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邪馬台国は伊勢遺跡③

 琵琶湖の周りには、伊勢遺跡のほかにも数多くの弥生遺跡があります。
 24個もの銅鐸が見つかった大岩山古墳(野洲市)をはじめ、稲部遺跡(彦根市)や熊野本遺跡(高島市)、湖南遺跡(近江八幡市)などが、湖をぐるりと取り囲むように見つかっています。
 
 湖という天然の水路は、陸上に比べて物資の運搬や人の移動がしやすく、野洲川や愛知川、安曇川、姉川といった大きな川が注ぎ込むことで稲作もしやすかったのでしょう。
 琵琶湖沿岸が、弥生時代の日本列島でもっとも豊かな地域の一つだったことは、疑いようのない事実です。

 その一方で、伊勢遺跡は〈邪馬台国成立前夜の遺跡〉という解釈をする学者もいます。
 そのココロは、「伊勢遺跡は卑弥呼の出身地かもしれないが、卑弥呼は女王に共立されてすぐ纏向に移ったので邪馬台国ではない。邪馬台国はあくまでも纏向」という理屈です。

 でもね……、
 鉄のノコギリもない時代に、木を伐るところから始まって、運搬・建築まですべて人力でやった大事業だったはず。
 大変な労力をかけて何十棟もの大型建物を建てておきながら、すぐに放棄するなんて勿体なくありませんか。しかもわざわざ纏向という当時は辺鄙な土地に移り住むなんて・・・
 私にはとても信じがたいです。

 もう一つ、伊勢遺跡には他にはない特徴があります。
 それは「都市化」。

 伊勢遺跡の北東約2キロの場所に下長遺跡(守山市)、北西約1・5キロに下鈎(しもまがり)遺跡(栗東市)という2つの遺跡があります。
 この3つの遺跡を総称して「伊勢遺跡群」と呼んでいます。3つの遺跡が連携して一つの「都市」を構築していたと見られるからです。

 具体的には、伊勢遺跡が政治や祭祀を担い、下長遺跡が大型の船を使った湖上交易を担当、下鈎遺跡は金属加工など工業生産を行っていたと考えられています。
 現代に例えるなら、伊勢遺跡が皇居や国会議事堂、下長遺跡は銀座や丸の内などの商業地帯プラス貿易港、下鈎遺跡が工場が建ち並ぶ京浜工業地帯といったところでしょうか。

 このように複数の集落が役割を分担して一つの都市機能を構築していたというのは、弥生時代ではとても珍しい先進的な事例です。

 もし卑弥呼がここの出身であるなら、女王に共立されてからずっとこの地に留まって、死ぬまでこの地で政(まつりごと)を行ったのではないでしょうか。

 その証拠というわけではありませんが、伊勢遺跡では身分の高い人が使ったとみられる銅鏡や勾玉、香炉のような土器も見つかっています。
 鏡や勾玉は権力者のシンボル、香炉は巫女が祭祀を行う際に用いたと考えられます。

 しかもこの鏡、見つかったときは粉々に砕けていました。偶然壊れたとは考えられないほどバラバラで、意図的に壊したようです(「守山弥生遺跡研究会」さんのHP「その他の出土物」参照)。



 鏡を壊すという行為は、それを所有していたシャーマン(巫女)が死んだ時に、悪霊になるのを避けるために行われたといいます。

 古代では、生前強い(霊)力を持っていた人ほど、とんでもない悪霊になって祟りをなすと怖れられていました。「怨霊信仰」と呼ばれています。

 日本三大怨霊といえば平将門、菅原道真、崇徳上皇の三人。
 しかし卑弥呼はそれを上回る大怨霊になった可能性大です。
 卑弥呼が悪霊化するのを防ぐため、必死で鏡を壊したであろう弥生人の姿が目に浮かびます。


★見出しの写真は瀬田の唐橋。みんなのフォトギャラリーから、 omorigohanさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。 



 

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