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【ほんのちょっと当事者】「当事者」ではないけれど、「非当事者」でもない。

「当事者」という言葉は、あまり積極的に使いたくない言葉の一つだ。

「当事者」は、事故や事件を起こした加害者あるいはその被害者を指して使うことが多いと思っているためかもしれない。

「私は、当事者だ」と言うと、事故や事件、何らかのトラブルで揉めている状態のど真ん中に立たされる気がして、 想像しただけで気が重くなってしまう。

では、他人に対して、「あの人が、当事者だ」と考えた場合はどうか。

「あの人が、当事者だ」と言う時には、「私は、当事者でない」が前提となる。
事故や事件、トラブルの渦中から距離を置き、自分自身は安全圏にいて、 そこから上から目線で当事者を見ているような気がする。

「あの人が、当事者だ(私は当事者ではない)」と言うと、 「私には、直接の関係はない」さらに「私には関係ない」と言っている気もする。 事故や事件、トラブルについて何も考えなくていい、無関心になってもいいと、その言い訳に「当事者ではないから(非当事者だから)」を使ってしまう気がする。

「当事者」ではないけれど、「非当事者」だと断定したくない時がある。

「もしも、自分が当事者だったら?」
「もしも、自分の友達や家族が当事者だったら?」と考える時、 「当事者」に近い位置に立っているはずだ。そういう立場に立つ人を指す、適切な言葉があったらいいと思っていた。

「ほんのちょっと当事者」(青山ゆみこ・著)は、 児童虐待、性暴力などの問題について、 「自分事」として捉えて書かれているエッセイだ。

著者自身が過去に経験したことを踏まえて 「当事者」に近い視点で書いているものもあるし、 ライターの視点から、他人事を自分事に引き寄せて書いているものもある。

「ほんのちょっと当事者」の「ほんのちょっと」の加減は、 取り上げているテーマによってさまざまといえる。

「当事者」ではなく、「非当事者」でもない立場を「ほんのちょっと当事者」と位置付けたとしても、それでスッキリするわけではなさそうだ。

この「ほんのちょっと当事者」になって考えることは、自分自身と当事者との「ほんのちょっと」の距離感を、 自分自身に問い続けることになるのかもしれない。

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