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伊勢遺跡はこんなに面白い!③

前回お伝えしたように、〈伊勢遺跡は邪馬台国 " 前夜 ” の王都〉というのが現時点での専門家の見解です。

しかし私のような素人には、この考えには素直にうなずけないものがありました。
伊勢遺跡で発見された祭殿と、天照大神(=卑弥呼説が有力)を祀る伊勢神宮の社殿の構造がまったく同じという事実が、偶然とは思えなかったからです。

そして、ある時はっと気づきました。
「そもそも神社に人はほとんど住んでない!」

伊勢神宮をはじめ出雲大社や日光東照宮、石清水八幡宮など、日本を代表する神社の多くは、広大な敷地を持ちながら、そこに住む人は神職やその家族などごく僅かです。
日中は多くの参拝者で賑わっていても、夜はひっそりとして立ち入れないところも多いでしょう。
境内も常に掃き清められているので、いつ行っても綺麗で、暮らしの匂いはほとんどありません。

このような場所では、生活の痕跡を見つけにくいのは当然です。
つまり伊勢遺跡が3世紀初頭には衰退しているように映ったのは、神社と同じく生活痕が乏しかったからではないか、と考えたのです。

「聖域」とは神社ばかりを指す概念ではありません。
天皇や将軍などの住まい(王宮・城)も、一般の人は立ち入りを厳しく制限される「聖域」です。
伊勢遺跡の方形区画が、神社や王宮のような「聖域」ならば、発掘調査をしても人の痕跡が少ないのは、むしろ当然です。

そして皇居はどうでしょう?
かつては江戸城と呼ばれ、歴代徳川将軍が住み、政(まつりごと)を行っていました。大奥には3000人ともいわれる女性が暮らしていたこともよく知られています。
それに比べて現代は、天皇皇后両陛下に仕える職員の数は、江戸の頃とは比べ物にならないほど少ないはずです。
しかし皇居には、憲法で「日本国および日本国民統合の象徴」(wikiには「国際慣行上は天皇が元首として扱われている」とも)の天皇陛下がお住まいです。

さらに「盛行期」の問題。
〈伊勢遺跡は紀元200年以前に栄えたが、主要な建物が建てられたのは卑弥呼の登場以前。だから年代が合わない〉という理屈でした。
ところが先述した日光東照宮や石清水八幡宮の社殿(ともに国宝)は、江戸初期に建造されたものですが、今なお「現役」です。
つまり伊勢遺跡が盛行期を過ぎ、建物も邪馬台国時代より前に建てられたからといって、女王卑弥呼が「もうそこにはいない」ということにはならない、と考えたのです。

私が邪馬台国について調べ始めたのは、伊勢遺跡に興味を持って以降のことです。
長年研究を続けて来た専門家から見れば、初心者でろくに知識もないくせに生意気な、と思われることでしょう。

しかし、歴史学者や考古学者が競って持論を展開していた戦後間もない時代から半世紀以上も経つのに、未だ解明できる見通しが立たないのはなぜでしょう?
そればかりか、近年は情報がほとんどアップデートされていないと感じるのは、私だけではないはずです。
さまざまな書籍や文献を読んでも、安本美典さん【※】を除けば、直木孝次郎さんや上田正昭さんの焼き直しの感が否めないというのが正直な印象です。
【※】ただし安本さんの専門は統計学で、歴史・考古学界ではほとんど黙殺されています。

そこで私は初心者なりに、邪馬台国の所在地について自分で考えることにしました。
学者の答えを待っていたら、死ぬまで答えが出ない(あくまで個人的な感想ですが)と思ったからです。
所詮素人なので間違っても失うものはないし、せいぜい少し恥をかくだけです(笑)。

私の軸となったのは、当然、伊勢遺跡です。
「伊勢遺跡が邪馬台国の首都で、女王卑弥呼はこの地で30余の国々を統治し、この地で亡くなった」
この仮説が正しいことを証明するためにはどんな理屈が必要なのか、考え始めました。

2002年秋のことです。
                             (つづく)                             


★見出しの皇居の写真は、みんなのフォトギャラリーから、 zenpakuさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。

                           

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