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【論文公開1】『荘子』斉物論篇における天籟問答の総合的読解

2020年、私は初の著書となる『宇宙の音楽を聴く』(光文社新書)を世に送りだしました。コロナ禍でニューヨークが完全にロックダウンされた折に執筆したものです。

執筆にあたっては自分の過去に行った研究成果を、かなり引用しました。ここで公開する学術論文もそのひとつです。

noteではこれを含めて二つの論文を公開していますが、いずれも私が大学院にて客員准教授、日本総合研究所にてスペシャル・アカデミック・フェローを勤める、武蔵野学院大学の研究紀要で発表されました。

今回公開する論文は、『宇宙の音楽を聴く』第5章(「自分は存在しない」)の第1節「美人でも動物は逃げる~理性と知性の盲点をつくタオイズム」を執筆するにあたっての土台になったものです。熱心な読者の皆さんへの便宜をはかるため、大学側に転載許可をもらったうえで全文を公開しています。(読みやすさを考慮して、一部で改行など表記法の変更を加えましたが、本文そのものは紀要掲載時のままです)

ただし、論文はある程度の専門家を読者として想定しており、学術的な厳密さを重視した硬い文章ゆえに、たいへん読みにくいです。講演や著作における私のいつもの調子とは落差が激しいことはご諒解ください。

なお、別のnoteでの連載で、『「差別化」だらけの現代社会にタオイズムが求められる理由』というタイトルで、老荘思想の基本、そして私たちがこの思想に注目すべき理由について平易にご紹介していますので、併せてご覧いただければ幸いです。

論文中、『荘子』天籟問答の通俗的な誤解例として、浦久俊彦さんの『138億年の音楽史』(講談社現代新書)の記述をあげていますが、そのことがこの著作の価値を損なうものではありません。

細かな間違いが散見されるものの、音楽を音響だけに捉えないで論が展開される、その壮大な着眼点には、私も大いに刺激を受けました。そこにこの本の価値があると私は評価しております。

論文タイトル&キーワード

『荘子』斉物論篇における天籟問答の総合的読解
〜「天」の思想、老荘の「道」、そして荘子の認識論的形而上学〜

伊藤 玲阿奈

A Comprehensive Study on “the-Piping-of-Heaven Dialogue” in Zhuangzi
~ The Concepts of “Tian”, “Tao”, and Zhuang Zhou’s Epistemological Metaphysics ~
Reona Ito

【キーワード】古代中国 老子 荘子 万物斉同 天籟 古代の音楽論

1.はじめに ~本論文の目的

「天籟問答(てんらいもんどう)」とは、道家の聖典『荘子』の中でも、荘周の真筆部分と目されると同時に、彼独自の思想の根本が披露されているという点で諸篇中もっとも重要な斉物論篇の冒頭にある、楚国の賢人・南郭子綦(しき)とその門弟・顔成子游の間で交わされる問答部分を指している。音(音楽)を巡っての問答という特徴的かつ異色な性格をもっていることもあって、比較的有名で、中国古典を専門としない人々によっても引用されることがある。

しかしながら残念なことに、専門外の、世間一般の人々によって引かれる時は、往々にして荘子の真意とはかけ離れた解釈や牽強付会がみられ、学者や専門家による定説が世間の通説とならず、誤解のまま受容されている事例の一つとなっている。

本寄稿の目的は、さまざまな人々に引用されるにも関わらず、誤解や牽強付会が多発している天籟問答の総合的な読解を試み、世間における誤解を解く一助となることである。

手順としては、天籟問答の完全な読解に必要な諸要素を列挙し、概観したうえで、それらを総合して問答本文を検討することとし、途中で一般的な誤解の代表例を挙げつつ、それがなぜ間違いであるのかも確認する。これによって目的は果たされるだろう。

天籟問答そのものは専門家間で定説がある程度に確立されていて、学術書や解説書の中での言及も多く、この作業によって得られる学術的な意義は低いと言わざるをえない。それでも、天籟問答の読解に的を絞って総合的に論述したものは見当たらず、ここに本寄稿を世に送り出す意味があると確信する。

2.天籟問答の読解に不可欠な諸要素とその概観

2.1 読解の前提となる三要素

『荘子』のみならず『老子』や『論語』など断章形式で書かれている中国古典を読解する際には、ある一章のみを抜き出して読んで “とりあえずの文脈” を掴んだだけで満足しては大変危険で、著作全体との関連、その思想家の思想全体や古代中国の文化習慣などといった、背景にある諸要素と照らし合わせつつ “真の文脈” を探る努力が必須となる。

天籟問答の厄介な点は、まず原文自体の晦渋さが他の箇所と比べても際立っていること。そして、真の文脈を得るために不可欠な諸要素が込み入っているうえ、それら背景知識の理解にもかなりの深さを求められることが挙げられる。加えて、この問答のもつ神秘的雰囲気、箴言的表現がつい読者を独自の解釈へと誘ってしまうという事情もあろう。

