「迷いと悟りは一体である」は自己成長のプロセス:読書と講演会、解読力と認知の拡大

★「迷いがあるから躍進できる」
迷いや疑問があることで新たな発見や成長が生まれると考えられます。
★「迷いと悟りは一体である」
迷いの中に悟りが生まれる可能性があると理解できます。
体が迷っているのに心は迷わない時、心が迷っていて体は迷わない時があります。例えば
○ 体は行動を起こす準備ができているが、心が迷っている:新しい仕事やプロジェクトに挑戦するとき、体は元気ですが、心が不安や疑問を感じています。
○ 心は決断を下す準備ができているが、体が迷っている:旅行先を決まって、心は行きたい気持ちで一杯ですが、体は風邪で熱で動き出せないです。

道元(※注)は「迷いと悟りは一体である」と述べています。道元は、悟りを求めてあくせくせず、迷ったら迷ったでよく、しっかり迷えばよいと述べています。その中にこそ真の悟りがあると道元はいうのです。

私はこの言葉を「自己成長のプロセス」だと理解しております。
心も体も迷うときこそ、課題を見つけるチャンスだと考えて見ます。
体が迷っているときであっても心が迷わない場合、体の課題を解決しながら心にも栄養を十分に補充することが重要です。一方、心が迷っているときであっても体が迷わない場合には、心の課題を解決しつつ体の栄養を適切に補充することも重要です。両者のバランスを取りながら迷う原因だけにフォーカスして解決することは、より質の高い自己像を構築していくための重要なプロセスであると言えます。
心と体の両方に栄養を与えながら、自己成長のプロセスを進めることで、よりクオリティの高い自分自身の形を作り上げることができるでしょう。

そこで、心身とも休める時は睡眠だと考えております。

注:道元は日本に禅の思想を確立した一人といわれる、鎌倉時代初期の禅僧・道元(1200~1253)。 彼は曹洞宗の宗祖であり、主著「正法眼蔵」は、坐禅のマニュアルや心得として今も多くの人に読み継がれています。
道元禅師は、1233年34歳のときに、京都の深草に興聖寺を開き、本格的な僧堂(坐禅堂)を建立し坐禅修行をつづけられるとともに、たくさんの人に坐禅をすすめられました。 次第に名声も高まり、弟子の数も増えたのです。
道元の宗教『正法眼蔵』は、鎌倉時代の曹洞宗の開祖・道元の主著であり、未完の大著です。 『正法眼蔵』というタイトルの「正法」は、正しい教えという意味です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?