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とりあえず仮面を裏返してみる(断片集)

 今回も断片集です。見出しのある各文章は連想でつないであります。緩やかなつながりはありますが、断章としてお読みください。今後の記事のメモとして書きました。


看板、サイン、しるし


 そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極きょうごくを下って行った。
(『檸檬』(『梶井基次郎全集 全一巻』ちくま文庫)所収・p.21)

 街を歩くと看板がやたら目に付きます。目に付くと言うよりも、こちらが無意識に探しているのかもしれません。無意識に物色しているとも言えそうです。

 たぶん、そのようにできているのでしょう。看板は人の目を惹いてなんぼだという気がします。

 看板はほぼ垂直に、つまり地面に対して直角に立ててあったり、壁面に掛けられていたり、貼られていたりします。

 板に何があるのかというと、文字、絵、写真、場合によっては動画です。動画はかつてのネオンサインが進化したものなのでしょうか。

 ネオンサインどころか、私には想像もできない最新の技術を使った仕組みで動いているにちがいありません。

     *

 neon sign(ネオンサイン)、signboard(サインボード)――「sign・サイン」には看板や掲示板という語義がありますが、その他にも興味深い意味があって、英和辞典でその訳語を眺めて楽しむことがあります。

 sign:しるし、標識、記号、符号、信号、合図、サイン、手まね、身振り、合い言葉、暗号、標示、掲示、看板、ネオンサイン、様子、気配、そぶり、徴候、前兆、傷痕、形跡、臭跡、お告げ、(神の)奇跡、(占星の)宮・シグヌム、署名する、記名する、署名させて雇う、契約する、手振り身振りで知らせる、手話(を使う)、合図する、目くばせする、十字を切る
(リーダーズ英和辞典・研究社を参照)

 要するに、sign は「しるし」のようです。そう考えると、看板が「しるし」見えてきます。

しる、知る、領る


 しるし、しるす、印す、標す、識す、記す、誌す
 しる、知る、領る

 こうやって見ていくと、表札も「しるし」であることに気づきます。「ここは私(たち)のおうち」というわけです。

 確かに、「ここは私(たち)のものだ」としるした標識や看板が多いことに気づきます。たいてい、名前、つまり人名や地名が書いてあるのです。

「しるし」とはマーキングの結果にほかなりません。ヒトですから唾を付けているのでしょう。

 何て書いてあろうと、何が描かれていようと、その「しるし」をそこに設置したヒト(たち)の縄張り、テリトリー、領地だという「しるし」なのです。

マーキング、複製、大量生産


 身近にいる動物のマーキングを見ていると分かりますが、マーキングという行動は、そこらじゅうで、ちょいちょいという感じで迅速におこなわなければなりません。

 時間をかけての丁寧なマーキングなんて見たことがありません。記念碑とか銅像くらいのものでしょうか。

 やっぱり話は看板に落ち着きます。なにしろ、ぺらぺらか、そこそこ薄いか、ちょっと厚みがあるくらいのものが多いようです。

 一箇所だけのマーキングなら豪華で立派な看板で済みますが、あちこちで宣伝しなければならないとなると、同じものをたくさん作らなければなりません。

 つまり、複製です。

 街を歩いていると、同じ看板があちこちにあります。どれもが複製したものだと思われます。大量生産したと考えられる複製も目につきます。

 数が多いほど、ぺらぺらひらひらしています。看板というよりも張り紙(貼り紙)とかちらしです。

寿命、板、仮面


 sign(サイン・看板)、signboard(サインボード・看板)――。

 看板(サイン・sign・しるし・文字・写真・絵・動画)には寿命があります。いつまでもあるわけではなく、いつか撤去されます。

 とはいうものの、よく考えると、看板(サインボード・signboard)に寿命が来るというよりも、看板(サイン・sign・しるし・文字・写真・絵・動画)のほうに寿命が来るようです。

 寿命が来て撤去されるのは看板(サイン・sign・しるし・文字・写真・絵・動画)で、ボード(板)だけ残ることもあります。

 記事の冒頭で引用した「そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極きょうごくを下って行った。」は、梶井基次郎の『檸檬』の最後のセンテンスなのですが、映画の写真の看板がまさにそうです。寿命が来ると取り替えられるのです。