この小論では、天籟問答の完全読解のために三つの要素を取り上げ、概観する。

まず第一に、古代中国人の形而上的思弁、特に「天」の思想について最初に検討しなければならない。「天籟」の言葉自体が「天」という中国人にとって特別な形而上的概念を含んでいること、ならびに、後述するように天籟問答が荘子独自の認識論的形而上学の一形態として登場している事実を鑑みると、古代中国人が「天」に代表される形而上的存在についてどのように考えていたかを知ることで、荘子が己の形而上学を説明するのに意図的に「天籟」すなわち「“天”の音楽」を持ち出そうとする動機も解明できるのである。

第二に、老荘思想の基本を知らねばならない。中でも、老荘の全体を貫く根本概念かつ「道家」と呼ばれる由縁ともなっている「道(タオ)」について多角的に理解することが、天籟問答の読解においても大前提であるからだ。

第三が、老子によって示された「道」を独自に発展させた荘子による認識論的形而上学で、これを読み手に示すことが『荘子』斉物論篇における天籟問答の直接の役割となっているため、これも必ず押さえなくてはならない。

以上の三要素をしっかり確認することなしに天籟問答の章だけを読んでしまった場合、まず間違いなく誤解が起きる。この箇所がもつ不思議な魅力も手伝い、“とりあえずの文脈” が一人歩きしていくことになるのだ。これについては徐々に明らかになることだろう。

2.2 「天」の思想(古代中国人の形而上的思弁)

それでは第一の要素から開始しよう。古代中国人は形而上的思弁についてどのように考え、働かせていたのであろうか。先ほど述べたとおり、ここでは西洋における第一哲学・神学に比すことが可能な、「天」の思想を中心に概観することにする。

中国人は一般的に「天」を祀るが、それはヒンドゥー教やキリスト教の神とは異なる非人格的絶対者を指し、人格神という点からみるとむしろ無神論者である。古代の諸子百家においても、人格神を信じた墨子を除いては総じて無神論者であった(注1)。

この「天」は、「道」や「理」とも表現されることもあり、この現象世界で恒常的かつ必然的に働いている法則であり、真理の根源となる。そして、その非人格的絶対者たる「天」が万物に命じた在り方が「命」と呼ばれるので、これを物の立場から換言すれば、「命」とは天から己に与えられた本来的な在り方であり(注2)、そこには絶対性や必然性のニュアンスが付帯している(注3)。したがって、天命思想として知られる「天命」という言葉は、ある種の運命論的な響きが伴うことになる。

これについて森三樹三郎は次のように説明している。

 [天命とは]古くは人格神である天の命令を意味していた。しかし時代がたつにつれて天の人格神的な要素がうすれ、それは天道とか天理とかいった法則的存在に転化していった。それは自然界を支配する法則であるとともに、人間が守るべき使命であり、さらには人間の吉凶禍福を規定する運命でもあった。(注4) 

ということは、例えば『論語』為政篇における孔子の有名な「五十にして天命を知る」という言葉は、1)自分に運命的に与えられた使命を自覚する、もしくは、2)自分の運命(自分が成せる限界)そのもの、という二種の解釈が成り立つのであり、実際に注釈者によって異なっている。

このような運命論的かつ無神論的な世界観が受け入れられている文化では、ものごとの根本原因を追求するよりも、感覚的な現象相互の因果関係に着目してものごとを体系づける思考習慣へと自ずから向かうことになる。

つまり、超越的存在原理に挑むがごとくの純粋に形而上学的な思惟は発達しにくい環境になってしまうということだ。なぜなら、実存におけるある難しい局面についてさえ最終的に「天命(運命)」という概念で片付けてしまうのが普通に受容されるのだとすれば、感覚で捉えられる現実を超えた世界への憧れ、ないし現象を超えた次元について探求していく動機が育ちにくいからである。

孔子の「子、怪力乱神を語らず」(述而篇第七)はまさしく象徴的で、中国人が現実的であるという評が古今の文献に限らず至るところに見受けられる主な理由はここに由来すると思われる。

しかし、天命思想を通奏低音にもつ古代中国で形而上学がまったく発達しなかったと言うのは間違いで、儒教と共に中華文明のもう一方の底流をなすことになった道家では、後世に道教という人格神を祀る民間信仰の起源となった事実にふさわしく、形而上的思弁が展開されるのである。

老子も荘子も、今みたような天命思想を疑っていない点では他の中国の思想家となんら変わることはない。それでも、現象を超えて万物の根本原理を問う姿勢が生まれたというのは、どういうことであろうか。これは老荘思想の基本概念に関わることで、天籟問答の真の文脈に到達する為にも検討しなくてはならない。

