳ではないが、お金の鎧を纏わず、何事も等身大の自分に満足できる人ほど、変に着飾らないからお金目当ての人も近寄らず、真の豊かさを手にするのかも知れない。

 お金を稼ぐ、増やすことに走りがちだが、それ以上に重要なのが使い方ではないだろうか。そう考えると、傍目で分かるような高級品を身に纏ったり、多額の現金を自宅の金庫に保管するのは、それによって得られるであろうリターンと、負うべきリスクが釣り合っていないように感じてしまう。


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