 儚いです。切なくて涙が出そうになります。

     *

 取り替える、付け替える。貼り替える。入れ替える。ひっくり返す。

 裏返す。裏側に回る。取り替える。

『批評 あるいは仮死の祭典』そして / あるいは『仮往生伝試文』
『仮往生伝試文』そして / あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』
(拙文「かりにこれが仮の姿であり仮のからだであれば、人はここで借り物である言葉をもちいて、かりの世界を思い浮かべ、からの言葉をつむいでいくしかない。」より)

     *

 仮面やお面を連想します。看板は、仮の面、仮の顔、借りた顔。

 ヤドカリにも似ています。看板は、仮の宿、借りた宿。いつかそこを出て行く。

 仮と借りはつながりそうです。ひょっとしたら同源かもしれません。とはいうものの、源をたどろうとする身振りは「かり・かりる」には似合わないようです。

仮・借り、かりる、とりあえず


 さかのぼろうとせず、坂はとりあえず﹅﹅﹅﹅﹅転げ落ちればいいのです。A rolling stone gathers no moss.

それをとりあえず﹅﹅﹅﹅﹅読んでみるとどうなるか。
(蓮實重彥「とりあえずの「序章」」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・p.17)

だから、希薄化された世界という名の「思考」の視界から素早く姿を消す「作品」の悪意をめぐって、とりあえず﹅﹅﹅﹅﹅の「終章」はひたすら無責任であることしかできない。
(蓮實重彥「とりあえずの「終章」」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・p.232)

『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』でもっとも頻度の多い文字列の一つは「とりあえず﹅﹅﹅﹅﹅」かもしれません。

 私のようなうじうじした性格の人間にとって、「とりあえず」は背中を押してくれる言葉です。

とりあえず仮面を裏返してみる


 ここからの話は拙文「立体人間と平面人間」をお読みになると分かりやすいかもしれません。

 自分には立体の時と平面の時があるような気がします。正確に言えば、自分を立体として意識している時と平面として意識している時があるのです。
(「立体人間と平面人間」より)

 私たちは立体の世界で立体として生きているはずですが、案外平面の世界で平面としても生きているのかもしれません。平面として、というのは意識のレベルで、です。

 たとえば、いま平面上の文字列(この文章のことです)を読んでいるあなたは立体でありながら、同時に平面上にいるはずです。意識が平面化していないと文字は読めないからです。
 
 ここからは、もしそうであればの話をします。「アホらしい、ついていけないわ」とお思いであれば、次の見出しの文章に移っていただいてかまいません。勧誘はいたしませんので。冗談ではなく。

     *
 
 平面を裏返す。平面の裏側に回る。平面を取り替える――。

 それらが無理なら、とりあえず﹅﹅﹅﹅﹅仮面をまとい、仮面を緩め、仮面を裏返してみたらどうでしょう。あくまでも、その振りをする、つまり演じるのです。

 というか、それを何度もくり返すのが人生ではないでしょうか。

 もしそうであれば、くり返してしまうのではなく、意識してその反復を演じてみるのです。具体的には、とりあえず﹅﹅﹅﹅﹅いままとっている仮面を裏返す形で反復してみてはどうでしょう。何度も裏返すのです。

 仮面とは、あなたが借りたもので、他人があなただと思っているもののことです。裏返すとは、借りたものを仮のものとして再び意識的に演じることです。

 借りたものを仮のものとして意識して演じる――意識することで仮面が裏返ります。仮面を脱ぐとか取り替えるのではありません。まとっている仮面はそのままですが、仮面だと意識することで、そっくりひっくり返るのです。

 以上が蓮實重彥経由によるジル・ドゥルーズの言う「仮面」と「反復」の私なりの理解です。

それにもかかわらず、「模像」の抑圧をまるでなかったものとして忘れたふりを装うことで、思考はその二義的で模倣的な選別を、始源的な身振りとして定着するに至ったのだ。しかも、「幻影」と呼ばれる不実きわまる怪物の犠牲の上に、根源と派生、起源と反復といった幾つもの観念的な対立概念を捏造し、始まりにあったものの模倣的再現を侮蔑と軽視の対象に仕立ててしまったのだ。しかしその模倣的再現なるものが「反復」の倒錯的=戦略的な衣装にすぎないことは、あえていうまでもあるまい。
(蓮實重彥「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差異と反復』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・pp.109-110)

