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私がなりたかったもの

私の小さな頃からの夢は学校の先生だった。両親ともに教師で、身近な職業だったからか、ずっとそう思ってきたし、実際に大学も教育学部で教育実習にも行った。実習は大変だったけど、今でもよい思い出だし、あの子らが歌ってくれた「勇気100%」は私の元気の源。

なんだかんだで、教師にはならず、ひょんなことから、ひよっこ店長になり、10年くらいが経ち、娘を産むために、店長を諦める時に、ふと思ったのだ。私のなりたかったものとは何だったのかと。

そこそこの大型単店をひとりでやってくのは、泣いたり笑ったり、次から次へと事件が起こり、沢山の出会いと別れがあった。大学の4年間をうちで過ごしてくれることも多く、卒業シーズンは毎年さみしかった。卒業して、お店に会いに来てくれるのが嬉しかったし、彼女を親に会わせたとか、仕事の話とか聞いたり、新社会人名刺をもらったり…。私は友達でも家族でもないから、アルバイトを辞めてしまえば他人で、どんなにかわいくても、お別れは今生の別れに等しい。それでも、この場所にいたことを楽しかったなと思い出せる場所であるなら幸せだったし、元気でいてくれたらそれでいいなと思う。単純に愛しいと思えることが私の幸せだった。

こどもを産むと考えた時に、どうしても店長は続けられない、でも今の幸せも諦められない。この子が卒業したら、この子が卒業したらと何年も見送った。でも気がついてしまった。この子が卒業する頃には、新たな子らも愛しいのだ。きりがない。私の決断しきれない態度を上司が後押しする形で決まり、私は店長をおりた。後押しした上司は、私の先輩であり、支えてくれた人であり、仲間であり、私に1番辞めてほしくないと思っている人だった。ただ、私の幸せのために。以前、私のことは「友達でも同僚でもない。家族が1番近いけど、関係を言葉に出来ない。」と言われて、愛を言葉に当てはめることはなんと難しいことかと思った。

母は、小学校の教師で、私と同世代の受け持った生徒の同窓会に今でも呼ばれるのだ。小さな頃、以前の学校で受け持ったクラスの生徒さんが、夏休みにバスを乗り継いで、山奥のうちまで遊びに来たことがあった。とびきりの笑顔でスイカを持って、みんなで母に会いにきたのだった。出会った人が花のような笑顔で駆け寄り、レジをしていた女性が母の顔を見て、ほっとしたと涙ぐむ、温泉で再開した荒れていたクラスの子が、ずっと会いたかったと語るのだ。

私の夢は教師だと思っていた。でも、違った。私は教師になりたかったのではなく、母のような人になりたかったのだ。私がお店の子らにとって、母のような人になれたかは正直わからない。でも、こんなに愛しいと思えたことは、紛れもなく私の夢であり、叶ったと信じている。

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