というわけで、続いて、第二の要素である老荘思想の基本概念の概観に移ろう。

2.3 老荘思想=道家の根本(「道(タオ)」)

老荘思想=道家における他の諸子百家にはない独特な特色の一つとして、彼らが世界の究極の根源を探求する形而上的宇宙論を展開したことがあげられる。

すなわち、怪力乱神という感覚的根拠に乏しい事象に対しては関心の薄い孔子に代表される典型的な中国の思考習慣に従わず、万物の根源である「道(タオ)」と呼ばれる真実在を措定して、そこから森羅万象が生成するという独特の存在論を説いたという点で老荘は異色なのである。

日本の代表的な老荘研究者である福永光司によれば、「中国において『形なきものの形を見、声なきものの声を聞く』ことを教えた最初の哲人」(注5)が老子だと断定している。これは「形なきものの形を見」が文字通り示す通り、本格的な形而上学説を展開した最初の中国思想家が老子であったことを意味し、「道(タオ)」こそはその中心学説なのである(注6)。

老荘の形而上学は、一見それとは縁遠そうな「天」や「天命」に対してあくまでも従順に解釈・実践していくことが契機となっている。絶対的かつ必然的な天が定める存在物の本来的な在り方を純粋に追究していくという方向性であり、その過程で“不完全な”人間による人為的なもの(漢字にすると「偽」となる)が徹底して排され、最終的に「自然」(訓は「おのずからしかる」。他の存在物の助けを借りることなしに、そうなっていること。つまり天によって定められた本来的な在り方を達成している状態)(注7)と一致する「無為自然」が理想として立てられるのである。

より具体的には次のようになろう。人間がみずから知情意を発揮して言動しようとすることは徒らに自己を肥大化してしまい、ありのままの本来的な自己からかけ離れ、自分も社会も不幸にしてしまう。ゆえに、人間は人為人知を手放した生き方をすべきである。そうすれば本来的な自分の在り方との一致、すなわち天命を全うすることができるのであり、その理想的状態が「無為自然」であり「道」だという訳だ。

繰り返すが、「道」は道家という名称の由縁だけあって老荘思想の最重要概念で、このように無為自然を達成している状態を指しもするし、先ほど触れたように唯一の恒久不変なる真実在で万物の根源のことも指している。そして、すべてはこの「道」から生まれ出でて、すべてはこの「道」へと還るものとされる。

このような形而上的宇宙論ともいうべき万物の生成過程が叙述されている『老子』の箇所を数カ所あげてみよう。次の引用はすべてその章からの抜粋で、書き下し文は福永光司に従った。底本は明和本である。

第一章「名無し、天地の始めには。名有り、万物の母には。」
第四十章「天下の万物は有より生じ、有は無より生ず。」
第四十二章「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負うて陽を抱き、冲気(ちゅうき)以て和することを為す。」

これらを併せて読み取ると、「道」と「無」は同義に使われ、いかなる名前(言葉)も存在せず概念付けも不可能な状態(「無名」)にして万物の根源、かつ真実の存在であることを何とか言葉で説明しようとしたものと理解できる。「有」は「有名」の世界で、存在物が名前を付けられて概念として存在できる世界、つまり現実にある存在物の世界である。

宇宙生成のプロセスは、第四十二章のとおり、「道」または「無」を原初として、「一」「二」「三」の三段階を経て万物が生まれる、という順をとる。このうち「一」については諸説あり、研究者によって解釈が一定しない。福永光司は「天地の一気」と訳すが、金谷治はそれに反対する。それでも、「二」が陰と陽であり、「三」が陰と陽が合体したものであることは諸学者で概ね一致している。

どのような学説を採るにせよ、金谷治の「何であるかとはっきりさせようとするのは、あるいは無用なせんさくであって、要するに、『道』から万物が生まれてくる過程を示している、と見ておくのがよいのかもしれない」という説明がここでは妥当だ(注8)。

「冲気」の「冲」は、老荘では「道」の在り方を示す言葉としてよく用いられ、具体的には「渾然と一つに溶け合ったさま」(注9)を表すから、冲気とは、陰と陽を媒介するもの、もしくは陰と陽が一つに溶け合う力という意味である(注10)。

この冲気によって陰と陽の二つが合体するわけだが、そこに人為人知という余計な不純物が入り込まず、二つが中和的に融合一体化することによって、純粋に自然な存在物が成り立っていることを意味している。言い換えれば、人間もふくむ全存在物は陰と陽の二要素から構成されていて、自然状態にある存在物はその二要素が調和状態であるということになる。

これに対して、人間には知情意があるために、陰と陽のどちらかが過多過小になりバランスが崩れがちで、「道」から離れた反自然的な状態に陥りやすい。

道家においては、ここに人間の不幸があるとみて、「反(かえ)る者は道の動なり」(第四十章冒頭・注11)の言葉どおり、この宇宙生成のプロセスの逆を辿って「道」「無」へと帰還することを教えの根本に据えているという訳なのである。