「反復」という現象は、水面をのぞきこむナルシスとその影像のように、代置されえぬものとしての関係ではじめて可能となる身振りであり、恒常的な秩序や法則に律儀に従属したりするものではない。
(蓮實重彥「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差異と反復』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・p.111)

signboard、sign、board


 話を戻します。

 いずれにせよ、ボード(板)の上に新しく別の看板(サイン・sign・しるし・文字・写真・絵・動画)が取り付けられるという感じでしょうか。

 看板(signboard)という言葉には薄っぺらいイメージがありません。そもそも板やボードは、それなりの厚みがあるものを指すからかもしれません。

 signboard=sign+board ですが、サインに比べてボードのほうが厚くて丈夫だというイメージでしょうか。

 ボード(板)にサイン(しるし)を貼り付けたり貼り付ける感じ。サイン(しるし)にはぺらぺらひらひらというイメージがまといついているようです。

 ヒトのマーキングの特徴は、ぺらぺらひらひら。

看板、化粧、仮面


 看板は人の目だけでなく心を惹きつけるためのものですから、それをかかげる場所も考えなければならないでしょう。

 いっぽうで、こっそりと人目に付かないところに看板を立てるというのも、訳ありぽくて興味をそそられる話であり、この設定から小話が作れそうです。

 よく見ていると看板にはずいぶん怪しげな、場合によっては妖しげなものもあります。

 あれはいったい何なのだろう? 誰に向けて、あんなところに立っているのか? 

 立てた者は何をたくらんでいるのか? あの番号に電話をしたらどういうことになるのだろう?

 そんなふうにこっちの気を惹いただけで、看板の目的の半分は達成されているのかもしれません。

     *

 とにかく、看板とは板の表面に文字や絵や写真や動画があるものなわけです。

 いま「ある」と言いましたが、迷ったあげくに「ある」としました。

 看板の表面に「ある」文字は「書く」、絵は「描く」とか「塗る」、写真は「貼る」ようです。写真の場合には一種の印刷のような気がします。

 写真にしろ印刷にしろ、写したり映したりするわけですから、複製です。

 印刷なら、写真をインクで塗っているのかもしれません。絵も大きなものになると印刷でしょうから、描くと言うよりも塗っているのでしょう。

 塗ると考えるとお化粧に似ています。看板はお化粧。薄いお面であり仮面。眉なんかは描きます。細い鉛筆みたいなもので描く。または線を引く。

タブロー、裏表、捏造


 そう言えば、顔にもお面も看板も表と裏があります。ただし、例の「表の顔と裏の顔」とは別の話です。あれも魅力的なテーマなのですが、今回は立ち入りません。

 絵や額にも裏表があるのを思いだしました。タブローです。

 貨幣や書物に表と裏があるようにタブローにも裏表があるのは興味深い事実です。当たり前にも思えますが、当たり前だと感じるものには捏造されたものが多い気がします。ヒトの場合には。

 その扁平なものは、多分がくに違いないのだが、それの表側の方を、何か特別の意味でもあるらしく、窓ガラスに向けて立てかけてあった。
(江戸川乱歩『押絵と旅する男』(『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』創元推理文庫)所収・p.439)

 確かに、額、額縁、タブロー、絵画といったものには表と裏があります。

 ところで、葉っぱ(リーフ・leaf)やタブラ・ラサ(白紙)にも表と裏があるのでしょうか。

 表と裏とはヒトが決めた、つまり捏造したものです。顔と同じで目があるほう、顔が好んで目を向ける日の当たるほうが表だと私はイメージしています。⇒「表、目、面」

(ところで、私の言う「捏造」の基準は「猫に通じるか通じないか」です。猫に通じないようであれば、それはヒトだけにしか受けない(ヒトの頭の中にしかない)ギャグであるわけですが、私はそれを「捏造」と勝手に呼んでいます。捏造はヒトがもっとも得意とするギャグです。)

 表とはヒトがそうだと決めたものであり(おそらく猫には通じません)、辻褄を合わせるために裏もついでに決めた(たぶん猫には分かりません)のだろうと想像しています。

 ヒトは対句とか対立や類似という様式美を好みます(私も大好きです)これがないと思考できないようです。対を成すものは、ものを考える時にとっかかりになります。

 上下と左右がいい例です。事物や物事に位置情報というレッテルを貼る(レッテルですから、要するに捏造するのです)ことで、話がしやすくなります。レッテルが貼ってあると、聞いている相手も話に乗りやすくなります。

