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BolDoux - Gil.



春を迎えに行くために、
私は〈神〉を生みだすことにした。




 例えば、こんなことを考えてみよう。

 この世界には〈神〉という存在がいて、みんながカミサマを信じているから、勧善懲悪、自己の矯正、正しい選択を行うことができると、みんな信じている。ありがたや、神さま。人は毎日のように、神に祈っている。

 どうか、幸せになれますように。
 どうか、あの人が幸せになりますように。
 どうか、不幸が私たちを襲いませんように———と。

 しかし、ニーチェが叫んでいたように、「神は死んだ」といえる。

 私たちが神社で祈りを捧げる、雲の上でありがたそうに膝を組んで腕組みしているカミサマは死んだと。

 これまでも、神はこの世界に降りてきて、苦しむ人々に、ひんやりとした手で両頬を挟むように救いの手を差し伸べてくれるわけでも、死にたがりの人類に憩いを与えてくれるわけでもなかった。

「そんなに苦しまなくてもいいんだよ」と、少しくらい微笑みかけてくれてもいいと思うのだけれど、神はじっと、私たちの様子を眺めているだけだ。

 救いの手は、ない。

 ひんやりとした手から神秘的な温かさを感じることも、優しい瞳の奥になだらかな憩いを夢みることもない。

 ただあるのは、乾ききった現実だけで、これまでの歴史を見てみても、そこに存在していたのは優しい神による救いではなく、血を伴う自己超克だけだ。

 あらゆるものに、犠牲が伴ってきた。

 そういう、手痛い失敗と、少しの改善の積み重ねだけが、人類の歴史なのだ。

「神は死んだ」なんてセンセーショナルなことを言い出したニーチェも、同じように救いを求めていたのかもしれない。彼は人の生き方を示しておきながら、最終的には発狂している。

 これじゃあ、説得力がない。

 与えられた人生のなかで、何をすればいいのか。

 どれほど深く考えても、全てを放り出して真っ新になってみても、結局何も分からない。ただあるのは、日々の生活だけだ。

 私たちに存在しているのは、刻一刻と過ぎ去っていく、愛しき日々を、大切に生きていくことだけだ。「勝手に生きりゃあいい、好きにしなさい」というのが神の啓示なのかもしれない。

 ———人は、神なしでも、生きていける。

 今、神の存在が揺らいでいる。ニーチェは「神は死んだ」といったが、その通り、神なき時代に人は、生きている。それが私たちだ。

 ニーチェが言っていることは正しい。恐らく。

 あくまで、〈超自然的な存在としての神は〉というふうに意味は限定されるが、神は科学の進歩によって滅ぼされたといって間違いないだろう。

 そして、この世界では、神が消滅し、依存だけが残った。

 酒、たばこ、薬、他人、自分という存在———みんな、何かの幻に縋りつくように生きている。確かに、ニーチェは正しい。そう思わざるを得ない。それでも、私は思う。

 私たちは、ニーチェが殺した神を、復活させなければならない——と。



 ほんのり温かくて
 でも少しだけ儚いこの命に
 いつかきっと
 意味があったのだと
 そう思えますように

BolDoux Gil



「まぁ、とにかく。一つだけ確かなのは、君が『人を愛している』ということさ。自分が壊れてしまうほどにね」

「私が、人を愛している?」

「そうだ。その通りだ。話を聞く限り、君はどうしようもなく、人が好きなんだと思うよ。これまでどんな思いで生きてきたのか、正直今の私には分かりかねない。だって、さっき会ったばかりだからね」

 でも、といって彼は続ける。

「君より二十年多く生きている年配者として、一つだけアドバイスをしておく。君は、この先何があっても、その感覚を殺してはいけない。絶対にだ」

「絶対に?」

「そうだ。君は、君の持っている『人が好きだ』という温かい感情によって、ずっと苦しめられてきたし、その分溢れんばかりの幸福も享受してきた。そうだろう?」

「その通りです」

「私が君を称えたいのは、何があっても、その感覚を腐らせずに、今も持ち続けていることだ。ただ、その感覚は、長い時間をかけて失っていくものなんだよ。その年でまだ持っているのも珍しいが、これから持ち続けていくのは同じくらい難しいことだ」

 その男——菊地とネームプレートには記されている——は黙ってグラスを磨き、出来上がったラ・フランスを注いで渡してくれた。ありがとうございます、と軽く頭を下げる。

「君は、君の生みだした〈神〉に会いに行かなくてはならない」

 グラスを渡すなり、その男はしばしの間、黙り込んでしまった。糸を張り詰めたような静寂が店内を包む。

「神に、会いに行く?」

「これは何も、マクベスに出てくる魔女の予言のようなものではないよ。私は非科学的なものは信奉しない主義なんだ。しかし、これは確実だ。君は、君の生みだした〈神〉に会いに行かなくてはならない

「…………その〈神〉っていうのは、どうやったら会えるの?」

「文章を書きなさい」

「文章を書く?」

「そうだ。詩でも、エッセイでも、小説でも、日記でも、なんでもいい。自分の内側に存在しているものを外に吐き出し続けるんだ」

 文章を書くことと、神に何の関係があるのだろうか。

「君は、君自身の気持ちに、割に正直なところがある。君は、君の意志で、君自身が最も満足のいく人生を歩むことができる。それに加えて、周囲の人たちを幸せにする力も秘めている」

「それが、神に会うということなんですか?」

 今までぼんやりとしか目を合わせていなかった菊池の目線が、鋭く私の瞳孔を刺した。

「いいかい、これはいつか必ず思いだしてほしいんだが、人は生まれてすぐから人格発達の初期段階にかけて、心に大きな穴が開く。それがどのようなものなのか、人によって違う。だが、とにかく、人は人格発達の初期段階に心に大きな穴が開くんだ。そのとき、人は自身の人格の中に〈神〉を生みだすんだ。それは一種の自己防衛本能のようなものだ。心に大きな穴が開く際に、人は当時の自分を保護するためにさまざまな回避行動を社会で取るようになっていく。そこから少しずつ、人生が歪んでいくんだ。そして、時間が経つにつれて大きな穴の存在なんて普段の生活のなかで意識しなくなっていく。君みたいな度を超えて正直なやつ以外は、穴を放置したまま死んでいくんだよ。君は、その穴をふさぐことができるかもしれない、割と珍しい人なのさ」

「それが、満足のいく人生を歩む、ってことなの?」

「そうだ。人は幼少期に受けた命題を、無意識下で一生追い続けることになる。君の場合、『人を愛す』ということが、永遠命題なのさ。君は人に裏切られ続けてきたが、それでも君は自分を曲げられないんだよ。これは、どう足掻いたって逃げられるものではない」

「つまり、どういうこと?」

「だから、何度も言っているように、君は今から会いに行くんだよ。君が生み出した、君だけの〈神〉にね——。覚えておきなさい。何事においても、大切なものは君の〈意思〉だよ。大層なものでなくても良い。ただ、自分のなかにある意思を尊重してあげることだ。そして、正直であること。君は、割に正直だから。君ならできると、信じているよ」




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