JOKER、「目線の暴力」

昨日、去年公開されたJOKERをやっと見た。
*ネタバレを含みます

画像:
https://virtualgorillaplus.com/movie/joker-hyouka/

ジョーカーはアメコミの『バットマン』に出てくる悪役だ。
この悪役は過去何度も映画化されたらしいのだが、それも毎度ヒットしているらしい。

本作品2019年のJOKERを演じたホアキン・フェニックもは、第92回のオスカー賞を受賞している。

JOKERのあらすじ

*ネタバレを含みます

JOKERは、悪役たらしめるように、ことごとく恵まれてない設定になっている。

コメディアンへの夢を諦めていないジョーカー、本名アーサーは、現在もピエロのパフォーマンスで生計を立て、精神病を患う母親の面倒を見ながら過ごしている。彼は映画の中で「金がない、貧乏だ」とは直接的には言っていないものの、住んでいるアパートのボロさや市の公共のメンタルケア(これも市の財源カットにより無くなってしまう)に通っていることから貧困層であることがうかがえる。
さらに生い立ちも悲惨だ。アーサーは幼い頃に養子に出されており、生みの親を知らない。しかもその養子に出された「育ての親」、つまり現在の母親からはかなりひどい虐待を受けており、一度アーサーはその母親から引き離されている。しかも、そのこと自体を「アーサー」は覚えていないのだ。ショックで忘れたのか、小さい頃の記憶で消えているのか。
そんな「育ての」母親は若い頃から重度の精神疾患を患っており、老いた今も30年前にウェインという裕福な男と結ばれていたという幻想から、家の中で彼に毎日助けを求める手紙を書き続けていたのだ。しかも、アーサーは母親の精神疾患をずっと知らずに生きてきている。
街中のピエロという世間からの侮辱や暴力、自身の「急に笑い出してしまう病気」、生い立ち、、母親の幻想、クビ、など...
映画の2時間で彼に一気に降りかかっていく災難によって、少しづつ「アーサー」は「ジョーカー」になっていく。

「かわいそう」と言っていいのか?

ここまでのあらすじを振り返り、そしてJOKERという映画全体を見て我々の中に上がってくる感情は「同情」だろう。

しかし、果たして私たちはジョーカーに「同情」しても良いのだろうか?
私は少なくとも「同情」はしてはいけないのではないかと考える。


それは悪役に同情する余地などない、という過剰な、お花畑な正義感によるものではない。
私がこの映画を見ながら同情するまいときつく自制していたのは、
「同情」は目線の暴力ではないのか?と考えたからだ。

目線の暴力=「見る側」と「見られる側」の不平等性

終盤部分で、アーサー(もはやジョーカー)はずっと憧れだったテレビのコメディショーへの出演を果たす。

お察しの通り、カメラが回っているにもかかわらずそこで司会者を銃殺するなど暴れまくるのだが、そこで「よくも俺をここに呼んで笑い者にしたな、今まで路上で横たわっていても気にもとめなかったくせに」等を叫び憤激し始めるシーンがある。
コメディアンとは笑い者を買って出る職業であり、自ら(アーサー)もそれを念願の夢であったはずが、もはやその頃には舞台の上で観客の眼差しを浴び、自ら(ジョーカー)が笑われていることに強い侮辱を感じているようになっていたのだ。

同じ男の中に錯綜するジョーカーとアーサー。
他者からの眼差しより、アーサーはジョーカーと化しジョーカーは人殺しをするまでに暴走してしまったのではないか。

他方、そんな痛々しいジョーカーをスクリーン越しに哀れむ我々の視線はどうか。
貧しい者に対する視線はどうだろうか。ジョーカーを哀れんでいる瞬間、私たちの立場は安全で、強固で、崩れないことをひしひしと実感しているのではないだろうか。

我々がその眼差しを向ける限り、「同情される」側は、一生「同情」の檻に入ったまま出てこれないのではないだろうか。
つまり、同情というのは視線が生み出す徹底的な不平等なんではないかと思うのである。「見る」瞬間に世界はすでに分断されており、「見られる」ものは社会では自力で「見る」側に這い上がってくることを求められる。しかし、その「見る」「見られる」の間にたたずむ壁はとてつもなく大きい。