 タブローにある、裏と表、左右、上下、奥行き・深さ、中心、周縁、枠、余白・空白、そしておそらく始まりと終わりといったものは、立体(現実・時空)を平面に置き換えた時に捏造したもの(おそらく猫には通じないギャグくらいの意味です)です。

 たぶん、そんなことが確か蓮實重彥の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』に書いてあったような気がします。ただし、私は誤解が得意なので、そう書いてなかった可能性が高いです。誤読している自信があります。

平面上に捏造したもののように、現実を見るようになる


 半分冗談はさておき、枠のある一枚の平面上に捏造されて「見える」もののうち、どれが現実に「ある」でしょうか。

 左右、上下、奥行き・深さ、中心、周縁、枠、余白・空白――。

 たとえば、平面上に奥行きや遠近や深さや立体として「見える」ものは、現実の世界に同じように「見える」もの、あるいは「見える」現象として「ある」のでしょうか。

 平面上に立体として「見える」ものは、私たちが現実に「見ている」ものを忠実に反映しているのでしょうか(そもそもその「忠実に反映している」かどうかは誰が判断するのでしょうか。ヒトでしょうか、ヒトが自分の知覚と都合に合わせて作った道具や器械や機械でしょうか。これまでの例からしてヒトが決めるとしか考えられません)。

 平面上にこしらえてあるもの、たとえば映像や文字による描写は、どれだけ現実の世界で私たちが知覚しているものを描写しているのでしょうか。

     *

 人は人の作るものに合せて世界を見るようになる。そんな気がしてなりません。平面上で見えるように捏造したもの(文字を含みます)は、消さない限り残っていますから、みんなでその存在を確認し共有することができます。

 みんなでいっしょに見ているものなら、それが「本当」や「本物」や「当然」や「自然」に見えてくるのは人情というものではないでしょうか。

 平面上に描かれているものや書かれていることをモデルにして自分の見える世界を見直すとか、いわば「補ったり正す」、つまり「補正する」ように見るようになるのです。

 絵を見ることで絵のように現実を見るようになる。写真を見ることで写真のように現実を見るようになる。映画やテレビや液晶画面上の映像を見ることで、映画やテレビや液晶画面上の映像のように現実を見るようになると言えば分かりやすいかもしれません。

     *

 俯瞰が好例でしょう。立体の世界の住人である人間は、平面上で捏造されている俯瞰ができません。そもそも平面と立体は別の物です。

 人は平面上に捏造された俯瞰を目にし、それを見たときの多幸感や全能感を立体である現実でも味わいたいために、現実でも自分が世界を俯瞰できるような錯覚に容易におちいります。

 人の捏造した俯瞰があちこちに見られる環境がさらにその錯覚を助長し、人は捏造された俯瞰と自分の視界との区別ができなくなっているのです。

 平面上で捏造された左右、上下、奥行き・深さ、中心、周縁、枠、余白・空白――についても事態は同じだろうと私は思います。そもそも平面と立体は別の物だからにほかなりません。

 とはいえ、結果オーライが人情です。平面と立体を同一視する、つまり混同することで人類はここまでやってきたのは事実です。

 うまく行っている部分もあります。うまく行っていない部分もあります。うまく行っていない部分を見なかったり忘れるのも事実です。人類は無視と看過に長けているし、忘れっぽいという最大の特徴も備わっています。

     *

 いま述べたようなことを映画を例に取って書いた記事があります。よろしければお読みください。

 人は夢を真似て映画の撮影術を発達させ、より精緻で洗練されたものにしてきた。それと並行する形で、映画を真似て夢を見るようにもなってきた。そんな気がします。人は意識的にあるいは無意識に自分に似たものをつくり、そのうちに自分のつくったものに似てくるのではないかとよく思うのですが、映画もそうかもしれません。
 夢を真似て映画をつくる。映画を真似て夢を見るようになる。こう書くと、何だかありそうに思えてきます。現実を真似てお芝居をつくる。お芝居を真似て、日常生活で演技をするようになる。現実を真似て歌う。歌を真似た声や叫びを日常的にするようになる。
(拙文「人が映画の夢を見るように、映画が人の夢を見る」より)

