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もし織田信長が本能寺の変を生き延びていたならば… ♣歴史の妄想ジャーニー♣(0001)

もし、織田信長が本能寺で明智光秀の急襲から逃れて生き延びていたならば、その後の日本の歴史はどうなっていたでしょうか? 妄想してみたいと思います。

 

<趣意>
「歴史にifはない」。 歴史に関するあまりにも有名な格言ですが、ここでは「歴史にifがあったなら」として、架空の歴史について勝手気まま妄想を膨らませたいと思います。 
暴走気味に妄想を走り跳ばせるのでリアリティはちょっと脇に置いておきます。ご容赦くださーい。

 

織田信長・座像_ColBase

蜷川親胤(式胤)模写『織田信長像(模本)』(東京国立博物館所蔵)
「ColBase」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/cobas-46537)

<概要>
ご存じの通り織田信長は日本統一を目前(?)にして本能寺の変で斃れました。 しかし、同時に京都にいた信長の弟である織田長益は逃走に成功しているので、信長が逃げ延びる可能性もあながちゼロであったとは言い切れないと思われます。
そこで織田信長が生き延びていたら、その後の日本の歴史は現在とどのように変わっていたのか、妄想を膨らませたいと思います。 
なお、どうやって生き延びたかについては、ここでは考えずに生き延びた前提で話を進めていきまーす。 ご理解ください。


<妄想1>
■明智光秀の討伐と日本統一
信長がもし生きて本能寺を脱出することができたとしたら、まずどこへ向かうでしょうか? 一番の選択肢は本拠である安土城であるかと思われます。 琵琶湖の水運を使えば陸路より早く安土城に入ることができそうです。 
安土城に入れば、逆賊・明智光秀への逆襲の始まりです。 安土城であればたとえ明智軍に包囲されても数日は持ちこたえることはできたでしょう。

信長は豊臣秀吉の中国攻め支援のため軍備を整えていましたし、危急を聞きつけた息子の織田信雄や尾張・美濃の軍勢もすぐに駆けつけたことでしょう。 織田信孝と丹羽長秀も四国攻めのために大阪周辺に集結していました(四国への渡海間際)。 そうなれば、明智軍の劣勢は必定。 逆に明智軍は近隣の近江・坂本城か丹波・亀山城に籠城するほか手立てはなさそうです。
いずれにしろ、逆賊・明智光秀は討ち取られた可能性が高いと思われます。 光秀個人が、たとえば荒木村重のように単身で逃げ延びて毛利方へ身を寄せることなどはできたかもしれませんが、再起することは難しかったのではないでしょうか。

本能寺

明智光秀の反乱で織田政権に大きな動揺が生じることは否めないと思われます。 畿内で反信長の具体的な動きが生じることもあり得るでしょう。 しかしそれが大きなうねりまで繋がることはないのではないでしょうか。 これまでも信長の勢力拡大・権力確立の過程で何度かあったように一時的な停滞や後退はあるかもしれませんが、信長による日本の統一的権力掌握・確立という大きな流れは変わらないと思われます。

ぐるっと日本各地の情勢を見回すと、越後の上杉は柴田勝家に押され続けており、奥州と関東の諸勢力も織田信長にほぼほぼ靡いていました。 西では九州の諸勢力も信長に正面から反抗するような機運もなかったようです。 四国は、信長の息子である織田信孝が攻め入ることになっていましたが、長宗我部氏は徹底抗戦ではなく降伏策との両含みの気配だったようです。

最後の大敵は四国の毛利ですが、最終決戦(?)に臨むべく大将である毛利輝元が出陣しておりました。 ここで信長の出陣も得た秀吉と一大決戦に及び、かりにそこで決着がつかなかったとしても、その後に毛利家が勢力を挽回することは非常に困難であったと思われます。 実際の本能寺の変において毛利と秀吉はスピーディー和睦しています。 すでに和睦の下交渉は進んでおり大まかに合意が出来上がっていたのかもしれません。
こうなると、織田信長による「日本統一」は時間の問題であったかと思われます。

では「日本統一」が現実になったとして、織田政権はどのような政権構造になっていたでしょうか? 
個人的な結論から言いますと、その後の豊臣政権と同じく「公家政権」になっていた可能性が高いのではないかなーという印象です。
織田信長といえども、征夷大将軍に就任すると、足利将軍から地位を簒奪したと外形上は見えてしまうので、やりにくかったのではないでしょうか。 そうしますと、平清盛の例にならって太政大臣に就任することを選んだかもしれません。 その先は、以前に藤原姓を名乗っていたこともあり、関白の地位を得ることを秀吉と同様に考えていたかもしれないなーと考えることができると思います。

かつては信長は朝廷の地位を脅かそうとする野心をもっていたと言われてもいましたが、近年の研究では、むしろ信長は朝廷や公家と上手くやっていこうとしていたという考えも出てきています。 将軍位と同じで、信長は簒奪者となることは考えていなかったのではないでしょうか? 
もしかして、さらに別の次元の何かを考えていたかもしれませんが…。