ここで強調しておきたいことは、万物が「道」「無」という根源に根ざしており、あるがままの自然状態では、陰と陽を含みつつも、陰でも陽でもない調和した存在であるということを説いている点である。これについては後にも言及する。

また、この形而上的思想には、老子自身はおろか、ブラフマーやキリストといった人格神、もしくは固有名詞が介在していないのは、天命思想という無神論的かつ運命論的世界観をもつ中国らしい特徴であると同時に、「名」(言葉)によって「道」から遠ざかってしまうのを避けるという意図もあるからであろう。

ここまでは道家の祖である老子によって提出された基本概念で、後の世代にあたる荘子はこの基本線をそのまま受け継ぎつつ、独自に発展させることになる。

両者の思想上の厳密な相違については本論文の目的に影響を与えないので触れないが、天籟問答読解という観点から特に重要なことは、荘子は老子の宇宙論を認識論的に解釈し直して、独特な形而上学を構築したということだ。

つまり、この荘子独自の認識論的形而上学を理解することが、天籟問答読解に不可欠な第三の要素となるのである。

2.4 荘子の認識論的形而上学

蜂谷邦夫の言を借りれば、天籟問答が冒頭を飾っている斉物論篇は、荘子が自らの思想の中核を語ると同時に、「荘子がいかにして世俗世界を超越する思想を構築したか」分かる部分である(注12)。つまり老子を継承した荘子の形而上的思想の理論が述べられている。

“理論”といっても、荘子の場合は言語の不完全さや相対性に注目するもので、彼が親しく交わった名家(論理学派)の恵子とは違い、結局はロゴスに信頼を置かないのが特徴だ。言葉を駆使しつつも、最終的には言葉による思考の放棄を迫るという、きわめて逆説的な態度に貫かれているのである。

ところで、人はなにものかを理解しようとするとき、概念(「名」)を言葉でもって作り上げる。たとえば、ある音楽を聴いて心に何ともいえない快を感じたとか、ある女性をみて心を揺り動かされたとかいう現象を理解するうえで、その現象を「美」と名付けて概念化することは理解過程で必須とされるだろう。

しかし、注意深く観察すると、「美」という概念をこしらえたせいで、もとは未分化(つまり「一」)であったある相が分化してしまい、必然的にそこには「醜」という対立概念も発生することになる(注13)。

ということは、当然ながらそこには相対性が発生してしまう。「美醜」についていうと、荘子は斉物論篇において「毛嬙(もうしょう)や麗姫(りき)は、人はだれもが美人だと考えるが、魚はそれを見ると水底深くもぐりこみ、鳥はそれを見ると空高く飛び上がり、鹿はそれを見ると跳びあがって逃げ出す」(斉物論篇第二・九 金谷治訳・注14)という有名な説明をくわえている。

言葉の世界、つまり人間の思考は相対性に支配される定めにあるのだ。老荘の言葉で言い換えると、人間は、言語を使って認識すればするほど、不変の真実の相かつ全現象の根源たる「道」から離れていくのである。

大事なことは、概念化による分化作用を遡行していくと、これ以上分けられない境地へと到達するが、それが荘子にとっての「道」の状態であるということだ。老子の創出した「道」の考え方を認識論的に再解釈することで荘子が独自の形而上学を生み出したという意味はここにある。

もう少し詳しく見てみよう。

荘子は、いま挙げた美醜の例のような、言語による認識の相対性について数多く指摘しつつ、前節で引いた『老子』第四十二章の「一二三」の宇宙生成論を次のように認識論的に言い直す。

対象としての一とそれを表現した言葉とで二となり、その二ともとの未分の一とで三となる。それから先き[の数のふえ方]は計算の名人でもとらえられず、まして世間一般の人では及びもつかない。そこで、無から有へと進む場合(——すなわち絶対的な混一を言葉にのせて表現するばあい)でも三になるのであって、まして有から有へと進むばあい(——すなわち相対の世界でそれぞれの立場を論証するばあい)では無限で果てしもない。進むことをやめて、ひたすら自然のままに身をまかせてゆくばかりだ。(斉物論篇第二・五 金谷治訳・カッコや仮名遣いなどすべて原文ママ)

諸研究をもとに要約しよう。

最初の未分化の相が「一」。そこにある対象を設定して言葉による概念をつけた時点で、分化すると同時に対立概念が発生し「二」。それに、もともとの未分化の相を合わせると「三」である。未分化の相から概念化のプロセスを踏む場合でさえ三つも分化が発生しているのだから、相対的な言語の世界でこのまま概念化の作業(思考・認識)を続けていったとすると、このプロセスは無限後退の如くずっと続くことになろう。