 平面上に捏造している「見える」ものをより現実らしく見えるものにしたい。あるいは現実を離れてもかまわないから、より臨場感と迫真性のあるものにしたい(人にとっては、そのままよりも、「らしい」「っぽい」「そっくり」のほうがずっと大切なのです)――。

 こうした人の欲求・欲望はエスカレートすると私は考えています。というか、現にエスカレートつつある――しかも加速度的に――ように日々感じています。

 よりよく見えるようにしたいという人の衝動は、とどのつまりは「自分を見る」という鏡の前の体験と大きく重なる気がするのですが、以下の記事はその観点から書いたものです。

 自分を見ることができないという恒常的な不満を無意識にかかえている人間が仮想現実に救いを求めるのは、ごく自然ななりゆきであり、必然であるとさえ思います。AIを駆使して個人情報である多量の映像や文書を処理し、CGを利用してその人をもう一人つくりあげる。
(拙文「VRで自分に会いにいったその帰りに」より)

 上の二本の記事は個人的にとても愛着のある文章なのですが、いまは考えがだいぶ変わってきているので、近いうちにぜひ書き改めてみたいと思っています。

写、映、移


 話を戻します。

 一方、動画は一種の器械とか仕掛けという意味での画面(スクリーン)に「うつす」ものなのかもしれません。

 こういうのは、ぜんぶ「写す・映す」と書きたいところです。「移す」でないことは確かでしょう。

 文字や絵や写真や動画を、板に「写す・映す」という感じ。

「写す・映す」というと、スクリーン、銀幕、画面です。タブローに近づきます。

 タブロー、テーブル、タブラ、タブレットとつながっていきます。写す、映す、塗る、描く、書く・掻く、記す・標す・印す・識す・徴す。

 表徴、サイン・sign、記号、シーニュ・signe。

 板、版、判、盤。

 タブラ、タブラ・ラサ。
 タブレット・tablet、table、tabulate、tableau。
 
 tabula rasa、blank slate、plate、plateau、plain、plane。
 board、plate、plank、plaque、panel、pane、slate、salat。

移る・移す、のる・のせる、する・される

「うつす」「うつっている」というよりも「のっている」「のる」だという気もしてきました。

 のる、のられる。のせる、のせられる、意味する、意味される。表わす、表わされる。シニフィアン、シニフィエ。する、される。マウントする、マウントされる。やる、やられる。いたす、いたされる。

 板。

 看板には、文字や絵や写真や動画が「のっている」のではないでしょうか? 「うつっている」し「のっている」と言うほうがいいのかもしれません。

 載る、乗る。看板(サイン・サインボード)の場合には、どっちなのでしょう? どっちでもかまわないような気がします。

 辞書を引いてみると、「のる」には「伸る」「似る」「乗る・載る」「宣る・告る」「罵る」「賭る」(広辞苑より)があって、唸ってしまいました。

 どれも言えているように感じられます。さきほど英和辞典で見た sign の訳語とも重なりそうです。

 しるし、標識、記号、符号、信号、合図、サイン、手まね、身振り、合い言葉、暗号、標示、掲示、看板、ネオンサイン、様子、気配、そぶり、徴候、前兆、傷痕、形跡、臭跡、お告げ、(神の)奇跡、(占星の)宮・シグヌム、署名する、記名する、署名させて雇う、契約する、手振り身振りで知らせる、手話(を使う)、合図する、目くばせする、十字を切る
(リーダーズ英和辞典・研究社を参照)

宣べる、述べる、延べる


 話が広がりそうなので、「写す・映す」に戻します。

「写す・映す」ものには共通点があります。複製が可能なのです。しかも複製が容易だとも言えるでしょう。

 あるものが写っていたり映っているとすれば、他の場所にもそれとそっくりなものや同じものが複数、または多数あるにちがいない、という意味です。広がる、拡散するのです。

 延べる・伸べる、述べる・陳べる、宣べる。延ばす、伸ばす。

 そっくりなものがあちこちにある、あるはずだ。これが「写す・映す」のイメージです。

 印刷、撮影、映写、複写――どれもが「写す・映す・写る・映る」を原理としています。

「写す・映す・写る・映る」ものには、さらに共通点があります。

 広い意味での板に「写す・映す」のです。板を画面とか面とか平面とかスクリーンとか膜・幕・巻く・捲く・撒く・播くと言い換えると、イメージがより具体的になるでしょう。

 膜・幕・巻く・捲く・撒く・播くと脱線させると、「写す・映す・写る・映る」が「広まる・広める・弘まる・弘める」「拡がる・拡げる・広がる・広げる」とひろまり、ひろがります。

