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日本に残るペルシャ人の足跡と景教の痕跡

 前回の記事でidekunさんにコメントをいただいたので、

 日本におけるペルシャ人(と景教)について書きます。メモ程度のつもりが、調べ始めると色々出てきて長くなってしまいました。

 まず、平城宮にペルシャ人がいたかもしれないという話。
『続日本紀』には、奈良時代の天平8(736)年8月に、遣唐副使の中臣名代(なかとみのなしろ)らが唐人3人と波斯(ペルシャ)人1人を率いて帰国の挨拶のため、聖武天皇に拝謁したと記されています。
 同年11月の記述に唐人の皇甫東朝、波斯人の李密翳らに位階を授けたとあるのは、この人たちのことでしょう。

 そして、5年前に平城宮跡で見つかった765年の木簡に「破斯清道(はしのきよみち)」という官吏の名前が書かれていました。「破斯」と「波斯」は同音であることから、この人物がペルシャ人ではないか、と話題になったのです。
  奈文研の渡辺晃宏氏(現奈良大学教授)は「破斯清道は李密翳本人か、家族や従者だった可能性がある」と述べています。

 景教は635年に宣教師・阿羅本(アルワン)によって唐に伝えられました。
 実はこの阿羅本もペルシャ人です。そのため、唐では景教は当初「波斯」教と呼ばれていたようです。
 なので日本に来た李密翳というペルシャ人も、景教の宣教師または信者だった可能性が考えられます。
 
 奈良東大寺の正倉院には「瑠璃の杯」や「漆胡瓶」、ラクダが描かれた「螺鈿紫檀五弦琵琶」(タイトル写真)など、ペルシャ由来のものが数多く収蔵されています。
 唐の時代、ペルシャ人(イラン系住民)は胡人とも呼ばれ、私たちに馴染みのある胡椒や胡麻、胡弓なども彼らによってもたらされたものです。

 当時の日本に民間人であるペルシャ商人が来たという記録は残っていませんが、少なくとも文物の交易があったからこそ正倉院に収められたわけで、李密翳以外にもペルシャ人が来ていた可能性があると考えます。

 さて、ここからは日本における景教の痕跡を見ていきます。
 よく知られているのが京都の「太秦」。唐の都・長安に建てられた最初の景教教会が「大秦寺」で、名前が似ていることから景教との関わりが指摘されています。
 この太秦を本拠地としたのが渡来系氏族の秦氏。秦の始皇帝の末裔でシルクロードの弓月国を源とするという説や、景教徒のユダヤ民族だったとする説もあります。秦氏は土木や養蚕、機織、冶金などの技術を日本に伝え、八幡神社や稲荷神社などを創祀しています。
 太秦の広隆寺も一族の長、秦河勝(はたのかわかつ)が603年に創建。寺に近い「いさら井戸」や大避神社は、古代イスラエルの民や景教徒との関連がいわれています。

 その秦河勝に強く影響されたのが聖徳太子。「厩戸皇子」と呼ばれていたことは有名ですが、太子がイエス・キリストと同じく厩で生まれたという伝説は、「景教がすでに日本に入っていたのかもしれない」と想像を膨らませるに足るエピソードです。

 浄土真宗本願寺派の本山、西本願寺。この寺が所蔵する「世尊布施論」は真正の景教教典です。内容は『新約聖書』マタイによる福音書の「山上の説教(垂訓)」の一節を漢訳したもの。
 内容について調べたのですが、最近は西本願寺も積極的に公開していない模様。ケン・ジョセフ氏の著書『隠された十字架の国・日本』で紹介されているとのことですが、あいにく未読です。

 高野山奥の院には、なぜか景教碑(大秦景教流行中国碑)の模造碑が建てられています。本物は中国西安にあり、781年に建てられたもの。西安の碑の記述者、景浄はペルシャ人です。
 高野山に建てられた模造碑は、1901年にイギリス人女性エリザベス・A・ゴードンが寄贈したもので、その理由が空海が真言宗を開く背景に景教があったと考えたからだとか。
 日本人が見ると奇異な印象ですが、キリスト教的な視点を持った外国人から見ると、意外と的を射ているのかもしれません。

 最後に、少々眉唾ものですが、日本人の祖先が2700年前のイスラエルの「失われた10支族の一つ」という説もあります。興味のある方は先述のケン・ジョセフ氏や佐伯好郎氏、マーヴィン・トケイヤー氏などの著作にふれてみてはいかが。

※参考文献『景教のたどった道』(川口一彦・キリスト新聞社刊)

★見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、 mitomokさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。


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