見る・見られるの非対称性、暴力性といえば、最近『エレファント・マン』を視聴した。*ネタバレ含みます

奇形児で生まれた「エレファント・マン」は極度に発達した頭蓋骨の影響で顔の形が象のように変形している。(なぜ象のようになったかもちょっと面白いので映画を見て欲しい)。時は19世紀、産業革命時代のイギリス、このような奇形児は人間扱いされておらず、エレファント・マンも興行師に飼われてサーカスの「見せ物」として檻の中で生活していたのだ。(人間なのに...!泣)

この惨状をたまたま目にした「医師」は当初研究目的から彼を保護し、自らの病院にかくまうことになる。

病院で彼との時間を重ねるうちに、彼が実は檻の中で聖書を読み込んでおり言葉を話せる心優しい青年であることを知る。
ある日、有名な舞台女優がなぜか(ここの理由が映画からは読み取りにくかった)彼をたずね、ロミオとジュリエットの甘美なシーンを演じるごっこが始まる。この有名女優が訪問したことを皮切りに、彼は今度世間の同情を買う形で新聞で取り沙汰され話題になっていく。
檻から出、やっと外との交流が増えたことを喜ぶ「医師」は、次々に訪問客を招き彼と会わせるようになる。その光景を見ていた病院の看護婦長からの一言がまた鋭い。うろ覚えで大変恐縮だが、確か
「あなたのやっていることは好奇心です。やっていることはあの興行師と変わりありません、彼を見せ物にしないでください。」と言うシーンがあるのだ。指摘を受けた「医師」は憤激しながらその場を後にするが、その夜思い出したように顔面蒼白になり呆然として自らの妻にこう呟きかける。
「僕は非情な人間だろうか。あの興行師とやっていることと何ら変わりないのかもしれない」
せめてものお詫びか?その後、「医師」は彼を演劇に連れて行く。あの有名女優が出ている舞台だ。終演後、舞台女優は彼を称えて会場からの拍手を送ろうとする。
その晩、衝撃的・感情的にこの映画は幕を閉じる。

これがまた大変美しい閉じ方だったので、ぜひご覧になっていただきたい。

我々が「社会」と指す時、「社会」から「臭いものに蓋」をされているものの存在を忘れてはいけないと思う。
「社会」から外されているもの、そういったものはそもそも「社会」という枠組みにすら入れていないことを念頭に置いておく必要がある。「社会」にいる者からは見えない存在なのだ。病院で苦しむ末期患者、生まれたての、ひとりでは何にもできない新生児、刑務所に入れられている患者、日本の言葉を話せない・理解できない異国の人。

そういう社会から見えない存在をわざわざ見ようとする時、それを見ようとする我々の眼差しは容易に「好奇心」や「同情」という不平等でしかない目線に転落する。それは忘れてはいけないと思う。
なぜなら、繰り返しになるが「見る」瞬間に私たちの世界は分断されているのだ。「見る」側が存在する限り、「見られる」側は一生その場にとどまってしてしまうのである。

今一度この炎上した記事を読んで欲しい。悲しいことに、視線の暴力でしかない案件は日々発生している。何もスクリーンや映画など物語に限った話ではないのだ。




私は、あのジョーカーを、スクリーンという圧倒的な視線の不平等な環境で「消費」していると言うこと。悲惨な生い立ちの者と、それ以外とでは、絶望的な隔たりがあること。
私はこの眼差しの問題に関して、ではどのような認識をすれば良いのか、ジョーカーを哀れむ以外にスクリーン越しに我々に何ができるのか、全く検討の余地もついていない。そのことに放心感や悔しさもあれば、無常感もある。

これからも私はきっとこの問題に関して悩み続けるだろう。自分なりのアンサーが出た時に、再び書き改めたい。

ジョーカーは、改めて私に「眼差し」の問題を突きつけた映画だった。

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