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月、日(「物に立たれて」を読む・02)

「「物に立たれて」(「物に立たれて」を読む・01)」の続きです。古井由吉の『仮往生伝試文』にある「物に立たれて」という章を少しずつ読んでいきます。以下は古井由吉の作品の感想文などを集めたマガジンです。

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 引用にさいしては、古井由吉作の『仮往生伝試文』(講談社文芸文庫)を使用します。

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 まず、前回の記事をまとめます。

 古井の小説の小説だけでなくエッセイでも、物が立ち、物がそこにあるかたちで、登場人物(小説の場合です)や、古井(エッセイの場合です)に働きかけてくるという言葉の身振りが見られます。
 つまり、「物が立つ」とき、しばしばその物が人物に働きかけるのですが、これは人から見ると「物に立たれている」ことにならないでしょうか? 
・(物が)立つ ⇒ (人は物に)立たれる
「ともぶれ(共振)」です。共に振れると言っても、振れるのは人のほうなのですが、この「振れる」は、「震れる」、「触れる」、そして「狂れる」までいくことがあります。

 では、今回の記事を始めます。


*引用


 物に立たれて

 十二月二日、水曜日、晴れ。
 深夜の道路端に車を待って立つ客の姿は、ひょんな場所ところだろうと、商売柄、遠くから目に入るものだが、たまに、すぐ近くに来るまでその人影のまるで見えない客がある、とタクシーの運転手が話したのを聞いたことがある。いま、そこに立ったのはないことは、気がついた時に一目でわかる、という。その辺の光線のぐあいや運転するほうの目のせいばかりでなく、服装や体格にもあまり関係なく、とにかく姿の見えにくい、そんな客はあるものだ、と。
 それでも早目に気がつけば車を寄せる、ぎりぎりになっても寄せられないことはないのだが、なんだか運転の呼吸が狂わされそうで、悪いけど通り過ぎてしまうこともある、と。
(古井由吉「物に立たれて」(『仮往生伝試文』・講談社文芸文庫所収)・p.259)

*月、日、曜、晴


・「十二月二日、水曜日、晴れ。」:

『仮往生伝試文』では各章が、説話をめぐっての文章と、日記体の文章に分かれています。「物に立たれて」は、いきなり日記体の文章で始まっているですが、この始まり方をしているのはこの章だけです。

「物に立たれて」という章の出たしは、「十二月二日、水曜日、晴れ。」です。日記体の文章ですから、日付と天気で始まることは不思議ではありません。

 ただし、日記と、小説のなかにある日記体の文章とは異なることを忘れてはならないと思います。フィクションなのです。

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 上にあるこの章の見出しに「月、日、曜、晴」と書きましたが、この四つの文字に共通するのは何でしょう?

 読むのではなく、字面(文字の顔)を見るとわかりますが、「月」を除いて、「日」という文字が見えます。

 見方によっては、「晴」には「月」があるように見えますが、漢和辞典の解字を見ると、「日」の右にある「青」の下のほうにあるのは「月」ではないそうです。月に見えるから月でいいと私は思いますけど。

 ここは漢和辞典の記述を受け入れて、「月、日、曜、晴」には、「月」が一つと、「日」が見える漢字が三つあるということにしましょう。

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 なんでこんなことを問題にしているのかと言いますと、こういうことが私は好きなのです。文字や活字を見ることが、私の趣味なのです(ただし、日常生活で誰かにそう言ったことはなく、「読んでいる」振りをします)。

 今回は、このことだけをテーマにします。体調を考慮して記事をできるだけ短くするためです。

*月、日


 小説であれエッセイであれ、古井由吉の文章を読んでいると、同じ文字(漢字)がよく出てくるし、よく見えることに気づきます。

『仮往生伝試文』に話を絞ると「月」と「日」がよく出てきます。異常に多い章もあります。

 これには理由があります。「月」と「日」が多いと感じるのは、各章に日記体の部分があり、日記体の文章は「○月○日」で始まるからにほかなりません。それだけでなくても、多いと私は感じます。