 

<妄想2>
■朝鮮・中国出兵
それでは日本の天下統一後、織田信長はどのように外交を進めていたでしょうか? 現実の歴史では豊臣秀吉・日本は朝鮮出兵という対外戦争を始めました。 信長が具体的な構想を語っていた信頼性の高い記録は残っていなさそうです。 イエズス会の本国への報告によると「信長は朝鮮・中国に出兵しようと考えていた」ともされていますが。
実際の選択肢は具体的には次の3つが考えられるのではないでしょうか。
(1)明・朝鮮との融和的な外交
(2)明・朝鮮との戦争
(3)東南アジアへの進出

永楽通宝

『永楽通宝』(東京国立博物館所蔵)「ColBase」収録
(https://jpsearch.go.jp/item/cobas-64478)

(1)明・朝鮮との融和的な外交
明と朝貢関係を結んで平和的に外交関係を樹立するパターンです。 この場合、隣国・朝鮮とも同様の平和的な外交と交流を行うことになるかと思われます。 日本としては、領土的利益と商業的利益の2つの目標があったかと思われます。 もし領土的利益がなく貿易等による経済利益に満足できるのであれば、この選択肢はアリだったのではないでしょうか。 平清盛や足利義満の方向性と同様かと思われます。 

しかし当時の明は朝貢関係を拡大して外国との貿易を拡大することには消極的だったようです(海禁策)。 そうした場合、貿易による経済的利益を思うように得られないのであれば、この政策は破綻していたかもしれません。 ただし、明の海禁策も時代の変遷でブレがあるので一概に「ありえない」とは言い切れないかと思われます。

(2)明・朝鮮との戦争
信長・日本が領土的野心があったかもしくは(1)の政策が破綻した場合、秀吉と同じく戦争に発展した可能性は否定できないのではないでしょうか。 またカソリック教会勢力にとって彼らの東アジアでの最大の布教と貿易のターゲットは明であったようです。 
しかし、明はカソリック教会に対してそれほど開放的・積極的な政策はとってはいなかったようです。 この場合、カソリック教会勢力が他の地域で行っていたように軍事的侵略と占領を考えた可能性が十分あるかと思われます。 とはいえ、カソリック教会勢力がいかに海運力と軍事力で先進的であったとしても、規模の面からさすがに独力で中国を攻めきるのは困難だったでしょう。 そのため、カソリック教会勢力が日本を中国侵略のための先兵として焚き付けたり支援することはあり得たのではないでしょうか。

しかしながら、明との戦争について、長期的にみて成功することは難しかったのではないでしょうか。 当時の海運力と日本の総合的な経済力を考えると、長期にわたって戦線を維持することは困難だったのではないかと思われます。 長期的に継続するには、現地での食糧や軍事資材の調達が不可欠になると思われますが、この場合、単に強奪するだけでは単発で終わってしまいます。 反復継続的に食糧等を調達するには現地(占領地)での安定した支配が必要ですが、はたしてそれは可能だったでしょうか?
秀吉の場合と同様、もし信長が明との戦争との途中で病死などすれば、日本は撤退という選択をとることが現実的であったのではないでしょうか。

日本図

ヴィンチェンゾ・マリア・コロネリ作『日本・朝鮮図』(九州国立博物館所蔵)「ColBase」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/cobas-11916)

 

<妄想3>
■海洋進出
上記妄想2のうちの選択肢(3)と同様ですが、東南アジアへの進出がもう一つの選択肢ではなかったかと思われます。 明との経済関係の拡大・発展が不調、そして明との軍事的戦争を回避し、なおかつ経済的利益の追求を企図する場合、東南アジアへの進出が考えられるかと思われます。

東南アジア原産の香木や香辛料や砂糖などは日本にとっても貴重な資源でしたし、軍事的物資としても東南アジア由来とみられる硝石や鉛などの鉱物資源もありました。 これらの貿易的利益を求めて東南アジアへの進出を全面的に展開していたかもしれません。 すでに日本人商人は東南アジアに拠点を構えるなどしておりましたので、これを国家的に展開させることも考えられます。 のちに徳川家康は朱印船により東南アジア周辺との交易を展開しました。 ベトナムに日本人町が形成されたり、タイでは山田長政が現地の太守まで務めたこともあります。

ただしこの場合、長期的には、すでに勢力を東南アジアに浸透させていたスペイン、ポルトガルとの西欧勢力との間で対立を生むことになっていたかもしれません。
信長はカソリック教会勢力に対して寛容的な面はありましたが、高山右近などのキリシタン大名のようにキリスト教という宗教そのものに信仰的な関心を積極的に示していたわけではないかと思われます。 したがって、自らの政治的・経済的利益とカソリックが衝突するのであれば、容赦しなかったのではないでしょうか。 カソリックとしてもすでに構築していた東南アジアや東アジアでの権益を信長のために妥協して手放すことはなかったと思われます。

