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「それで結局、何が言いたいの?」と思ってしまう自分へ

誰かの話を聞いていて、
「それで結局、何が言いたいの?」と思ってしまうことがある。

「こんな出来事が起きた」「あの人から、こんなことを言われた」
という事実や状況を踏まえて、
「自分は、こんな気持ちになった」「自分は、こう思う」
という感情を説明し、
たいていは、「あの人は、分かってくれない」「こうしてほしいけれど、それが叶わない」
などと続く。

それで、「結局、どうしたいのか?」という結論はないまま、
ああでもない、こうでもないと続くので、
聞いている私は、「それで、結局、何が言いたいの?」
と思ってしまう。ただ、それを口にしたら、相手は不愉快に思うだろうし、
関係性が壊れてしまうだろう。そう思って、黙って聞いていることが多い。

武田砂鉄・著「わかりやすさの罪」(朝日新聞出版)を読んで、
「それで、結局、何が言いたいの?」と思ってしまう自分自身を反省した。

著者は、次のように書いている。

 他者の想像や放任や寛容は、理解し合うことだけではなく、わからないことを残すこと、わからないことを認めることによってもたらされる。「どっちですか?」「こっちです」だけでは、取りこぼす考えがある。あなたの考えていることがちっともわからないという複雑性が、文化も政治も、個人も集団も豊かにする。

「わかりやすさの罪」P20

目の前にいる人は話を聞きながら、
私が「それで、結局、何が言いたいの?」と思うのは、
相手の話が「わかりにくい」時だ。
相手の話に、何らかの答えや結論、「分かりやすさ」を求めていると思う。

しかし、相手の話が「わかりにくい」のは、
その人の感情が高ぶっていたり、気持ちが揺れたりしていて、
「どうしたいのか」が分からない状態のまま、
話しているからだろう。

言葉にできないもの。
わかりやすい説明にできないもの。
そういうものがあるということを念頭に置いて、相手の話を聞く姿勢を持たないと
取りこぼすものがあるように思えてきた。

「それで結局、何が言いたいの?」と思ってしまう時は、要注意だ。
「分かりやすい」結論を手にいれることを急いで、
「分からない」ものを受け入れる余裕がなくなっている時かもしれない。


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