*明月記


 圧巻は「いま暫くは人間に」という章(p.140から)の終盤で、この部分は「明月記」という藤原定家の日記からの引用から成り立っていますから、当然のことながら「月、日」がたくさん出てくるわけです。何の不思議もありません

 それにしても、気になります。

 当然だと思いながらも、いったん気になると不思議にも思えてきます。不思議でたまらないのです。当然と不思議は同義なのかもしれません。近いことは確かです。

「いま暫くは人間に」というタイトルをよーくご覧ください。「日」というかたちが四つ見えませんか? 文字とは言いません。かたちです。

 こういうことが気になると、ほかのことも気になるものです。

*「日、月、白、明」、さらには「見、目、耳、自」


 書棚にある古井由吉の本をいくつか引っ張り出してきて、あちこち見ました。別の作家の本とも見比べました。

 結論から言いますと、

「日、月、白、明」、さらには「見、目、耳、自」

という「かたち」に満ちているように見えてなりません。特に『仮往生伝試文』という本のなかの文章には尋常ではないほど目立つのです。

 とはいえ、この本のタイトルである『仮往生伝試文』にはないです。いや、強いて言えば「試」に見られる「言」でしょうか。

 でも、かなり苦しいだじゃれみたいで、ここまでくるとみっともないので、「言」は引っこめます。本当は「口」もかなり目につくのですが、これも残念ですが引っこめます。

 それにしても気になります。面倒なのでいちいち数えはしませんけど、「日、月、白、明」、そして「見、目、耳、自」が目についてなりません。

 ぱらぱらとページをくくっているうちに、何だか気持よくなってきました。

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 よくあることなのです。字面を眺めていると意識が遠のくのです。試してみませんか。別に古井由吉の文章でなくてもかまいません。どんな文にでも意外とあるものです。

 上の漢字やつくりやへんや部分的なかたちに注目して、読んでみるのです。もちろん別の漢字でもかまいません。自分が気になる漢字であることが大切なのです。

 文章観なんて言うと大げさですが、文章の見方が変化したら楽しいと思いませんか。どうです、やってみませんか? あなたのなかの何かが変わるかも。

 駄目ですよね……。

 宗教の勧誘じゃあるまいし、誘っちゃいけません。ごめんなさい。ふざけているわけではないことは理解してください。

*著者目録


 なんだか、でれーっとしてきたので、しゃきっとするために、意識的にこの作品の文庫版の後ろのほうにある「著者目録」を調べてみました。

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 円陣を組む女たち、杳子・妻隠、櫛の火、聖、哀原、夜の香り、椋鳥、親、山躁賦、グリム幻想、明けの赤馬、眉雨、「私」という白道、フェティッシュな時代、日や月や、ムージル 観念のエロス、長い町の眠り、楽天記、魂の日、半日寂寞、陽気な夜まわり、白髪の唄、山に彷徨う心、夜明けの家、聖耳、ひととせの 東京の声と音、聖なるものを訪ねて、白暗淵、半自叙伝。

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 書名だという約束事である邪魔な二重かぎ括弧をはずして文字たちのかたち(顔と言ってもいいです)を眺めていると、幸せな気分になります。

「わかった」とか「発見した」という知的な興奮ではないことは断言できます。そんな高尚なものであろうはずがありません。

 なにしろ、「正しい」か「正しくない」なんて求めてはいないのですから。私はそれほど贅沢でも欲深くもないつもりです。

 かたちを見留めて気づいたところで、物知りになったり賢くなるといったたぐいの話ではぜんぜんないのですから。

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 また、他の作家や文章と比較するのも意味をなしません。文体の特徴とか、ある作家が使う言葉や表記の頻度などという小賢しげで詮索好きな分析とも無縁の作業である、と言いそえておきます。

