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日常のアンビバレンス

 突然だが、君は雲海を見たことがあるかい?
 文字通り雲の海で、つまり雲の上からしか見ることができない貴重な光景だ。

 今朝も僕の目の前には見事な雲海が広がっている。
「いわじゅん、今日は雲海に見とれてる暇はないぞ。とっとと片付けて昼コースの準備せんといかんしな」
 岩波淳、これが僕の名だ。淳は”あつし”と読むが、大峰大吾という先輩は僕を”いわじゅん”と呼ぶ。

 僕はこの夏、意を決して実家を離れ、ここ『鷹峰温泉旅館』に住み込みバイトでやってきた。大吾先輩は勤続10年のベテラン社員で、とても頼りになる30歳。

「分かっています! すみません!」僕が返事をしながら扉の方へ振り返ると、既に先輩の姿はそこにはなかった。

 この旅館は標高2000メートルほどに位置し、朝の大仕事、布団上げの際にしばし雲海を拝むことができるのだ。18年間の僕の人生において、初めて雲海に遭遇したのがこの旅館だった。僕は別段アウトドア派でもないし、親も自然に関心などないような、というより自営業のため休みは不定期で、旅行というイベントにはあまり縁のない家だった。

「ごめん岩波、寝坊した」
 半開きの眼をこすりながら僕に謝罪を述べたのは藤木冴子さん。僕と同じ18歳だが大学生だ。そう、僕は大学へ進学していない。

「冴子さん、こっちは大丈夫なんで食堂手伝ってください。あと今日昼ありますから!」
 彼女は遅刻の常習犯だったが20分程度の絶妙な時間のため、もうそういうものだと諦めて大吾さんはスケジュールを組んでいる。
「りょーかいりょーかい。あ、今日も雲海見えてるじゃん」
 そう言いながら彼女はスタッフエプロンのポケットからスマートフォンを取り出し、客室の窓から雲の海をパシャリと何枚か写した後、小走りで食堂へ向かった。


 8月13日、僕が住み込みを始めて一ヶ月の日がやってきた。冴子さんは一週間後の20日にやってきたので、僕は一応彼女の先輩になる。
「いわじゅん、今夜ちょっと時間ある?」と大吾先輩。僕は特に予定はなかった、というよりここ標高2000メートルの寮生活者にとって用事があることの方が珍しいだろう。寮と言っても旅館の屋根裏部屋の一室をあてがわれているだけで、文字通り完全な住み込みと言えよう。
「大丈夫ですけど、何をするんです?」
「山登るぞ。なに、30分くらいで登れる岩山だから特に用意するものはいらんよ。そこで観るのさ、流星群を!」
 8月にはかの有名なペルセウス座流星群の活動が極大になる日があり、毎年なんとなく耳にしていたが今年はそういえば今日だった。
「あ、ふじこちゃんも誘っておいたから!」と藤木冴子も誘ったことを告げて先輩は厨房へと消えた。


 旅館を出て50メートルほど歩いたところに登山口があった。先輩の言う通り、初心者でも簡単に登れる岩山だが、さすがに夜となると少し緊張する。

「今日は絶好の観測日和だな。お前らツイてるよ! あ、ほらもういくつか流れてるだろ」と、大吾先輩は中途で幾度か足を止め、本当に嬉しそうに流星の軌跡を指さした。流星なんてほとんど見たことのない僕にとっては雲海と同じくそれはとても感動的だった。いや流星というよりも、標高2000メートルで眺める澄み渡った星空そのものが、圧倒的に美しく言葉を失わせた。

 山頂に辿り着くと僕たち3人は寝転がり、天空から降り注ぐ数多の星々の、多種多様な光の照射に身を委ねた。
「大吾さんって、見ようと思えば毎日見れるんですよね。こんな非日常的な光景を」と冴子さんが訊ねると先輩は「非日常か……確かにお前らにとってはそうだよな。でも俺にとってはこれが日常だからな」と答え、「いわじゅん、こんな光景も毎日観てたら飽きると思う?」と何故か僕に訊ねた。分からない。日常というのは意識しなくなる習慣みたいなものだから、飽きるとはまた違うのではないか……。逡巡していると冴子さんが言葉を発した。
「私は多分飽きないと思う。私にとっての日常はこれまで生きてきた18年間。それは記憶喪失にでもならない限り変えられないでしょ? 生まれてからずっとここにいたら別でしょうけど」
「なるほど。寝坊常連のふじこちゃんは案外と哲学的な志向をするんだね。もしかして寝坊も確信犯?」
「大吾さん、私の専攻哲学なんですけど。寝坊は……すみません。学生という身分に甘えているだけです」
 冴子さんってこんなことを考える人だったんだ。普段の行動からは全く想像もつかなかったな……。

 四方八方に流れる星々の軌跡を追いながら、僕は”僕の日常”について考えを巡らせていた。
 なかったことにはできない、18年間で染みついた僕の日常。僕は大学へ行きたくなかったんじゃない。大学で学ぶべき目的を持っていなかっただけだ。
 日常と非日常は混在する。非日常を多く経験することで人生は豊かになるのかもしれない。それにはやはり知識も必要だろう。

「冴子さん、僕、来年受験します。先輩、来年は学生バイトとしてまたお世話になりたいと思います」
 ほうき星のような輝きを放つ流星が僕の頭上を駆け昇っていった。

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