だからこそ、その作業をやめて未分化の相(=「道」)と一体化しよう、という訳である。

いうなれば、荘子の形而上学の核心は、言語そのものが不完全なのだから、認識作業など一切やめて真存在たる「道」と一体化することで、無為自然(荘子においてはその境地を「逍遥遊」とも表現される)を目指すものだと言える。

ゆえに、荘子の中心的術語である「万物斉同」(訓は「万物はひとしく同じ」/「一である」とも表現される)とは、人為人知を捨てて分化と対立による相対世界から自由になると、すべての存在物が斉しく同じであることが真実の相として顕現することを指しているのである。

「万物斉同」の思想について詳しく語られるのが斉物論篇で、その論を開始するにあたり荘子が持ち出したのが天籟問答だ。比喩や警句に溢れた断章形式を読み進めることで、やっとその思想が朧げに姿を現すように斉物論篇は書かれているから、この節で概観した第三の要素を知らないでここだけを読んだ場合に真の文脈を把握することは不可能と断言してよい。

3.天籟問答

読解の前提となる三要素を概観したところで、それらを総合しつつ天籟問答の読解へと移ることにしよう。

もう一度記すと、天籟問答は『荘子』斉物論篇の冒頭を飾る、楚国の賢人である南郭子綦(なんかくしき)とその門弟である顔成子游のやり取りを記した部分である。

ちなみに「籟」とは、「ふえ」または「ひびき」と訓じ、1)簫(しょう・竹でできた縦笛)、もしくは、2)響き・声・音を意味する漢字であり(注15)、ここでは「人籟」「地籟」そして「天籟」という三つの笛の音(響き・音楽)が登場する。

研究者では「笛」としてとる者が多いようだが、福永のように「響き」としても、また音楽を形而下に限定しないならば「音楽」と置き換えて読んでも先の結論は同じとなる。では、さっそく問答の本文に立ち入ってみよう

3.1 「人籟」と「地籟」

ある時、子綦が肘掛けにもたれて自分の肉体の存在を忘れたかのように茫然と座っていたのを子游がみて、今までに見たことのある師の座っているさまとは違っていることに気づく描写から始まる。そして、彼は師に対して、当時老子の言葉として通用していた諺を引きつつ、「『肉体は枯れ木のようにすることができ、心は冷えた灰のようにすることができる』とは、まさしくこのことなのでしょうか」(金谷治訳)と尋ねるのである。

師は、その質問の鋭さを褒めたうえで次のように続ける。

今者(いま)、吾は我を喪(わす)れたり、汝これを知るか。汝は人籟を聞くも、未だ地籟を聞かず、汝は地籟を聞くも、未だ天籟を聞かざるかなと。(注16)

「我を喪れたり」は、「感情によって自分を見失う」という現在の日本人が使う慣用句の意味ではなく、知情意の発動を忘れ「道」と一体化した境地にいたことを意味している。

子綦が子游の質問について褒めたのは、子游が引用した老子の言葉として通用していた諺が、心身ともに無為自然の世界と一体化することを指していたからだ。子綦は、自分がそのような境地に今しがた達していたことを弟子が何となく感じ取っていたことに喜んだのである。

そのうえで子綦は「お前は人籟のことは聞いたことがあっても地籟のことは聞いたことがあるまい。地籟のことは聞いたことがあっても天籟のことは聞いたことはあるまい」(注17)と子游に投げかけ、いよいよ天籟問答の中心へと入っていく。

子綦は、「ぜひそのことについて教えてください」とせがむ弟子にこう答える。

そもそも大地のあくびで吐き出された息、それが風というものだ。これはいつも起こるわけではないが、起こったとなると、すべての穴という穴はどよめき叫ぶ。お前はいったいあのひゅうひゅうとなる[遥かな風]音を聞いたことがないか。——(中略)——微風(そよかぜ)のときは軽やかな調和(ハーモニー)、強風のときは壮大な調和(ハーモニー)。そしてはげしい風が止むと、もろもろの穴はみなひっそりと静まりかえる。お前はいったいあの[風の中の樹々が]ざわざわと動きゆらゆらと揺れるさまを見たことがないか。(金谷治訳・カッコやルビは原文ママ)

子綦は、最初に風について説明をする。現在であれば、風は空気の流れであって気圧の不均一によって生じると説明するのであろうが、知る由もない当時においては、風は「大塊の噫気(大地のあくびで吐き出された息)」とされたようだ。

続いて、その風が大地に存在する穴という穴に当たって音を立てていく様子や、それに風によって揺り動かされる自然の風景などを、中略した箇所も含めて闊達に描写するのである。

優秀かつ勘の鋭い子游は、これだけの師の言葉で、それが「地籟」の説明であることを見抜いたうえに、「地籟では大地の穴がそれにあたり、人籟では竹管がそれにあたるのですね」と理解している。