 あくまでも、趣味でやっていることなのです。

 漢字の物質的な側面である字面やかたちの特徴については、漢字や漢字のつくりを学びはじめたばかりの小学生や、日本語を母語としない学習者の方々のほうが、めざとく目がいくのではないかという気がします。

 知識や教養はかえって邪魔になるのではないでしょうか。

 とはいっても、この種の「まなざし」が文芸批評の一手法としてもちいられないわけではなく、いろいろな人がやっているみたいです。

*書き写す


 円陣を組む女たち、杳子・妻隠、櫛の火、聖、哀原、夜の香り、椋鳥、親、山躁賦、グリム幻想、明けの赤馬、眉雨、「私」という白道、フェティッシュな時代、日や月や、ムージル 観念のエロス、長い町の眠り、楽天記、魂の日、半日寂寞、陽気な夜まわり、白髪の唄、山に彷徨う心、夜明けの家、聖耳、ひととせの 東京の声と音、聖なるものを訪ねて、白暗淵、半自叙伝。

 上の書名たちをPCの画面で見ながら、近くにあった紙のうえに書き写してみました。

 とりわけ「日」「月」「白」「目」というかたちをゆっくりとなぞるさいに、火照りを覚えて顔が上気してくるを感じることがあります。

 生前の古井由吉は、何度も何度もそのかたちをペンで、あるいは下書きにつかったという鉛筆でなぞっていたはずです。

 こんなことを書くと、酔狂だとか単なる感傷だとか、あるいは、ちょっとここが変じゃないのと言われそうですが、それでもかまいません。ある種の供養だと思っています。

*聖、樹、陽


 供養という言葉でしんみりしてきましたので、近くにあった古井由吉の短編集『聖耳』(講談社)を開き、そこに並んでいる言葉に遊んでもらいます。

 上で取り上げた「日、月、白、明」、そして「見、目、耳、自」だけでなく、「口」にも注目します。それらの文字に目を注ぐのは、短編集『聖耳』が声と音に耳を澄ます身振りに満ちた作品だからです。

 声と音だけの世界を言葉にしている作品集なのですが、凄味を感じます。短編集全体のタイトルが『聖耳』であり、「耳」と「口」が同居する「聖」という文字がもちいられていることは無視できません。

 私が持っているのは単行本なのですが、現在は文庫版があるようです。

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「聖」という漢字は、古井由吉にとって特別な文字だと私は感じます。漢和辞典で調べると、「名前」のところに、ひじり、あき・あきら、さと・さとし・さとる、たか・たかし、といった言葉が見えます。

「「物に立たれて」(「物に立たれて」を読む・01)」で触れた『杳子』の視点的人物である「彼」の名前は、作品の後ろのほうで「S」だと明かされるのですが、その「S」というイニシャルをめぐって考えているときに、複数の漢和辞典を漁って「聖」の「名前」の項をさかんに眺めていました。

 あと、次の文章を書いたこともありました。

は漢和辞典の解字の欄を見ると、「目+深い谷」とあり(漢字源より)、深い谷を見つめるさまが見えてきます。まるで『杳子』の冒頭ではありませんか。睿には「さとい、あきらか」のほかに「ひじり」なんて訓義もあるそうです。古井的な言葉とそのイメージを感じないではいられません。
(拙文「まばらにまだらに『杳子』を読む(08)」より)

 なお、「睿」という美しい文字は、『古井由吉 文学の奇蹟』(河出書房新社)のインタビューをお読みいただくのがいちばんなのですが、講談社文芸文庫にある古井由吉の作品(集)の巻末にある年譜や、ウィキペディアの古井由吉の項(概要)をご覧になっても、その文字の姿を見ることができます。作家古井由吉にとってというより、一人の人間古井由吉にとって、もっとも大切で愛おしい文字だったはずです。

 ほのめかした言い方で申し訳ありません。微妙な話なのです。

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 前回の記事でも引用しましたが、『杳子』の最後にはとても印象的な描写があります。

