れんげ

3歳の娘を追いかけながら思う日々のことや、店長人生で思うことなどをつらつらと。

れんげ

3歳の娘を追いかけながら思う日々のことや、店長人生で思うことなどをつらつらと。

最近の記事

髪の長い乙女と虫を探す休日

 「お休みの日は結びたくないの。結ばない方がかわいいから」 4歳の時の娘から言われた言葉だ。それ以来、どんなに暑い日でも、休日は髪を結ばない日がほとんどだ。長い髪をなびかせ、ワンピースとラメラメサンダルで、今日もカナヘビと虫を探して走り回る。イナゴやカマキリを掴んで、ファンシー雑貨を見るような目で、かわいいと呟き、出会う人が口を揃えて「元気ですね」と引き気味になる、そんなかわいい私の娘だ。  ああ、私も、髪を伸ばすことは憧れだったなと思い出す。十分長い今でも憧れに変わりはな

    • タイタニックから引き上げたあの頃の話

       「タイタニック」の映画の中で、宝探しをしていた人が、ローズの話を聞いて、自分が引き上げてしまったものの真実に打ちのめされるようなシーンがあるのだけど、若い自分が信じていた気持ちが、今思うとそうではなかったのかもしれないなと、心の底から引き上げた思い出に驚かされることがある。  私が、高校2年生の頃に公開していた映画「タイタニック」。数人で活動する弱小合唱部で歌うことになった。私達は映画館のない田舎に住んでいたこともあり、お休みに電車に1時間以上揺られ映画館に観に行った。も

      • 10年ごしの君の相づち

         好きな相手や尊敬している相手の口調や口癖はうつるらしいという話は知っていた。私が店長モードでお説教をしたり、話をしたりする時は、泣きたいくらいに私の店長のコピーだ。「さんきゅーありがとう」という、なぜ、2回重ねる…と疑問に思うお礼の言い方がうつってしまった時には、なんてこったと笑ったもんだ。何しろ、全く気がつかない内にうつっていて、ある時、ハッとするのだ。「嘘、やだ、あたし、さんきゅーありがとうって言ってる」と。そして、無意識に言ってしまうので、そこからは毎回、「あ、また言

        • 父の夢を見た朝に

          私の父は2017年、娘が2才になった次の月に白血病で帰らぬ人となった。娘が生まれて半年で発覚し、その半年後に夫の転勤で他県に引っ越し、さらに半年後、ようやく入れた保育園と復帰した仕事にワタワタしている時だった。1年の余命宣告を受け、4ヶ月後のことだった。 私は亡くなった日の前々日に帰省する予定だったが、娘がその週に熱を出しており、さらに、月初の土曜日だから休まない方が良いなということで、帰省を取り止めていたいた。その日に急変し、父は翌日亡くなってしまった。母からの急変の

        髪の長い乙女と虫を探す休日

          ひとりっこの呪いがとける日

          先日、4歳の娘と参加した結婚式で、2歳の女の子とそのお母さんに出会った。へアセットの段階で娘は、その子にぬいぐるみを貸し、世話を焼き、その子も嬉しそうにしていた。披露宴の間、テーブルの下でおままごとをして、その子は娘と一緒にいたくてたまらない様子だった。 会話の中で、自宅が他県であることに、お母さんの表情から、ほんのちょっとの落胆が見え、「兄弟がいればと思うけど…もううちは…ひとりっこ確定だから…」と、どこか遠くを見る瞳に、あぁ…と、解けない呪いに心がぎゅっとなった。ひと

          ひとりっこの呪いがとける日

          娘を追いかける孤独と向き合った日々

          娘は、寝返りが成功した瞬間から、自分で動きたくて泣く赤子だった。動けるようになると、静止している時間は1秒足りともなくて、かといってオモチャでも遊ばず動き回る。全く気が休まらなかった。しかし、赤子とはこんなもんだろうと思い大変だったが、そのこと自体をあまり気にはしていなかった。 夫の転勤で、娘が1歳になってすぐ他県へ引っ越した。当然年度途中で保育園に入れる訳もなく、私は育休を延長し、保育園を待った。 毎日娘と二人きり、公園を開拓したり、支援センターに行ったりした。

          娘を追いかける孤独と向き合った日々

          ヒーローと私と母と娘

          夕陽に向かって大好きなヒーローのポーズを決める娘。幼い彼女がいつか忘れてしまっても、彼女が心をあずけたヒーローが誰かは私が忘れない。 私が小さな頃、地元のテレビではウルトラマンや仮面ライダーの再放送があり、特にウルトラマンが大好きだった私は、4歳くらいまで、いわゆる女の子らしいと言われるオモチャを全く欲しがらず、人形を買いたいのに欲しがってもらえない母は、私が初めて着せ替え人形を欲しいと言った時に、喜びいさんで買いに行ったらしい。アルバムにはウルトラマンを両手に持ち、満面

          ヒーローと私と母と娘

          水色のワンピースの娘

          私は青や水色が好きだ。9月生まれの誕生石がサファイアと知って感激したし、結婚式のカラードレスは水色だし、部屋の絨毯も布団カバーも、カーテンも青だったし、洗濯機は蓋の色で決めたし、冷蔵庫をパールブルーにしようとして夫に反対されたりもした。 娘がしゃべれなかった頃から、「お母さん青が好きなんだ」と話していたら、娘はしゃべれない頃から、青のものを私にくれるようになり、しゃべるようになった娘は、はっきりと「お母さん青が好きだから」と言うようになった。娘はピンクが大好きである。

          水色のワンピースの娘

          剣と盾と装備の仕方と人にものを教えるということ

          「出来る人」に「出来ない人」の気持ちはわからないという話を聞いた。その通りだと思うし、長年へっぽこながら店長をやってきて、人に教える時に心がけていることがある。それは、当たり前だけど、「相手は何もかもわからない異世界からきた冒険者」と思って教えるってこと。 ゲームボーイが流行り始めた時期、私は従姉妹にやらせてもらったテトリスに魅了され、クリスマスにゲームボーイを買ってもらった。当時テトリスはもう付属品扱いで、両親はもう1つソフトを買おうと思ったけれど、何がよいのかさっぱり

          剣と盾と装備の仕方と人にものを教えるということ

          私がなりたかったもの

          私の小さな頃からの夢は学校の先生だった。両親ともに教師で、身近な職業だったからか、ずっとそう思ってきたし、実際に大学も教育学部で教育実習にも行った。実習は大変だったけど、今でもよい思い出だし、あの子らが歌ってくれた「勇気100%」は私の元気の源。 なんだかんだで、教師にはならず、ひょんなことから、ひよっこ店長になり、10年くらいが経ち、娘を産むために、店長を諦める時に、ふと思ったのだ。私のなりたかったものとは何だったのかと。 そこそこの大型単店をひとりでやってくのは、

          私がなりたかったもの

          たとえば映画館のフットライトのように

          小さなころの記憶って、断片的でそれだけでは何のことなのかさっぱりわからず、ずっと経ってから、いろいろ聞いたり見たりして、はじめて「それ」が何だったのかを知ることになる。そう、私、これ見たことあるんだって。 幼児の頃の断片的な記憶って、本当に一瞬を切り取った写真のようなもので、例えば、かわいいピンクの数珠を従妹と買いに行ったという出来事は「目の前に手渡されたピンクと白の数珠の映像」のみ。法事の最中に抜け出して叔母から従妹と一緒にヤクルトをもらったは「眩しい夏の光の中

          たとえば映画館のフットライトのように