その結果、日本と東南アジアまでの海域で、日本とカソリック教会勢力との激しい海戦が繰り広げられることになったかもしれません。
海戦の技術力や質ではカソリック勢力が上回っていたと思われますが、総合的な軍事力の量と規模では日本が圧倒していたと思われます。 しかしカソリック勢力も資金力にものを言わせて傭兵を揃えたのではないでしょうか。 倭寇(当時は日本人以外が主流であったようです)を大規模に組織して、日本の補給線を徹底的に破壊すれば、日本の継戦能力は致命的なダメージを受けたと思われます。 そのため勢力争いの行方は混沌としたかもしれません。

日本としては、当時の軍事の主体であった武士は土地に根ざした価値観を持っていたでしょうから、海運による経済力に魅力を感じていたとしても、領土拡張には余り繋がりそうにない戦争にどこまでモチベーションを維持できたでしょうか。 織田信長を始めとする一部の先進的(?)な武士は交易による経済力の強化を理解していたとしてもそのほかの武士たちはついていけたでしょうか?

南蛮屏風

『南蛮屏風』(九州国立博物館所蔵)「ColBase」収録
(https://jpsearch.go.jp/item/cobas-162568)

 

<妄想4>
■北米大陸到達
当時の日本にとっての最大の交易は、中国・東南アジア等の南方が相手でした。 ただ、上記の妄想3のとおり、カソリックと勢力争いをした場合、それまでの比較的安定した交易がストップしてしまう可能性があります。 とくに抗争が長期化した場合、その悪影響は非常に大きくなったと思われます。 そのようなリスクやデメリットを考えると、南方との交易は現状維持に軸足を置きつつも漸進的な勢力拡大を図る一方で、別の方面の交易に新しい可能性を見いだすという選択肢もあるのではないでしょうか。

つまり北方貿易です。 当時(もちろんそれ以前から)、すでに日本の東北では、北方の蝦夷や現代の沿海州あたりのアイヌ等の先住民との間で交易は行われていました。 南方との交易の規模と比較すればそれは小さかったでしょうが、それでも北方からではないと入手できない毛皮などの貴重な交易品もありました。 江戸時代には北方との交易による北前船の廻船は有名です。

これらは南方の人々にも魅力であったでしょう。 したがって、日本が北方の特産品等の規模の拡大や新たな特産品等の開発・発見を目指して、北方の探索・開拓に力を注いだとしても不思議では無いのではないでしょうか。 とくに日本統一を完成させて、国内の政治・軍事の社会状況が安定すれば、東北の地域勢力のひとつとしてではなく、集権的な日本の中央権力として正式の探索が行われる可能性はあったのではないでしょうか(間宮林蔵より200年先立つことになりますが)。

行き先はとしては、北から西への蝦夷・沿海州はもちろんですが、ひょっとしたら北から東へ、千島列島そしてアリューシャン列島を伝っていき、アラスカに到達する可能性があったのではないでしょうか。 そのまま南下すれば、いわゆる現在のアメリカ西海岸にまで脚を伸ばすことになるのも非現実的ではないかと思われます。

当時、すでにヨーロッパは北米大陸東海岸に拠点を構えて西の内陸部へも進出していましたが、まだ西海岸には支配的な力は到達してはいなかったと思われます。 この場合、ヨーロッパ勢力と衝突することなく、日本が北米大陸に拠点を構築することも十分可能であったかと思われます。 

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お粗末様でした!

 

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<私的な雑感>
もちろん、北米大陸にはすでに先住民であるネイティブ・アメリカンが居住していましたので、彼らとの共存または競合・衝突などの問題が生じますが。 その場合、はたして日本はどのように開拓(侵略?)を行ったでしょうか?

残念ながら、双方にとって幸せな出会いにはならなかったんじゃないかなーという気がします。 戦国時代の合戦では「人狩り」、つまり侵略地の人々を攫って奴隷のように使役したり、人質として元の土地の親族らに買い取らせる、というようなことが横行していたようです。
ネイティブ・アメリカンにはいい迷惑ですね。

さらに現実的な経済合理性の問題として、そのような遠方まで進出するメリットがあるのか、それを維持することができたのか、などなど難問や課題は多いですね。 北米の西海岸でゴールドラッシュが起きたのが1800年代の半ばですが、1500年代後半である戦国時代末期に同様のことが起きていたら…とも考えてしまいます。

ここではあくまで「妄想」ですので、そんな可能性があったのならば、その後の日本の歴史、アメリカの歴史、世界の歴史はどうなっていただろうなぁーと、一興として胸と頭を膨らせてみました。

 

<参考リンク>
※以下、リンク先はすべてWikipediaです。
本能寺の変
三職推任
朝鮮出兵
日明貿易
南蛮貿易
朱印船貿易
イエズス会
トルデシリャス条約
山田長政
山丹貿易
北前船
アメリカ合衆国の植民地時代
ネイティブ・アメリカン
カリフォルニア・ゴールドラッシュ

 

高札場

<ご留意点>
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(2022/01/20 上町嵩広)


 


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