これにはもう少し解説が要るだろう。

地籟とは大地が響かせる音のことであるが、その音の発生源は師の説明によると大地の穴ということになる。そして人籟とは人が奏でる音を指し、「籟」を笛の意味だと狭義に解釈するならば、人の奏でる笛の音のことになる。笛は竹の管であるから、人籟の音を出している発生源は竹管ということになる。地籟についても、「地の笛」と解釈するなら、引用した子綦の説明は、大地の穴を笛の穴に見立て “大地の噫気” によって大地の笛が鳴るという壮大な比喩表現になる。

子游はこのことを完全に理解したから「地籟における音の発生源は大地の穴で、人籟においては竹管(の穴)ですね」と返したのである。

3.2 「天籟」と通俗的誤解の例

このやり取りの後、いよいよ師の口から天籟についての説明がなされる。次がその答えの全てである。

夫(そ)れ吹くこと万(よろず)にして同じからざるも、而(しか)も其の己(おの)れよりせしむ。咸(ことごと)く其れ自ら取るなり。怒(はげ)ます者は其れ誰ぞやと。
<訳>人籟においても地籟においても吹き方には様々あって同じではないにしろ、竹管や大地の穴はそれぞれ自分で音を出しているのだ。すべてそれ自身で音が選ばれているのである。音を出させる者はいったい何者であろうな。(いや、そんな者はいないのだ。)(注18)

非常に難解な師の答えであるにも関わらず、この言葉をもって天籟問答は終わって別内容の次章へと移行してしまい、これ以上の説明は残念ながらされていない。何度も強調するように、天籟の真意をきちんと明らかにするためには、中国の「天」概念や、斉物論篇ひいては老荘思想の全体を読み解いて荘子の形而上学である万物斉同の教えを理解しなければならない。

この寄稿を執筆する動機が、専門家と世間一般のあいだでの乖離、すなわち誤解や牽強付会を無くしたいがゆえであることは冒頭に記したが、ここで一般的な誤解、つまり“通俗”解釈の代表例を挙げておこう。そのうえで古今の学者たちによる正統的な解釈を紹介していくことにする。

2016年に講談社現代新書から出版された、浦久俊彦氏の『138億年の音楽史』にある天籟問答への言及は、一般的誤解の代表例である。一流の著者や出版編集者からも天籟問答が誤解を受けているという事実を示す格好の例でもあるから、ここに引用する。

古代中国では、老子(原文ママ)が、人間の音楽を「人籟」、自然の無数の音響が奏でる音楽を「地籟」、天球の音楽を「天籟」と称し、なかでも「天籟」を最高の地位においた・・・(以下略)(注19)

この浦久氏の著作は、膨大な情報量をもって音楽をさまざまな視点から論じ、このくだりを含む第一章は「宇宙という音楽」とタイトルが付されていて、音楽を宇宙そのものの顕現と捉える古代からの考え方についての紹介がなされている。しかしながら、この著作は学術的な正確さにはやや欠けるきらいがあり、天籟問答については見事に通俗的な誤解に基づいた記述になっている。

まず、荘子ではなく老子となっている点もそうであるが(注20)、天籟の説明は原典の意図からすると決定的に誤りである。

第一、原典には今みたように、浦久氏のいう「天球」については一言も触れられていないし、「最高の地位」においたとも書かれていない。今まで引いてきた原典をみるだけでも、浦久氏の説明は分かりやすくはあれど、荘子の真意から逸脱している疑いがあることは感じられるのではないだろうか

3.3 「天籟」の総合的読解

以下に、前章で挙げた前提知識を総合しながら荘子の真意を探ることにしよう。

原典による天籟の説明で注意すべきは、人籟と地籟にくわえて天籟という全く別の種類の “籟” があるとは言ってないことだ。あらためて断っておくが、先にあげた引用が天籟の説明の全てである。

ここでは困ったことに「天籟とは何々である」という形では一切説明されておらず、むしろ人籟と地籟を持ち出し、「それらの音の発生源たる竹管や大地の穴は音を自分で選んで出しているのである。音を出させる者など存在すると思うのか」と謎かけめいた形になっている。

そのまま読むと明らかに矛盾している。竹管の笛を吹く人の息や、大地の穴に吹き付ける噫気は、音を出させる者ではないのだろうか。

ここで、荘子の認識論的な形而上学が重要になってくる。

先にわれわれは、荘子が老子の「一二三」の宇宙生成論を認識論的に転回させたことをみた。荘子は言語の不完全さ(対立概念を発生させる分化作用・言葉による思考の相対性)を強調し、未分化で一たる「道」が、言語を用いる人間の小賢しい認識作用によって分裂して反自然に陥るのだから、それを放棄して「道」へ向かって遡行せよ、と説いたことを思い出したい。天籟問答を嚆矢として同じような断片的な章が続く斉物論篇はすべてその主張のために書かれている。

