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異世界とまではいわないけれども。

ええ、12月に入り、夏のシドニーではシドニーの夏らしく連日暑い。週末は気温が40度を軽く超えてきて、どうだ凄いだろと言わんばかりだ。シャクに触るが甘んじて受け入れるしかない。どうこうする力は俺には無いのだ。無力さしか感じない。

我ながら悲しくなるが、「力」という「力」が俺には無い気がする。

カタカナの「カ」ではない。まあ「ヤノレン」という名前の中にも「カ(ka)」という文字が無いといえば無いのだが、「カ(ka)」ではなく「力(ちから)」の話である。

一番無いのが経済力だろう。これは本当にない。
学生のときに貧乏な人間は沢山いるが、そのまま継続して長い間貧乏な人はそんなに沢山はいないはずだ。人は歳を重ねるにつれて組織での地位が上がり、給料もそれに乗じて上がっていくのがかつて日本が誇った終身雇用制度の理想であり、今もその夢はあろう。今の俺の歳にもなればなかなかのものになっていたに違いない。

しかしそんなこんなもかなぐり捨てて俺が今の俺になるまで好き勝手に生きてきた結果、たっぷり蓄えられたのは腹の周りのぜい肉だけで、学生時代と変わらずにほぼほぼその日暮らしである。資金力は全く無い。

影響力もない。昔から『風が吹けば桶屋が儲かる』と言うが、俺が口笛を吹いてもシューというかすれた空気音しかしない。口笛さえもまともに吹けやしないのだ。まともに吹けるのはホラくらいだ。ホラならまあまあの数吹くが、最近は教室にやってくる小学生ですら俺の話を信用しない。そんな俺に影響力なんかあるはずもない。

さらに陰キャな俺はコミュニケーション力もなく、友達も少ない。長年海外生活をやっている癖に英語力もない。昔から日本語以外の語学力が皆無なのだ。どこをどう間違って英語を話さねばならない国での生活なんか選んだのか、まともな判断力も無いのである。

馬鹿なのか、俺は? 
いやそれは改めて問うまでもない。自分の能力で生きていける未来を考える想像力が無かった。あればこんな体たらくではなかろう。

体力も無くなった。遠い記憶を探ってみても高校生の頃のムリムリッとした体力は見る影も無い。あんな風にはもう階段を駆け上がれないし、走れも動けも、泳げも飛べもしない。

子供の頃から大して無かったのは視力だ。小学3年生の頃から眼鏡を着用していた。着用と言っても常時ではない。随時である。

眼鏡を掛けるのはあまり好きではなかった。顔にコンプレックスもあったし、眼鏡が重いとも感じていた。

だから掛けなくてよければ極力掛けないでいた。
その間俺は輪郭のぼんやりした世界にいることになった。異世界とまではいわないけれども、全体的にぼんやりしている世界だ。でもそれはそれで悪くはなかった。

人間の、対象に対する把握の仕方なんて各々違うに決まっている。対象をどれだけ把握しているかなんて基準値があるわけではないから、他人に迷惑にさえならなければ、それは各個人に委ねられていると言っていいだろう。

モノの識別は”大まかには”色の違いで判断すればよかった。色が違えば別のものが存在すると思っていればそんなに不便はない。だから文字などの情報を読み取ろうとするとき以外は眼鏡に対する需要はない。

性格的に人やモノも含めた”周囲”にあまり興味が無かったのかもしれない。何でもよく見たい、はっきり見て記憶に残したい、とかいう欲求に乏しかった可能性はある。もしくはただ現実を直視することが嫌だったのかもしれない。対象物との間にあいまいな部分、つまり想像に頼る部分を挟んでおきたかったのかもしれない。またその両方かもしれない。

普段の生活で常に身の危険に晒されている状況があるわけではないわけだから、いちいちクッキリと細かい部分まで周囲を把握することはマストではない。もしかすると平和な日本だからできたのかもしれない。だとしたら環境も大きく影響したということだ。日本人でよかった。

人によっては周囲の状況をできるだけ正確に把握しながら行動せずにはいられない、という人もいるだろう。好奇心が旺盛で何でもはっきりと自分の目で捉えたい、正確に知っておきたい、という人もいるはずだ。それはそれで理解はできる。しかし、嫌なところまでくっきり見えてしまうのもストレスになりはしないか、と俺は感じてしまうのだ。

