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たとえば映画館のフットライトのように


小さなころの記憶って、断片的でそれだけでは何のことなのかさっぱりわからず、ずっと経ってから、いろいろ聞いたり見たりして、はじめて「それ」が何だったのかを知ることになる。そう、私、これ見たことあるんだって。

幼児の頃の断片的な記憶って、本当に一瞬を切り取った写真のようなもので、例えば、かわいいピンクの数珠を従妹と買いに行ったという出来事は「目の前に手渡されたピンクと白の数珠の映像」のみ。法事の最中に抜け出して叔母から従妹と一緒にヤクルトをもらったは「眩しい夏の光の中、聞こえてくる読経と手渡されたヤクルト」とか。成長してから、断片をつなぎ合わせれば、弟の存在がないので、おそらく祖父のお葬式だったのではと思う。

初めて家族旅行に出かけた時に、母が言った「小さい時だと覚えてないから、もったいなくて、ずっと待ってたの」という言葉は小3の私には衝撃的な言葉だった。でも、この旅行のことも、印象的な場面しか覚えていないので、まあそんなもんだ。さらに言えば、この言葉がその1つなのに笑ってしまう。

今、3才の娘とあちこち出かけた思い出も、娘はきっとほとんど覚えてないのだろう。それに意味はないのだろうかと、ふと思った。

私の3才くらいの記憶の1つに、ドラえもんの映画に母と叔母、従姉と行ったというものがある。「のび太の小宇宙戦争」である。私が覚えているのは、薄暗い映画館の足元に灯るやわらかなフットライトと、不気味なくじらの宇宙戦艦だけ。なぜ、もっと他のことを覚えていないのか。成長して映画を見直して、はじめて、ああ、あれはこの映画だったのか…と知った。

この、よくわからないけど記憶に残る何かが、改めて見直したり、訪れたり、昔話を聞くことで、現実と繋がる瞬間、ああ、確かにあったんだなと心を抱き締めてもらえる気がする。時間を越えて私を勇気づけてくれるのだ。

だからこそ、私は娘と出かけて思い出を作る。例え、覚えていなくても、確かに娘の心には何かが残るし、いつか、娘が小さな誰かと手を繋ぐ時に教えてあげたらいい。そして、いつか、いつか、彼女が私の手を離れ、ひとりで歩いて行かなければならない時に、その何かが、彼女の足元をやわらかく照らしてくれたらいいなと願うのだ。

そう、例えば、あの映画館のフットライトのように。

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