 広告、広告板。

 ――話が看板に戻ってきたようです。看板は複製された板、複製されて広めるための板ということになります。

板・盤、載・乗、台・臺


 板を広く取ってみましょう。ただし、版や判や盤までばんばん行かずに、画面や紙面くらいにとどめて。すると「板」と「画面・紙面」の違いは厚みでしょうか。

 絵、版画、図表、写真、動画、文書――どれもが広義の板や面のうえに写されたり映されます。しかも複製が可能です。

 一方で、「移す・移る」となると物理的な移動(A点からB点への移動という感じ)ですから、そうした行動の結果や産物を複製するのは難しいか不可能という感じがします。

 移動、移転、移住、移民、移籍、移行、移植、遷移と並べてみると、その感はより強くなります。

 遷移と言えば、遷も「うつす・遷す・うつる・遷る」と書けますが、まっさきに頭に浮ぶのは「遷都」です。あと遷宮もありますね。

 どちらも、大がかりであったり厳かな行事(イベントとかセレモニー)という感じがして、そのイメージは板や複製からさらに遠ざかる気がします。

「写・映」と「移・遷」との隔たりはかなり大きいようです。比較的容易な「写・映」は、困難であったり不可能なこともある「移・遷」の代理行動であるとも言えるでしょう。

     *

「板」と「画面・紙面」と分けて考えてみると、「板」は厚みのある分、「移・遷」とも親和性がありそうですが、一方の「画面・紙面」は「写・映」との強いつながりを感じます。

 「板」に「画面・紙面」が「くっ付く」、つまり「のる」という気もします。

 板に画面・紙面を、付ける・のせる――。

 気になるのは「のせる」です。のせる、のる。載せる、載る、乗せる、乗る。

 テーブル(台・戴・臺・卓)と相性のいい言葉でありイメージです。

視覚・眼差し・視界、指令・司令・使令、委任・委譲・移譲


 table を英和辞典で調べると、以下の訳語、つまり語義が載っています。

 テーブル、台、仕事台、作業台、手術台、台状の墓石、食卓、(食卓の上に載る)食べ物、料理、円卓、(会議や交渉の)席、表、目録、一覧表、算数表、九九の表、版、木版、石版、金属板、画板、銘刻文、銘文、碑文、法典、共鳴板、平面、蛇腹、ゲーム台、骨盤、たなごころ(手相)、卓状地、平原、高原、台地、卓上に置く、テーブルに出す、食事を出す、棚上げにする、上程(提案)する
(リーダーズ英和辞典・研究社とジーニアス英和大辞典・大修館を参照)

 こうやって眺めていると、世界が「載せる、載る、乗せる、乗る」に満ちているように見えてくるから不思議です。

 私たちは、もっぱら載せている側、乗っている側にいるように見えます。

 意外と、私たちはのせているのではなく、のられているし、のせられているのかもしれません。

 平面を見るのに慣れ親しんでいる私たちは、一方から、つまり一方向から一方的に見るしかないのですが、案外世界はひっくり返っているのかもしれません。それが見えないから、体感もできない。

 視覚という司令塔・指令塔にこんなに任せきりにしていいのでしょうか?

 そのさいには視覚が先導しています。脳と体を導いているのです。「こっちだよ、こうするんだよ」と視覚が導くと、脳と体が「え?」とか「……」というふうにわけも分からずに動く。この「わけも分からずに」がポイントだと思います。
(拙文「【モノローグ】視覚は体感を裏切り、裏切るという形で体を導いている」 

 直接的な視覚的描写を避けて、伝聞、説話、翻訳された文章、古典の文章という「他者の言葉(文字)」をなぞり、それに自分の言葉(文字)を重ねる方向へと傾いていく。そんな古井の軌跡の底には「信頼できない視覚・視点・視線的人物および語り手」へのまなざしがある気がします。
 また、古井の後期の一人称の語りによる小説では、回想の描写と、伝聞による描写と、音の記憶の描写が増えてくる印象を受けます。「いま、ここ」が過去と重なったり交錯する形で語られるのです。
 そうなると描写は視覚的なようで視覚を信頼していない語りへと変質します。見えるように書かれていているようで、いざその言葉を視覚化しようとすると見えないのです。
(拙文「鏡、時計、文字」より)