家々の間をひとすじに遠ざかる細い道のむこうで、赤みをました秋のせ細ったの上へ沈もうとしているところだった。
(古井由吉『杳子』(『杳子・妻隠』所収・新潮文庫・p.170・太文字は引用者による・以下同様)

陽(日)が樹(木)の上へ沈もうとしているところ:まもなく陽(日)が樹(木)の下に沈む。

 陽・日 ⇒ 
 
樹・木 ⇒ 

 つまり、

 というふうに。

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 以前は「樹」は「S」であり、「陽」は「杳子」ではないかと考えたこともありました。というのは、以下のような箇所があるからです。「ヨウコ」という表記は、これ以降何度か出てきます。

という者ですが、ヨウコさんは御在宅でしょうか」と初めて口にする《ヨウコさん》という言葉にぞっとするような異和感を覚えながら言うと、「少々お待ちください」という無表情な声とともに受話器がコトリと台の上に置かれて、足音がたしかに階段を昇っていった。
(pp.133-134)

・「杳子」⇒「ヨウコ」⇒(実は「杳子」は「陽子」(同音でも意味が正反対になるのが気に掛かる)なのではないか?)
・「樹」⇒「樹・たかし」「聖・たかし・さとし・さとる」⇒(「樹」は「S」とはつながらない)

 漢和辞典の「名前」の項にある、「樹」と「聖」に共通する「たかし」つながりでも、「聖」の「さとし・さとる」という読みでも、「S」にはつながらず、こじつけは諦めたのですが、未だに気(樹・木)に掛かります。

 樹に掛かる 陽の名を呼んで 彼方見る 

 いつかあの世で、もし古井先生にお会いする機会があれば、真っ先にお尋ねしようと思っています。

     *

 謎解きなんていう無粋なことはお止めなさい――。

 いつだったか、そんなふうにおっしゃる夢を見たことがあるのですが、たぶん、黙ったまま、にこにこなさるだけ――、そんな気がします。

*聖耳


 話を戻します。短編集『聖耳』所収の表題作である『聖耳』という作品の見開き二ページの話です。

 くり返します。

 上で取り上げた「日、月、白、明」、そして「見、目、耳、自」だけでなく、「口」にも注目します。それらの文字に目を注ぐのは、短編集『聖耳』が声と音に耳を澄ます身振りに満ちた作品だからです。

 声と音だけの世界を言葉にしている作品集なのですが、凄味を感じます。短編集全体のタイトルが『聖耳』であり、「耳」と「口」が同居する「聖」という文字がもちいられていることは無視できません。

     *

 その二ページにある文章のなかにある「日、月、白、明、見、目、口、耳、自」という「文字ではなくかたち(顔)」に目が行ったところで、立ち止ってみます。

 文章を書き写すのが大変なので、第一行から順に目につく文字(かたち・顔)だけを拾ってみます。

 以下は、「日、月、白、明、見、目、口、耳、自」という「かたち・顔」が見えたと感じた文字です。

1行目.曙
2行目.指、薔、薔
3行目.誰、昨、肌、昇、明、白
4行目.部、脆、眠、日、明、堵、息、吐
5行目.眠、(据)、同、時、日、始、日
6行目.復、自、者、明、繰、尋、過
7行目.
8行目.昇、朝、曙
9.行目(身)、明、郭、(血)、(滴)、部、暗
10行目. 味、朝、目、(覚)、(苦)
11行目. 息、呼、曙、(褪)
12行目. 明、(潰)、晴、曇
13行目. 陽、高、(頃)、部、(面)、者
14行目. 膳、同、朝、取、者、階、口、喫、服、
15行目. 者、(廊)、朝、口、眠
16行目. 散、(開)
17行目. 遠、(道)
18行目.(賑)
※『聖耳』(『聖耳』所収の表題作・講談社・単行本 pp.248-249)

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 みなさんも、ひとつ試してみませんか。上の続き(19行目から)です。