お蔭様で⁈大抵の人やモノは外見的に好ましく感じられた。
うーん、この積極的な言い方はちょっと正確ではないかもしれない。醜く感じなくてもいい状況にあった、というほうがどちらかと言えば正確に近いのかどうなのか。

ぼんやりしているわけだから、他人の顔の肌質や、たとえばシワやシミそばかすがあったとしても、たとえば部屋の掃除が行き届かずに多少埃が溜まっていたとしても、分からないし気にもならない(ただ臭いは人並みに感じるから不潔なのは嫌である)。

だから眼鏡を掛けたときの方が断然心地が悪い。あまりに人の顔がはっきり見えてしまうと怖くなることがある。針が好ましい方にふれればばいいが、知らなくてもよかった情報がどっと入ってきて幻滅する方にふれる時も少なくない。現実をつきつけられるのは恐ろしいことなのだ。

こんな世界が世間的にどうなのか俺には分からない。自分に居心地がいいからと言って他人に勧めるつもりは勿論ない。世間の役には立たないし、いいことばかりでもないからだ。

絶対にできないのは、刑事ドラマでよく出てくる、自分の視覚と記憶によって目撃者として証言するような、人を助ける重要な役に立つ働きだ。

「先週の土曜日の夜11時ごろ、この写真の男を見かけませんでしたか。」
2人連れの刑事が写真を見せながら聞く。
「ああ、この男なら覚えてますよ。確かに土曜の夜でした。この先の居酒屋の前で携帯電話で誰かと電話してました。派手なシャツ着てるなあって思ったからはっきり覚えてます。」
とかなんとか、お前マジでそんなこと覚えてるの?としか思えないような証言が出てくる。凄いと思う。

これは俺にはできない。見えもしていないし、見えていないものを覚えていることもできないからだ。だから俺から目撃されていたとしてもカウントしなくていいから、犯人の人には覚えておいて欲しい。目撃者を消せとばかりに殺しに来ないで欲しいのだ。

またお茶目なミスは多発する。
停車していた原チャリに向かって話し続けるのを友達に見られたこともあった。一緒に最終バスを待っていると思っていた人が実際は駐車券用のポールで、バスはとっくに行ってしまっていたこともあった。でも他人の迷惑になるような大きなミスはこれまでに無いと思う。

考えればもっと出てくるだろうが、絶望をずりずりと手繰り寄せているだけのような気がしてきて悲しくなる。虚しさの色がちょっと濃くなった気がする。

さて、ダラダラダラと話が長くなって申し訳ない。
師走真っただ中の夏のシドニーの無力な俺の話だった。

とにかくこの月になると「先生」と呼ばれる人間は忙しく走りながら毎日をこなしてかなければならず、体力が無いなんて泣きごとを言ってはいられない。だからボディコンバットのクラスにも通わないわけにはいかないのだ。

日が長くなってまだまだ明るい午後6時過ぎ、俺は速足でジムに向かっていた。6時半からのボディコンバットのクラスに出るためだ。

歩道用の信号が赤に変わったのを遠目に見ながら俺は歩を進める。するとその信号の向こうに別の岸への信号が変わるのを待っている女性と思われる人がいた。

「アゴ、長っ」それが俺の彼女に対する第一印象だった。

俺は上を見上げた。
何故かと言うと彼女が上を向いて何か見ていたからだ。彼女が一体何を見ているのかが気になったのだ。

空。
見たところ上にはなんの変哲もない空があるだけだった。
うっすらと特徴のない雲はあったが、平凡なよくある空だった。

飛行機もヘリコプターも鳥もスーパーマンもドラえもんものび太君も飛んでは居なかった。隕石も衛星も宇宙船も星も降ってきているわけではなかった。

それでも彼女は真上を見上げ続けていた。時折アゴの角度は変わるものの、それでも上を見続けていた。人が街中であんなに無防備に真上を見上げ続けることがあるだろうか。少なくとも俺は無い。

不思議に思いながら渡るべき横断歩道の手前まで辿り着いた俺はハッとした。そこでやっと俺は真実を掴んだのだった。

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