前にあげた、「どんな美女であっても魚は出会うと水底ふかくに潜ってしまう」というのは斉物論篇の一章であるし、斉物論篇の別の箇所には、「この世界でもっとも大きいものは秋の動物の毛先で、もっとも小さいものは泰山である」(注21)というふうに、言語で粗描される世界の相対性を強調して、世間の常識に挑戦している。

そして、そのような言語による対立と相対の世界を超越するならば、そこには「天地も我れと並び生じ、万物も我と一たり」(同箇所の直後の文章。金谷訳によると、「天地の長久もわが生命とともにあり、万物の多様もわが存在と一体である」)という「道」の境地が待っているのである。宗教的かつ神秘主義的なものを読み取らずにはいられない、大変なインパクトがある表現である。

このような斉物論篇の文脈をきちんと把握するならば、「(人籟・地籟の)音を出させる者などいようか」という、反語で終わった天籟問答の謎かけの真意がみえてくる。

常識に囚われる者には、人籟は人間の息が、地籟は大地の噫気が、それぞれ「音を出させる者」すなわち「音が出る原因」であることを疑うことが出来ない。したがって常識人には矛盾した謎かけにしか映らない。

ならば、荘子の認識論的形而上学の視点から捉え直してみよう。そうすると、この問答が矛盾した謎かけになってしまうのは、常識人が原因と結果という因果律に基づいて思考しているためであるということが分かる。この点をふまえて、因果律という論理思考の基礎中の基礎さえも放棄させることを意図した天籟問答である、と考えるとどうであろうか。

子綦による天籟の説明のうち、最初の「夫れ吹くこと万にして同じからざるも」は比較的素直に読解可能である。常識人からは人籟・地籟が鳴る原因と考えられている息や噫気について、その吹き方には千差万別な形態があることを言っている。

問題はその後だ。このように音を出す原因が確かにあるように見えるにも関わらず、子綦に仮託した荘子は、すべての竹管や大地の穴そのものが自律的に音を出して選んでいるのだと主張する。極めつけが最後の句で、「音を出させる者などいない」で結ばれる。

とても奇妙にみえるが、「一なる道」への帰還に際して邪魔なものだから因果律を放棄せよと迫るのが真意ならば、「竹管や大地の穴がせっかく自律的な音を出しているのだから、原因を思考することなど止めよ」というメッセージがここから浮かび上がってくる。というのは、竹管も、大地の穴も、ありのままの姿において無為自然であり、天命による自分の本来的な在り方を達成しており、既に自律的なのだ。(前章第2節で考察した「天」「天命」についてもう一度思い出されたい。)

そのような自律的な人籟や地籟の音楽に対して、「吹かせる者」を探るような小賢しい思考(因果律)を巡らすと、その瞬間からその自律的な音楽が姿を消し言葉による対立世界に迷い込んで「道」から遠ざかってしまう。すなわち、天籟とは、人籟と地籟を、言語認識を超越して“ありのままのもの”として聞くことで聞こえる音なのである。

この部分の注において、福永光司も金谷治も、人籟と地籟を併せ形而下における全ての音世界をあらわす「万籟」という言葉を使って、「『天籟』とは、この自己自身の原理によって響となる万籟を、そのまま万籟として聞くことにほかならない」(注22)「天籟は、人籟地籟の外に別にあるのではなく、それら現象の万籟の中に鳴りひびいている」(注23)と解説している。

言い換えると、すべての現象世界の音は、それ自身では既に天籟として自律的に鳴り響いていて、人知人為を放棄した「道」の境地にある者のみが正しくそれを聞くことができる。そして、その天籟を聞いている状態が、子綦が語った「吾は我を喪(わす)れたり」なのである。

3.4 運命の主宰者、人格神の不在

ちなみに、森三樹三郎によると、天籟問答からは別のメッセージも導き出すことができる。それは運命の主宰者、つまり人格神の不在という命題である(注24)。

形而上学的に因果関係を突き詰めていくと、究極の原因は何かという議論は避けて通れない。その典型例がアリストテレスの目的論的自然観であり、究極の原因として「不被動の動者(kinoun akineton)」すなわち「神」を設定せねばならなかった(注25)。

しかし、因果律をも放棄する荘子にはそのようなものは不要であったため、人籟地籟天籟を背後から操る者の究極の存在をも明確に否定することになったのである。絶対的法則・運命としての「天」の思想を、荘子は独自の形而上学で徹底することになったと言えよう。

4.終わりに

以上で、『荘子』斉物論篇の天籟問答を総合的に読解し、荘子が意図した真の文脈を把握するという目的は達せられたはずだ。

「万物が自然的に自律的に鳴り響かせる音楽を、我を喪(わす)れて聞く」のが天籟問答の要諦である。認識活動という人為人知に縛られた状態では、人籟と地籟が聞こえるのみであって、自分の精神状態が無為自然へと変化することによって、自己と対象の関係性も変化し、その結果として “聞こえてくるもの” なのである。また、その精神状態や関係性なども引っくるめて天籟であると解釈も十分に可能で、その意味では禅やヨーガに通ずるものがあり、神秘的だ。