 昨夜、担架車に載せられて帰るのを、下の渡り廊下から見たよ、と話すのが聞こえる。
 雨の夜明けにも曙光らしきものを見た。暗天のままに、降りしきる雨の、雨脚がほんのりと染まった。一瞬のことだった。目を瞠ればその名残りもなかったが、身体の内で後れて薄紅がふくらんで、顫えながら天を指して昇った。呆れて窓から離れ、休憩所の椅子に座りこみ、まだ明けようともせぬ廊下をただまっすぐに眺めて、格段思うこともないのに考えこむようにしているうちに、むこうはずれの病室から起き抜けの寝間着の老女が現われ、ゆらりゆらりとこちらへ歩き出し、洗面所の前を過ぎて、配膳室にも入らず、急用の電話に起きたのかと思うと、まっすぐに寄って来て、年の程のちょっと分からぬ顔になり、黙って隣の椅子に腰をおろした。人には構わず背をまるめて頭を前後に揺すり、早目に破れた眠りをここで取り返そうとするのか、今にも寝息が立ちそうに見えたが、右手は膝から浮かせて、宙にゆるく握りしめ握りしめしていた。
『聖耳』(『聖耳』講談社・単行本)所収・ pp.248-250)

     *

 「日、月、白、明、見、目、口、耳、自」という「かたち・顔」を拾うと、たぶん次のような感じになると思います。

19行目. 昨、担、架、(廊)、見、話、聞
20行目. 明、曙、見、暗、脚
21行目. 瞬、目、瞠、名、(身)、顫
22行目. 指、昇、呆、憩、椅、明、(廊)
23行目. 眺、格、別
24行目. 間、(着)、現、(面)、前、過
25行目. 膳、話、寄、程
26行目.(顔)、椅、腰、背、頭、前、早、目
27行目.破、眠、取、息、見、右、膝
28行目.(握)、(握)

 こじつけもありますが、ご容赦願います。あくまでも戯れですので。

 執筆時に、ワープロ専用機もパソコンも使わなかった古井が、こうしたかたちをペンや鉛筆で一つひとつなぞったのだと考えると、私の指は震えてきます。

*まとめ


 十二月二日、水曜日、晴れ。

 今回は上の箇所を読みました。

えーっ!?冗談は顔だけにしてくれ」とかおっしゃらないでください。冗談で言っているのではありませんので。

 いずれにせよ、このようにゆっくりと進めていきますので、どうかよろしくお願いいたします。

 では、今回のまとめを以下に書きます。

 小説であれエッセイであれ、古井由吉の文章を読んでいると、同じ文字(漢字)がよく出てくるし、よく見えることに気づきます。
 たとえば、『仮往生伝試文』に話を絞ると「月」と「日」がよく出てきます。この連載で読んでいる「物に立たれて」という章の冒頭である、「十二月二日、水曜日、晴れ。」にも、その「かたち」が見えます。
「月」と「日」がよく出てくる、それなりの理由のある章もありますが、あえて理由は考えなくてもいいと私は思います。よく出てくるなあ、と気づくことが大切なのです。
 ある日ある時の古井由吉は、多くの可能性と選択肢の中から、あえてそのフレーズや文を書いたのであり、そのさいにその文字を選んでつかったと考えられます。それは意図や思いや癖などという抽象を超えた具体的な行為であったにちがいありません。
 その具体的な出来事の結果が、文字という「かたち」を取っているのですから、その文字は、もはや「物」と言うしかない動きと身振りの痕跡だと言えるでしょう。
 尊敬する作家の文章で気になる部分があると、私はノートにペンで書き写すことがあります。なぞるわけですが、何かを感じます。震えるほどの何かの場合もあります。ただし、私はそれが何なのかは詮索はしないでいます。
 私はそれをなぞるだけ。

     *

 この「「物に立たれて」を読む」というシリーズは、こんな調子でマイペースに進めていくつもりです。なお、記事は不定期に投稿します。

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