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*/この記事は、黛くんに関する事象に「重めに」考察を書くものです。                            */重い話・各種ネタバレも多くなりますので、お気を付けください。

*/This_Game_Has_No_Button/*

*/2010年、パズドラのヒットやスマホの普及は一気に世界をゲームのようにしてしまった。パズドラは、旧来のゲームファンから顰蹙を買ったゲームだった。それはパズドラの中で起こることは「すべて予測が出来てしまう」からだった。ゲームの面白さは「Aボタンを押したらなにが起こるか分からない不思議さ」のはずだった。

*/東浩紀編集『ゲンロン8 特集 ゲームの時代』の論考「ボタンの原理とゲームの倫理」の中で、批評家のさやわか氏は、現実の出来事が「ゲームのようだ」といわれる事象が「簡単に危険なことを行うことができる」という比喩に使われることに注目する。

*/筆者は、ゲームの不変の要素を「ボタンを押すと反応する」という点に置いている。そして「ボタンを押すと何かが起こってしまう」ことをはっきりとわかってもらうために、任天堂はDSやWiiなど、独特のボタンシステムを導入することで、「あなたがこのキャラを生かした」「殺した」というのを体感させるようにデザインした。わざと独特のシステムを強いることで、「この行動は私がした」というのを体感してもらっているのだ。

*/おどるメイドインワリオは、わかりやすく人間に身体を使わせている。wiiで人を「斬った」場合、その動作はゲーマー側にも振動を含めて伝わるだろう。

*/しかし、wii Uの失敗と同時に一気にスマホゲームが普及したように、人々は標準化されたデバイス(スマートフォン)を使うようになった。それはゲーム上で行う行為と、現実の行為の連関が完全に取れず、現実をゲームらしくあっさりと操作できる仕組みが大衆に好まれていることを意味する

こうした倫理観の欠如は、よく言われるように、ゲームが現実そのもののようなグラフィックやVRを提供したり、ゲームオーバーになってもやりなおしができることでプレイヤーの現実感を喪失させるために起こるわけではない。「殺す」という行為が、道徳的に許されないからよくないというわけでもない。それ以前に、我々はトリガーの軽さをまず意識する必要がある。プレイヤーはゲームの中で、トリガーを引いている意識のないまま、ボタンを押していることすら忘れ、手軽なコミュニケーションとして他のプレイヤーを殺すことができるのだ。                                     さやわか「ボタンの原理とゲームの倫理」東浩紀編『ゲンロン8』(p129)

*/アイヒマンテストでは、目の前のボタンを押せば別室の人に電気ショックが与えられるとわかっていても、「自分が正しいことをしている」と権威付けられたルールの中であれば、多くの被験者は何度でもボタンを押してしまうことがわかった。

*/さやわか氏は、この「トリガーの軽さ」、言い換えれば「物語と現実の線引き」ができない状況に世界がなっていることをプレイヤーにわからせるためには「システムの一部である彼(プレイヤー)に、『ボタンを押すと反応する』ことを再認識させるような入力を与える」(p131)設計が倫理的ではないか、と述べた。

*/さてここまでくれば、何故突然ゲームの話をしたかはわかるだろう。さやわか氏は「ゲームが現実化する現代社会」について論じていた。そしてここで言う標準化されたデバイスとは、ほかならぬスマートフォンやタブレットである

*/つまり、我々はそもそも、「黛君の現実」というゲームのプレイヤーのひとりだった。しかもこのゲームのコントローラーは私たちの手にあった。そして私たち自身がシステムの一部だった。

*/サカナクションの『エンドレス』や『アイデンティティ』は、人によって操作が容易になった人間を描いている。

*/Characters_Never_Die?