同時に、この箇所が誤解や牽強付会を広く招きやすい理由についても示されたはずだ。

みてきたように、完全理解の為に前提となる予備知識が多く、かつそれに深さを求められる。原文も晦渋で、その神秘性や秘教的雰囲気が、読み手に荘子の真意を逸脱した解釈を許す。先に例として出させてもらった浦久氏が見誤ったとしても仕方ないことだ。

もう一度整理すると、天籟は、プトレマイオスやボエティウスに代表される西洋における伝統のような、「天球の音楽」として単体で形而上的に存在するものではなく、音のジャンルの名前でもない。天籟を聞けるような「道」の境地に到達することは奨励されたにせよ、音としての天籟を最高位とした事実もない。

天籟問答の射程は広く、古代中国思想にとどまらず、古代西洋のように宇宙を音楽とみなす思想、特に禅を中心とした仏教、宇宙との一体化を唱えたインド思想、神人合一を目指す神秘主義など、さまざまな文脈で比較検討されうる。

この素晴らしい可能性を正しく享受するために、本寄稿が役立つことを願う。

1 森三樹三郎(1969)『「無」の思想』講談社現代新書 p. 63
2 福永光司(2013)『老子』ちくま学芸文庫 p. 62
3 安岡正篤(1991)『知命と立命』プレジデント社 p. 64
4 森 前掲書 p. 56 ~ 57, 68
5 福永 前掲書 p. 310
6 福永 前掲書 p. 310 ~ 311
7 福永 前掲書 p. 66 ~ 67 及び、森 前掲書 p. 13
8 金谷治(1997)『老子』講談社学術文庫 p. 142
9 福永 前掲書 p. 18 及び p. 170
10 「気」も、「天」などとならんで中国独特の概念で、古代中国人が万物は気体状の物質から構成されていると考えたことに由来し、陰と陽の気による二元論で自然現象を説明する習慣も出来上がった。『淮南子』天文訓に体系的説明があり、その説明が『日本書紀』冒頭に引用された。(森 前掲書 p. 77 ~ 78)
11 ここでは明和本ではなく、より意味が伝わりやすい王弼本に従った書き下しを用いた。 
12 蜂谷邦夫(2002)『荘子=超俗の境へ』講談社選書メチエ p. 98
13 森三樹三郎がまさに指摘する通り、日本語の「分かる」も同じ意味の漢語の「弁」も分けることを意味することを思い出せばよい。(森 前掲書 p. 39 ~ 40)
14 金谷治(1971)『荘子 第一冊[内篇]』岩波文庫 p. 77
15 日本漢字能力検定協会による「漢字ペディア」による
16 この書き下しは金谷治のものを土台に用いつつ(前掲書41ページ)、一部を福永光司に従った。(福永光司(2011)『荘子 内篇』講談社学術文庫 p. 48)
17 蜂谷邦夫訳 蜂谷 前掲書 p. 104
18 金谷治と福永光司による訳を要約する形で示した。
19 浦久俊彦(2016)『138億年の音楽史』講談社現代新書 p. 24
20 この直後に荘子について言及していることから、単なる誤記ではないと思われる。
21 斉物論篇第二・五
22 福永 前掲書(『荘子』) p. 53
23 金谷 前掲書(『荘子』) p. 44
24 森 前掲書 p. 54 ~ 55
25 今道友信(2004)『アリストテレス』講談社学術文庫 p. 133

主要参考文献(注で記したもの以外)

玄侑宗久(2010)『荘子と遊ぶ 禅的思考の源流へ』筑摩選書
立川武蔵(2003)『空の思想史』講談社学術文庫
張鐘元(1987)『老子の思想』(上野浩道訳)講談社学術文庫
辻直四郎(1990)『ウパニシャッド』講談社学術文庫
久松真一(1987)『東洋的無』講談社学術文庫

本論文の初出

武蔵野学院大学日本総合研究所研究紀要《第16輯・2019》p. 207~217・大学側の転載許可済み

執筆者プロフィール:伊藤玲阿奈 Reona Ito
指揮者・文筆家。ジョージ・ワシントン大学国際関係学部を卒業後、指揮者になることを決意。ジュリアード音楽院・マネス音楽院の夜間課程にて学び、アーロン・コープランド音楽院(オーケストラ指揮科)修士課程卒業。2008年のプロデビュー以降もニューヨークを拠点に、カーネギーホールなど各地で活動。2014年「アメリカ賞」(プロオーケストラ指揮部門)受賞。武蔵野学院大学客員准教授。2020年11月、光文社新書より初の著作『「宇宙の音楽」を聴く』を上梓。タトル・モリエイジェンシーのnoteで『ニューヨークの書斎から』を連載。

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