定点、現実の視点、夢の視点


 ひっくり返る、ひっくり返す、裏返す、裏返る、または平面の外に出て立体として裏に回る――。

 そうしてみたところで、眼差しと視点と視界と、そこから見える風景は変わりません。表――私たちがとりあえず「表」と呼んでいる「何か」――からしか見えないようです。

 つまり、私たちは定点なのです。異なった画面を「見ている」というよりも「見せられている」定点だという意味なのですが、夢の視点(夢の中で人は移動しているわけではありません)を考えると分かりやすいかもしれません。

 自分が自分である限り、定点観測が私たちの立ち位置だとも言えるでしょう。夢の視点(定点)の延長が現実における視点(定点)だと私はイメージしています。

 視覚に主導された意識と、視覚以外の知覚に主導された体感との間の隔たりと「ずれ」を私が感じるからかもしれません。 

 自分の足で移動している時にも感じるのですが、とりわけ乗り物で移動している(移動しているのに意識を含めた身体自体は移動していない)最中に、定点である自分が視覚という画面を眺めている(車窓の風景を眺めている)ような気がします。

 詳しく言うと、「移動している」というよりも「移動させられている」、風景を「見ている」というよりも「見せられている」という感じ。

     *

 表を「おもて」(面でもある)と「ひょう」(票や平や標や評でもある)と読んでいるのは興味深い事実です。

 いずれにせよ、私たちは自分の表の姿(特に顔面)を直接見たことがないばかりか、自分の後ろ(つまり裏の)姿も目にしたことがない。これだけは確かだと言えるでしょう。

 自分なのに表も裏もちゃんと見たことがないのですから、不思議と言えば不思議、不気味といえば不気味、当たり前と言えば当たり前――。いずれにせよ、自分なのです。というか、自分だということになっているのです。

 定点観測(「人間」)というのは、そういうものなのでしょう。見るための定点は「空白」なのです(「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)pp.24-27)。

 捏造された視点からの映像に囲まれていると、自分が定点だという体感を忘れてしまいます。それは錯覚であり麻痺に他なりません。終始視点にこだわった古井由吉は、そのことに敏感な書き手だったと私は思います。

後ろ姿、背中、空白


 いま私が気になるのは古井由吉の小説にときどき出てくる「背中」です(「背中」がいちばん目立つのは『背中ばかりが暮れ残る』(『古井由吉自選短篇集 木犀の日』(講談社文芸文庫)所収)でしょう)。

 さきほど述べたように、古井の小説に私は視覚への不信を漠然と感じるのですが(⇒「「鏡、時計、文字」)、そう感じるときに頭に浮ぶのは古井の小説に何度も登場する背中という言葉とそのイメージなのです。

 古井の小説における「背中」は己の分身を目にする身振りと重なる印象があり、そうしたイメージが苦手な私は、古井の「背中」を見るのをこれまで避けてきたのですが、いまは見てみたい気がします。

 古井由吉の視覚への不信(私の勝手な思い込みである可能性が高いと考えられますが)に共感を覚える私は、古井の「背中」あたりに何かとっかかりがありそうに感じています。

     *

 誰もが見えない自分の背中。

 自分の背中を見るためには二枚(二面)の鏡を使って映すか(「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』)、撮ってもらう(写(映)してもらう)か、自撮りをするしかありません。

 つまり、面と写と映に頼るしかないのです。移となると、乗り移る、乗り移られる、つまり憑依(よる・つく)のほうへ行きかねません。移動は無理と考えるのが妥当でしょう。

 いっそのこと目をつむって背中に手を伸ばし、視覚を宙吊りにして、体感を不意打ちする(「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差異と反復』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』)という手もありそうです。

     *

 ひっくり返る、ひっくり返す、裏返す、裏返る、または平面の外に出て立体として裏に回る――。 

 こうした身振りについて考えるとき、やはり古井由吉の小説が頭に浮びます。古井の小説を(め)くりながら(「(め)くる」とはページを「裏返す」ことです)、「背中」という言葉を探すことから始めてみようと思います。

     *

 以上、とりとめのない断章の数々にお付き合いくださり、どうもありがとうございました。

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