*/以前、月ノ美兎さんの記事で書いたように、「キャラクターは死を体験させることができるか」というのは、現代文学やサブカルチャー論において大きな問題になっていた。

*/テクノロジーに囲まれた現代において、たとえば引退されたライバーさんの過去動画を漁れば、実は技術的には完全に同じものが再生されてしまうように、キャラクターの一回きりの死を体験することが難しくなっている。この状況を、特にSFでは「ループ物」として描くことが多かった。

*/特に言われるのはこうである。スマートフォンやYouTubeは、シークバーや操作性の高さ、Twitterのようなフロー型(文字が水のように流れる)SNSとの親和性の高さから、人間をメタ的/分析的な視点に立たせやすい。一回切りの体験は、分析がしにくいが、何回も再生できれば「メタ的な視点」に立てる。後方腕組親方ではないが、相手が操作可能で縛りが少ないフォーマットだからこそ、コンテンツを緻密に分析することを人はやりがちなのだ。しかし人間は理解不能な部分や秘密、プライバシーがあるからこそ人間たり得る。それがなければ、人間は機械と変わりが無くなる。

*/「物語と現実はきちんとわけるべき」という立場もありえるだろう。人間が一面的に把握されるキャラクターになり得ないとも考えられるからだ。

しかしここで問題が生じる。「Virtual YouTuberってなんだ?」

人間も、動物である以上ステレオタイプからは逃げられないかもしれない


?Virtual_Insanity=LiveToVirtual

*/バーチャルユーチューバーは、上の記事やこの記事で言及したように、古株の批評家にとっては評判の悪い存在だった。それは昔からバーチャルアイドルはいたというのもそうだが、「中の人」の存在を無理やり虚構であるはずのキャラクターに結び付けようとしていたように見えたからだ。

*/鉄腕アトムであれ、なんであれ、アニメというのは「作品」という枠があるからこそ、空想として楽しむことができた。アトムも変形して、空を飛ぶし、トムとジェリーはいくら殴られても復活する。それはアニメと言う「お約束」の範囲内だった。だから批評をしてもまだ安心があった。

「中の人」問題についてはこの記事に詳しい

/*しかし、「キャラクター」と「中の人」の人格が単純に一緒ならば、その批評は人格に対するものになってしまう。それは本当にいいのだろうか?これが批評家たちの問いだった。私見ではこれに(意識的、無意識的は別に)立ち向かったのは月ノ美兎さんと緑仙がいる。また、にじさんじの技術革新やファンとの歩みを見ると、事はそう単純じゃなさそうだ。

…ところで黛灰は作品だっただろうか?

The_Blues_Never_Die

星野源は、こちらの動画でLainをことあるごとに見返すファンであると述べた。自分じゃない自分がネットの中でどんどん違う人格になり、いろんな風にメディアに出ると誤解されていく、一人歩きする様を主人公のLainに重ねていたという。それでも彼は『うちで踊ろう』という曲がフリー素材になったように、彼が憧れたマイケルジャクソンのように、自ら一人歩きするキャラクターになることをそれでも決めた。


ここからは―—それでも人間であろうとした彼に語り掛けたい。

ここから、分析の言葉をひたすらに重ねることもできる。しかし、それはすでにシステムの中にある以上、彼を窓の向こう側の人と扱ってしまうことになりかねない。それは、愚かなわたしにはできなかった。

実は、人間はレッテルやバイアスから逃れることはできないのではないかというのは、社会心理学の分野で話題になっている。なぜなら、バイアスを避ける非常に高いコストを行う途中で、成功だったり新たな発見の目を摘んでしまう可能性が非常に高いからだ。(読書猿「17.フランクリンの功罪表」『問題解決大全』)黙るのは「良い子」かもしれないが、正解ではない。 思い込みで傷つくことがあっても、それが「人間らしさ」の芽なのかもしれない。

私には、黛くんがバーチャルなのか、リアルなのか、コンテンツなのかなんなのかもうわからない。でも、悲しんでいる彼を見ていると唯々悲しかった。彼が今なにをどうしたいと考えているかはわからない。だとしたら、匙を投げるしかない。

だから私は私の思い込みを話そう。これは所詮私の夢の話だ。





少なくとも私には―—彼が空想の産物だと気づいてしまった彼の世界は、誰かに筋書を決められたかもしれない彼の世界は、とっても、とても生き生きして見えたAmong Usでパッションキメていた時はあまりの轟音に収音機械がエラーで破壊されかけていたし、経験のしたことがない放課後を皆でやってる時も、メッシャーズで明那全ロス危機であたふたしてた時も、現実にいないはずのぶるーずの三人がワイワイやっている時も。それは「バーチャル」という場所にあったかもしれないけれど、時にかっこよくて面白くて、時に寂しいものだった。

そういう黛くんに少なからず救われていた時があった。これは「私」の思い込みの夢だから、たぶん、リアルだ。



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